東アジアの記憶の場の探求 ――朝鮮人「満洲」移民研究のフィールドからの問いかけ――

日本平和学会2019年度秋季研究集会

 

東アジアの記憶の場の探求

――朝鮮人「満洲」移民研究のフィールドからの問いかけ――

 

社会理論・動態研究所

朴 仁哲

 

キーワード:東アジアの記憶の場、朝鮮人「満洲」移民、朝鮮半島、「満洲」、ナラティヴ(語り)

 

はじめに

 かつての「満洲」地域であった中国の東北地域には、戦前、朝鮮半島から移住した朝鮮人「満洲」移民の体験者(以下、移民体験者)が、今でも居住している。移民体験者は、植民地朝鮮時代、「満洲国」時代、中華人民共和国時代という三つの時代を生き、戦前・戦後の(日本と中国の)国民国家から周辺化されてきた。その周辺性(マージナリティ)のゆえに、移民体験者の移民体験と戦後の生活は、今までほとんど注目されてこなかった。本報告では、私が日中韓の様々な現場を訪ねて、見たことや聞いたこと、そして感じたことについて報告する。

 

1.フィールド・ワークの実施状況

(1)実施状況

 私は2006年から継続的にフィールドワークを行い、今まで約100名の移民体験者にインタビューを行ってきた。また、戦前生まれの移民二世複数名にもインタビューを行った。そして、特殊な事例もあった。例えば、元義勇軍兵士やシベリア抑留体験者にもインタビューを行った。移民体験者の生活史を多角度から分析するために、適宜に同時代を生きた日本人と中国人(漢族)、そして韓国人の戦前世代にもインタビューを行った。さらに、連鎖視点 に基づいて、インタビュー調査のほかに、移民体験者がかつて生活した地域や「満洲」に降り立った駅を訪ねたり、移民体験者を送り出した朝鮮半島の移民母村を訪ねたり、日本国内を含む戦争遺跡や平和記念館なども訪ねたりして資料を取集した。

(2)フィールドワークを通して分かったこと

①移民体験者のほとんどは、朝鮮半島から「満洲」に移住したことを子孫に直接伝えていない。

②「満洲国」成立後、国策移民で特に「集団移民」の場合は、「満洲国」の官憲が元々その場所に暮らしていた中国人を追い出して朝鮮人を移住させる地域もあった。

 

2.本研究の依拠する理論

 現在、記憶の概念が人文社会科学で重要視されているのは、フランスの歴史学者であるピエール・ノラが率いるプロジェクト『記憶の場』の役割が大きいと考えられる。ピエール・ノラは、その著書『記憶の場(第1巻)』のなかで、記憶の場は「場」という語のもつ3つの意味――物質的な場、象徴的な場、そして機能としての場――においての場であるといえる。また、程度は異なれ、そのいずれの属性をも持っている。3つの場が相互関連している例として「世代」を挙げている(ノラ2002:48)。ノラによれば、「世代は、人口上のことを指し示すがゆえに物質的である。また、記憶の結晶化も伝達もおこなうがゆえに機能的であると考えられる。そして、ごく少数のものたちが経験した出来事や体験によって、それを経験しなかった多数の者たちを性格づけるがゆえに、本質的に象徴的である(ノラ2002:48)」という。ノラの「記憶の場」の概念に依拠すれば、移民体験者は、物質的な場、象徴的な場、そして機能としての場を備えているといえよう。

 ノラの記憶の場の理論は重要である。しかし、ノラは記憶論的転回のポストコロニアルな可能性を汲み出すことなく、記憶の問いに対して防衛的な姿勢に閉じこもってしまった(板垣他2011:18)。朝鮮人「満洲」移民問題は、植民地と戦争と関わっている問題である。移民体験者は、三つの時代を生き、日中韓3国の複雑な関係を1国1民族でとらえないトランスナショナルな視点を持っている。朝鮮人「満洲」移民という歴史的現実は、日本と関係すること、中国と関係すること、韓国と関係することなど、単純に切り分けられない。それで、本研究では板垣他が提起した東アジアの記憶の場という概念を導入した。板垣他は、「日本では、……、韓国では、……、と単純に切り分けられない場所、あるいは複数の『国民的』記憶の場の間にある溝のような非‐場所、『どこ』にも属さない話、闇の位置におかれたもの、そうした国民的な記憶のエコノミーから外れた経験を思考することなくして<東アジアの記憶の場>を論ずることはできない」(板垣他2011:21-22)と言及したうえ、<東アジアの記憶の場>を、「安定的な記憶の共有モデルを不安定にさせ、見慣れたもの見慣れないものにするような、絶え間ない批判の運動である」と述べる(板垣他2011:22)。

