平和憲法の危機に平和学はどう向き合うか
川崎哲[1]
平和憲法を根本的に転換する集団的自衛権行使容認の閣議決定が、去る7月1日に強行された。憲法の原則がかくも簡単に転換されて、脱力感を覚える向きもあ ろう。この問題について「平和」の言論や研究に携わる者は、これから何を論じていくべきか。筆者は今年6月に「集団的自衛権問題研究会」を発足させ月1回 のニュースを発行している(http://shudantekijieiken.blogspot.jp/)が、その活動等を通じて考えたいくつかの論点について提起したい。
平和憲法と集団的自衛権をめぐる問題には、三つの次元がある。第一は、武力行使と憲法、国際法の関係である。第二は、日本と米国、アジアの外交関係である。第三は、日本における民主主義の問題である。
非軍事の価値を実証的に論ずる
第一の武力行使と憲法、国際法の関係とは、こうである。第二次世界大戦後、国際社会は戦争の違法化を試みてきた。武力行使は原則として禁止され、例外的な 場合にのみ厳しい条件下で許されることとされた。しかし日本国憲法と国連憲章を比べた場合、武力行使については日本国憲法のほうが国連憲章よりも一歩踏み 込んだ制約を課した。この制約をそもそもプラスととらえるのか、マイナスととらえるのか。
集団的自衛権の行使容認にもっとも積極的といわれる外務省の国際法局は、日本の基準を国連憲章の基準に合わせるのだと説明している。制約はマイナスだという立場だ。
これに対して、武力行使への厳しい制限はプラスだという立場からは、そのプラスを具体的かつ実証的に論ずる必要がある。この部分の議論が日本においては弱い。
日本の平和憲法は、よくコスタリカと比較される。コスタリカについては、徹底して「軍隊を持たない」と定めた憲法がよく知られているが、同国がおこなって いる国際的な取り組みは意外に注目されていない。2008年、コスタリカは非常任理事国として国連安保理で「軍事費と軍備の規制」に関する会合を主催し た。国連憲章26条に従う多国間の軍備規制についての議論を促したのである。そしてコスタリカ・コンセンサスと呼ばれる、途上国への開発援助を軍事費削減 と環境保護に結びつける多国間合意の提案をおこなった。このような具体的で国際的な提案が、日本から発せられたことがあっただろうか。
武力行使を抑制し非軍事主体による国際協力は、理念的に「良い」というだけではなく、現実的なメリットもある。コスト(財政的、人的)面や持続可能性であ る。さらには、平和国家としての道義的優位性が、多国間の軍縮交渉を主導する力につながり、それは結果的に主導国の安全保障にもプラスになりうる。
たとえば、北東アジア非核兵器地帯構想は、非核化が「良いこと」だから進めるべきだという一方、それを通じて中国や北朝鮮からの日本への脅威を現実的に削 減することにもなる。さらに、イスラム国の情勢に象徴されるように、今日の武力紛争が国家対国家の古典的な戦争形態をはるかにこえているなかで、古典的な 「自衛権」や「国防力」という考え方だけでは対処できないのは明らかだ。軍事力の役割について再検討する好機である。
日本ナショナリズムと米国、アジア
第二に、日本と米国、アジアの外交関係である。安倍晋三首相が特異な右派的性格を持っていることから、集団的自衛権を含む一連の安保政策は「日本軍国主義の復活」と受け止められ、領土問題と絡み合いながらこの地域の緊張を高めている。
しかし一連の動きは同時に、1990年代後半から積み重ねられている日米安保協力拡大の流れの一環でもある。復古調ともいえる日本軍事化の流れと、実務的 な日米安保協力拡大の流れ。歴史問題をめぐっては相反さえするこの二つの流れが、どのように共存し、相互作用を働かせているのか。この点の分析は重要であ り、今後の展望にもつながる。
米国が日本により大きな負担を求める背景には、これ以上軍事費をかけられない経済事情がある。しかし、だとすれば、それは日本も同じ事情のはずである。安 倍政権は集団的自衛権の容認に伴い、ミサイル防衛、武器輸出、宇宙開発などを通じて、官民共同の軍事化路線をとっているように見える。それは今後何を生み 出すのか。そもそもその路線には、政治的また経済的に「勝算」があるのかも問わなければなるまい。
アジアとの関係では、「戦後70年」を迎えるなかで、ここまで悪化してしまった日本と近隣諸国の関係をどう再構築するかという課題がある。「平和」勢力と しては、河野談話見直しの動き等にはしっかりと批判を続けるべきであるが、同時に、近年のメディア論調にも影響されて、日本国内における「歴史論争疲れ」 が起きていることも認識をしなければならない。すなわち、戦争をあからさまに賛美する極右的議論は支持しないとしても、外交上の駆け引きとして歴史問題が 政治利用されているように見えることに対する、日本国民からの反発または嫌気という問題である。単に戦後50年の不戦のコミットメントを維持・継続すべき だという議論では、「復古」勢力には対抗できないだろう。
対岸のナショナリズムの高揚をみながら、それへの反発が、こちら側のナショナリズムも昇華させていく。その相互作用が国家間の「安全保障のジレンマ」にも つながっている。この構造を解きほぐし、ナショナリズムをこえる地域「共通の安全保障」を説得的かつ魅力的に提示できるかどうか。これが、昨今のアジア外 交をめぐる議論の膠着を打開する鍵となろう。
お任せ民主主義を克服できるか
第三の日本の民主主義の問題に関しては、立憲主義の危機が多くの法学者によって既に論じられてきた。憲法によってしばられるはずの政府が憲法の根幹に関わる解釈を勝手に変更してしまったのであるから、政治的クーデターとも呼ぶべき深刻な事態である。
これに対して、二方向の取り組みが提起されている。一つは、政府が勝手におこなった解釈改憲は無効であるということを裁判を通じて確認しようと試みるも の。もう一つは、既に変えられてしまった憲法解釈の上にあっても、実際に政府や自衛隊に与えられる権限についてはこれから関連法審議がおこなわれることか ら、その立法過程で最大限のしばりをかけることを論ずるものである。この二つは相互排他的なものではない。
現実的には、後者すなわち関連法整備に関する国会の動きをしっかりと監視し、議論を深めることがきわめて重要だ。関連する日米防衛ガイドラインの改定をめ ぐっては、日米政府間で、また日本国内においては与党内(自公間)で意見の相違があり、作業が遅れていることが報じられている。政府において具体論に関す る一致がない状態なのであれば、「平和」勢力の側からのしっかりとした議論を提示することによって、一定の影響を与えうる。
一方で、政府がかくも法的手続きを無視し勝手な行動をとっていることを支えている社会的背景についても直視しなければならない。そこには、無関心あるいは 格差社会のなかで「それどころでない」日常のためにくる投票率の低下、政治のタレント・ショー化や、いわゆる「お任せ民主主義」現象がある。安保法制懇の 報告書に示されていたように、解釈改憲推進論者たちは「国の安全保障のためには、権限を国に委ねなさい」という基本的なメッセージを国民に発している。こ れに対して、それを一定程度許容する空気がじわじわとこの社会に広がりつつある。これは、先に言及したナショナリズムの台頭と関係がある。日本の民主主義 の内側からの腐食が進行しているといえる。
集団的自衛権の行使容認について、世論調査が示しているのは、おおむね国民の6~7割が反対または懸念し、2~3割が賛同しているというものである。この 2~3割の賛同について、その背景と論理を分析していく必要がある。これらについての地に足のついた分析と提言なくして「そもそも憲法はかくあるべし」と の議論だけでは、今日の社会的要請には応えられないだろう。