人世世/資本新世という危機におけるポスト・ヒューマニズムの政治

日本平和学会2019年度秋季研究集会

 

人世世/資本新世という危機におけるポスト・ヒューマニズムの政治

 

神戸大学

土佐弘之

 

キーワード:人間中心主義、人新世、資本新世、気候正義、反・再帰性、右翼ポピュリズム

 

はじめに ポスト・ヒューマニティをめぐる政治:類としての人間を超える/分割する

 約一三八億年、約四六億年、約四十億年、そして約七〇〇万年。それぞれ、宇宙の誕生、地球の誕生、生命の誕生、そして人類の誕生から経過したと推定される時間だ。四六億分の七〇〇万、つまり約千分の一と考えれば、地球の歴史全体からすれば人類の歴史は極めて短いものといえよう。そして今、その人間活動によって引き起こされた地球温暖化などの地球システムの危機から、過去に五回あったとされる生物の大量絶滅と同じような破局的な現象、第六次大量絶滅が起きるのではないかと言われはじめている(Kolbert 2014)。実際、気候変動(地球温暖化)、生物多様性の喪失、窒素・リンや人工的化学物質による汚染、成層圏オゾン層の破壊、海洋の酸性化などを通じてプラネタリー・バウンダリー(惑星的限界)が可視化されつつある(Rockström and Klum 2015)。もちろん人間活動がその限界を破り地球システムの危機を招来し自らの絶滅を引き起こしたとしても、耐性のある生物、少なくともバクテリアなどは生き残り、また、そこから新たな生命進化の歴史が刻まれる可能性はあるが、少なくとも、作家のアラン・ワイズマンが描いたような『人類が消えた世界(The World Without Us)』がリアリティを帯びつつあることは確かである。絶滅(extinction)というキーワードがアカデミズムの世界でも切実感をもったバズワードになりつつある一方で(Colebrook 2014; Rose et al. 2017)、その不安感を梃子に人々にレジリアンスを求めながら、(炭素排出取引に見られるように)不安さえも利益に還元し資本蓄積に組み込もうとするネオリベラリズムの統治も見え隠れする(Evans and Reid 2014)。そうした文脈の中で、ポスト・ヒューマニティといったこともさかんに議論されるようになってきているが、ここでは、そうしたポスト・ヒューマニティをめぐる政治を中心に考えてみたいと思う。

                  (中略)

 簡潔にまとめると、ポスト・ヒューマニズムとは、「イデオロギーとしてのヒューマニズム」がネオリベラル資本主義の矛盾の累積とともに一層の行き詰まり状態に追い込まれていく中で立ち現れてきた思想・政治で、一つは、批判的ポスト・ヒューマニズムといわれるもので、「類としての人間を超える思想・政治」である。その一方で、「類としての人間を分割する政治・思想」、つまり差別主義をあえて前面に押し出すネガティブなポスト・ヒューマニズム(反ヒューマニズム)が右翼ポピュリズムの隆盛と連動する形で勢いを増してきている。現実の政治においては、後者のネガティブなポスト・ヒューマニズムが次第にヘゲモニーをもちつつあるようにさえみえる。しかし、前者の批判的ポスト・ヒューマニズムが後者に押し切られた時、本当の意味でのカタストロフが到来することになるのは言うまでもないであろう。それを避けるためにも、類としての人間を超える思想・政治の方向性、少なくとも人間以外のモノを人間にとっての道具としてしか見ない「頑なな人間中心主義」から人間以外のモノに内在的価値を認める「弱い人間中心主義(Hargrove 1992)」への転換の道筋を探るとともに、それを阻む「強硬で排他的な人間中心主義」とその亜種である「類としての人間を分割する政治」を精査し、それを克服する端緒を掴む必要があるであろう。

    * *      *

 本報告では、以上のような問題意識を前提に、人新世という危機においてポスト・ヒューマニズムの政治が直面している問題点について、チャクラバルティの論攷を叩き台にしながら、類としての人間にこだわることの罠などについてエコ・マルクス主義の知見を補助線にしながら考察していく。

 概略は下記の通り。(なお、議論の詳細、参考文献等について興味のある方は、ペーパーを参照してください。)

 

1.<人間の歴史/自然の歴史>という分節化の問題

2.人の間における不平等の問題:人新世から資本新世への視座転換

3.物質代謝論の射程と限界:エコ・マルクス主義の論争(二元論/一元論)を超えて

4.反・再帰性の政治:右翼ポピュリズムと気候変動説否認の連動 

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