 

3.東アジアの記憶の場を探求する意義

 朝鮮人「満洲」移民という歴史的現実を東アジアの記憶の場としてとらえた場合、様々な発見が得られる。

第1、朝鮮人「満洲」移民は日本の植民地統治の「被害者」であったが、中国の民衆には日本人の手先と見なされていた。朝鮮人と日本人との関係に限定してみれば、朝鮮人「満洲」移民は「被害者」であるといえよう。しかし、朝鮮人と中国人との関係でみれば、朝鮮人「満洲」移民は「加害者」の部分もあった。戦前、「満洲国」の官憲が元々その場所に暮らしていた中国人を追い出して朝鮮人を移住させる場合もあった。その意味で、本研究が着目する東アジアの記憶の場は、連累 の場でもあるといえよう。

第2、移民体験者の語りは、朝鮮族という小さいコミュニティを越えようとしていることが分かった。1つはインタビューは朝鮮語をメイン言語としながら、随所に中国語と日本語を織り混ぜて複数の言語で行われた。そのことに示されているように移民体験者の語りは、朝鮮族のコミュニティのなかだけで流通する閉ざされたメッセージではなく、東アジア社会が共有できる開かれたメッセージが含まれている。もう1つの兆しは、移民体験者が自分を名付ける自称詞に表れている。移民体験者が用いる自称詞は、チョウセンジンや朝鮮族ではなく、チョソンサラム(조선사람)である。チョソンサラムは朝鮮語による朝鮮人の意味である。この呼称は中国朝鮮族だけを指す言葉でもなく、韓国人だけを指す言葉でもなく、北朝鮮民主主義人民共和国の人々だけを指す言葉でもない。強いていえば、世界中に散らばって暮らしているコリアン・ディアスポラの人々に広く使われているニュートラルな呼称である。このようにインタビューのなかで複数の言語が飛び交い、紡ぎ出されたナラティヴ(語り)は、東アジアの記憶の場であり、「平和資源」 でもあると考える。

 

おわりに

 人間を相手とする研究は、遣り甲斐はあるが辛いものでもある。移民体験者はほとんどが80歳を超えており、段々と歴史の表舞台から去っていく。私が7回に渡ってインタビューした移民体験者のLDさんは、2013年に亡くなった。LDさんはあるインタビューの場で、「わたしたちの対話は3.14のように続いているね」と語った。LDさんをはじめ、私がインタビューを行った約半数の移民体験者との物理的な対話は途切れた。最近、死者との対話という新しい領域が開拓されている。今後の課題として、これらの研究に学び、亡くなった移民体験者の様々な遺物や遺言から過去の記憶を読み取る作業に取り掛かり、またできる限り、生存する移民体験者へのインタビュー調査を行い、東アジアの記憶の場の探求を継続していきたい。

 

参考文献

  • 秋山聰・野崎歓(編)『人文知 2 死者との対話』東京大学出版会、2014年。
  • 板垣竜太・鄭智泳・岩崎稔(編著)『東アジアの記憶の場』河出書房新社、2011年。
  • 小田博志『エスノグラフィー入門――<現場>を質的研究する』春秋社、2010年。
  • モーリス=スズキ,テッサ(田代泰子訳)『過去は死なない』岩波書店、2004年。
  • ノラ,ピエール編(谷川稔監訳)『記憶の場』第1巻、岩波書店、2002年。
  • 山室信一『日露戦争の世紀――連鎖視点から見る日本と世界』岩波新書、2005年。
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