阿賀野川・信濃川の水力発電形態と新潟水俣病

日本平和学会2019年度秋季研究集会

 

阿賀野川・信濃川の水力発電形態と新潟水俣病

――「民衆の自然観」と「国家の自然観」の軋轢――

 

新潟大学名誉教授

大熊 孝

 

キーワード:阿賀野川、信濃川、水力発電、新潟水俣病、民衆の自然観、国家の自然観

 

はじめに

 明治時代に近代的科学技術が導入されてから、富国強兵・殖産興業を急ぐあまり、自然は収奪と克服の対象となった。いわば「国家の自然観」のもとで、日本の自然は「国土」と捉えられ、その開発が進められた。それまで、庶民は身近な自然と共生し、自然に生かされていることを自覚しながら生業を立てていた。日本人であれば誰もが「山川草木悉有仏性」で表現される自然観を有しており、これがいわば「民衆の自然観」であった。

 その「国家の自然観」と「民衆の自然観」が、明治維新以後の150年間、軋轢を起こしながら進展した。足尾鉱毒事件(1885年顕在化)、水俣病(1956年確認)、新潟水俣病(1965年確認)そして2011・3・11福島原発事故などは、その軋轢の象徴といえる。

 

1.発電専用の川になった信濃川・阿賀野川

 信濃川も阿賀野川も徹底した水力発電開発が行われ、いわば発電のためだけの川になっている(図参照)。しかも、その電力はほとんど関東に送られ、地元で消費されることは少ない。阿賀野川沿いの磐越西線(1914年全通)、只見川沿いの只見線(1971年全通)、信濃川沿いの飯山線(1929年全通)は、いずれも電化されていない。

 信濃川も阿賀野川もかつては最上流近くまで鮭や鱒が無数に遡上しており、川沿いの住民にとって縄文時代以来重要な食糧となっていた。それが絶滅させられたのである。

 

2.新潟水俣病の発生

 阿賀野川では17基のダムがあるが、その最初に造られた鹿瀬ダム(1928年竣工、堤高32.6m)の電力は、地元開発型で昭和電工でアセトアルデヒドの製造に使われ、廃液として有機水銀が垂れ流され、新潟水俣病(1965年確認)の発生原因になった。

 足尾鉱毒事件(1885年顕在化)や熊本水俣病(1956年確認)も、近代文明によって人と自然の共生関係が断ち切られたがゆえに発生したものであるが、そのことへの認識の怠惰が阿賀野川での水俣病を再発させてしまったのである。

 

3.宮中ダム増強計画とJAPIC計画、そして柏崎刈羽原発計画

 今から約40年前に、信濃川・宮中ダム(当時国鉄,現JR東、1939年完成)の取水量増強計画、信濃川の水を利根川に送水する「関越総合水資源開発計画」(通称JAPIC計画、1979年)、そして東京電力の柏崎刈羽原子力発電計画(1984年運転開始)、が同時並行で進んでいた。これらの計画は、越後出身の総理大臣・田中角栄(1918~1993)が背後にいて強力に推進していた計画であった。1974年12月に田中首相が辞職に追いやられたが、彼が政策として掲げた日本列島改造論(1972年)が沸騰していた時期でもあり、まさに「国家の自然観」が吹き荒れていたともいえる時代であった。

 JAPIC計画は、田中角栄と反りの合わなかった新潟県知事君健男(1911~1989)が1987年に「関東分水影響調査検討委員会」(委員長・茅原一也新潟大学教授、大熊も委員になった。)を組織し、反対論を打ち上げ、計画の実行を阻止した。ただ、柏崎原子力発電と宮中ダムの取水量増強は実行された。田中角栄は三兎を追って、二兎は得たのであった

おわりに

 近年、世界的にはダム撤去が行われており、日本では熊本県企業局の発電専用の荒瀬ダム(堤高25m、1955年完成)が2018年3月撤去された。信濃川・阿賀野川の多くのダムが、荒瀬ダムと同規模であり、撤去は不可能ではない。水力発電はクリーンエネルギーといわれるが、無数の生物と川沿いの住民を犠牲にしてきた。このまま「国家の自然観」を押し通すか、「民衆の自然観」を再興するかが問われている。

 

参考文献

 関東分水影響調査検討委員会[1988]、「関東分水影響調査報告書」。

 只見町[1998]、「尾瀬と只見川電源開発」、只見町史資料集第3集。

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