日本平和学会2019年度秋季研究集会
新潟は「国策」とどう向き合ったか
新潟日報社論説編集委員
横山志保
キーワード:柏崎刈羽原発、巻原発、信濃川水力発電、新潟日報、中央と地方
はじめに
「新潟県は明治時代から、人や物資を首都圏に供給してきた。そして東京をはじめとする首都圏の電源地としての宿命を背負わされてきた」(新潟日報社 2017:69)。大正時代から、信濃川による水力発電、その後柏崎刈羽原発も加わり首都圏の電力需要を支えてきた。地域住民はこうした、エネルギーを求める動きを「国策」として、従順に受け入れてきたのだろうか。地元首長が強硬に反対した国鉄の信濃川小千谷第二発電所を巡る新潟日報の一連の報道と、二つの原発を巡る動きが活発だった1970年代の新潟日報の企画特集「新潟の原発」シリーズを手がかりに、本県が国策とどう向き合ってきたのかを検討する。
1.信濃川水力発電
1983年、信濃川に妙見堰と国鉄(当時)小千谷第二発電所を建設するという構想が明らかになる。新たな水力発電のための取水の影響を懸念し、十日町市長はこれに強く反対。当時の新潟日報紙面に「角さんが推進でも反対」という見出しがある。この時期、発電所を巡る駆け引きの記事には、各首長の動向に加え、県選出の国会議員の名前が頻繁に登場する。最終的には、国鉄側が十日町市に一部の水利権を認めることで合意し、1990年に完成。「1、2期(昭和6ー19年)の国策工事では反対することもままならなかったが、今回の5期工事では、自分たちの言いたいことが言えた」という地元住民の声が取り上げられている。その後は水を取り戻そうとする住民の活動に報道の主体が移った。
2.「新潟の原発」
1976年にスタートした大型企画「新潟の原発」は、国による設置許可の審査が進む東京電力柏崎刈羽原発と、地元の合意形成の取り組みが続く東北電力巻原発を取り上げた。地域住民の懸念の声を報じているほか、地盤論議などにも正面から向き合った。柏崎刈羽も巻も、推進と反対に地域が二分しつつある状況下で、双方の当事者の意見を取り上げる努力が目立つ。キーパーソンを取り上げた連載「柏崎をめぐる群像から」でも、推進、反対のバランスを取っている。一方で、連載の見出しには「密室」「ごり押し」など国や東電の対応を批判する言葉が目立つ。1979年には米スリーマイル原発事故を受けた連載「安全神話の崩壊」を展開し、原発の安全性に疑問を投げかけた。原発の安全神話への問題提起はその後、2007年のシリーズ企画「揺らぐ安全神話」へとつながる、大きなテーマとなっていく。
おわりに
今回取りあげた2つのケースの報道を見る限り、新潟日報を挙げて建設反対の大きなキャンペーンをしたという形跡はない。賛否両論を取りあげ、一見中立性を守っているようにも見える。ただ、例えば田中角栄の影響力が強かった1970年代に「検証・田中型政治」のキャンペーンで、信濃川水力発電を取りあげ、「新潟の原発」シリーズでも繰り返し電力会社や国の姿勢を批判したように、“中央”に対して物を言う姿勢はみられた。新潟日報の使命は「県民に寄り添」うことだという(新潟日報社 2017:13)。その観点から考えると、「国策」として推し進められようとした事業計画について、賛成、反対の意見は分かれていたものの、国や電力会社、国鉄(JR)に対する不信や不満は強くあり、地域住民は必要に応じてそれを表明していたといえるのではないか。
参考文献
新潟日報社編「川を上れ 海を渡れ-新潟日報140年」新潟日報事業社、2017年。