日本平和学会2019年度秋季研究集会
インドネシア・アチェ州におけるイスラーム刑法と女性・性的少数者
名古屋学院大学
佐伯奈津子
キーワード:イスラーム、女性、性的少数者、ジェンダー、普遍的人権原則
はじめに
東南アジアで最初にイスラームを受容し、「セランビ・メッカ(メッカのベランダ)」と呼ばれるインドネシア・アチェ州は、マラッカ海峡に面し、インド洋に向かって開けていることから、ヨーロッパ=中東=インド=中国を結ぶ交易の中継地点として栄え、多様な民族・文化が融合する開かれた社会であった。しかし、近年、イスラームの名のもとに、普遍的人権原則に反するような権利の制限や少数者への不寛容・排外主義が高まっている。
1.アチェ紛争とイスラーム法適用
アチェでイスラーム法が適用されるようになったのは、「ナングロー・アチェ・ダルサラーム州としてのアチェ特別州への特別自治に関する2001年法律第18号」施行以降のことである。アチェでは1976年よりインドネシアからの独立運動が存在、インドネシア国軍による軍事作戦が展開されてきた。1998年のスハルト退陣後、軍事作戦による人権侵害が国内外で批判され、また当時の改革・民主化の流れから、インドネシア政府はアチェ問題の解決を迫られる。メガワティ・スカルノプトリ政権で出された解決策が、アチェに対して、イスラーム法適用を含めた広範な自治権を与えるというものだった。
インドネシア政府は、アチェ問題を民族解放や人権よりイスラームの文脈で理解しており、アチェでイスラーム法を適用することによって、問題を解決できると考えていた。しかし、このイスラーム法適用に対して、自由アチェ運動も市民社会も強く抗議した。第一の理由は、そもそも独立闘争は、天然資源収益の分配をめぐって起きたものであり、また闘争の拡大はインドネシアによる人権侵害が原因であり、イスラーム法適用では問題は解決されないというものだった。第二に、アチェがイスラーム原理主義者、イスラーム過激派であるというスティグマを押すことによって、インドネシア政府がアチェに対する国際社会の支援を断とうとしているというものであった。自由アチェ運動は、1950年代にアチェで起きたダルル・イスラーム反乱とは異なり、民族解放を目的としており、とくにスハルト退陣後は、国際社会の支援を受けるため、人権を前面に出していた。
2.紛争後のアチェにおける新たな暴力
しかし、2004年末のスマトラ沖地震・津波で甚大な被害を受けたことをきっかけに、2005年8月、インドネシア政府と自由アチェ運動の和平合意が結ばれたあとのアチェでは、これまでと異なる傾向がみられるようになっている。シャリア警察(WH=Wilayatul Hisbah)による取締りや、イスラーム法に違反した人への鞭打ち刑がおこなわれるようになり、地方ごとに女性の服装、男女が同じテーブルで食事をすること、女性のバイクの乗り方などが規定されるようになった。LGBTなど性的少数者やセックスワーカーが拘束されたり、パンク青年が拘束・再教育されたり、キリスト教会が閉鎖されたり、イスラームの名のもとに、普遍的人権原則に反するような権利の制限や少数者への不寛容・排外主義が高まっている。和平合意後、アチェは永続的な平和を求めて歩み出したが、むしろ新しいかたちの暴力が発生している。
3.イスラーム刑法に対するアチェ社会の反応
なかでも「イスラーム刑法に関する2014年カヌン第6号」(カヌン・ジナヤット)は、アチェ社会で賛否両論、物議を醸すものであった。推進派は、アチェ人自身から「ウィルスのような反対の声」があることから、最大限に、もしくは完全にイスラーム法が実施されていないと考えている。これらの人びとは、カヌンや、各県知事の呼びかけが「地域の英知」であると主張する。カヌンになってはいない、地方ごとの呼びかけが「地域の英知」であり、よそ者が干渉することは許されないと主張する。
いっぽうの批判派は、イスラーム刑法に違反してもエリート・富裕層が罰せられない法の下の「不平等」、イスラーム刑法で対象とされるアルコール、賭博、男女関係など個人的な行動の取締り以上に、真実と和解委員会(KKR)や汚職撲滅、貧困削減など優先させるべき取り組みがあることを指摘する。またシャリア警察による処女テスト、公開での鞭打ち刑などが人間の尊厳を傷つけるものだとも批判している。しかし、これら批判派も同性間の性行為に対する取締りについては、アチェ社会の反発を恐れて沈黙しており、とくに性的少数者への支援は困難となっている。
4.性的少数者とセックスワーカーの置かれている状況
タブー視され、不可視化されているが、アチェにも性的少数者やセックスワーカーは存在する。筆者がインタビューした性的少数者やセックスワーカーの多くは、子どものときインドネシア国軍兵士にレイプされたり、軍事作戦で夫を殺害されたりした経験をもつなど、アチェの内戦や貧困と大きく関わっている。これらの人びとはアチェ社会で受け入れられることなく、病気の予防や避妊に関する正しい知識や情報や支援にアクセスもできず、HIV・エイズに感染したり、望まない妊娠をしたりするケースも多い。
今後は、歴史、文化、伝統、宗教にもとづいたアチェの独自の価値を尊重しつつ、少数者の権利を保障する普遍的人権原則をいかに確立できるのか。市民社会の役割について研究を継続したい。
参考文献
- Human Rights Watch (2010), “Menegakkan Moralitas: Pelanggaran dalam Penerapan Syariah di Aceh, Indonesia”
- Universiteit Leiden (2013), “Regime change, democracy and Islam: The case of Indonesia”