ガンディー思想の現代的意義について ――竹中千春『ガンディー』(岩波書店、2018)に触発されたこと――

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日本平和学会2019年度春季研究大会:「非暴力」分科会・報告レジュメ 

テーマ「ガンディーの思想は現代のわれわれに何を問いかけているか?」

ガンディー思想の現代的意義について

――竹中千春『ガンディー』(岩波書店、2018)に触発されたこと――

立命館大学非常勤講師

藤田 明史

キーワード:なぜガンディーか、方法、サッティヤーグラハ、マハートマ・ガンディーからモーハンダースへ

 

はじめに

 モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー(1869-1948)は、深層の思惟と何よりも行動の人であったから、哲学や社会科学の体系的著作は残していない。ゆえに、彼の思想を多少とも知るためには、それをその行動からわれわれが読み取らねばならない。幸い、「真理に関する私の様々な実験の物語」(The Story of My Experiments with Truth)と副題が付いた『自伝』(An Autobiography)がある(1925年に書き始められ、27年に上巻、29年に下巻が、グジャラート語[ガンディーの母語]と英語で出版された)。そうした「実験」と、それが行なわれた歴史的・社会的状況とを照らし合わせることによって、われわれは彼の思想のいくばくかを掴むことができよう。しかし同時に、今、何故、ガンディーをとり上げるのかを明確にする必要があるのではないか。

 

・1998年5月11日と13日、インドが核実験を行った。私はピースデポ(設立97.11)が主宰する、緊急プロジェクト『印パ速報』の発信に携わった(98.6-8)。インド国内でも、たとえば「インドの核実験に関する人道主義的立場」(98.5)と題する声明には、「核不拡散体制は確かに差別的であり、水平的および垂直的核拡散を止めることに成功しなかった。……核不拡散体制の本質についてのインドの正当な懸念に同情的であった国も、このことを実験再開の言い訳とは認めないであろう」と述べられていた。そして、「ガンディーの国は世界における非暴力運動の先頭に立つ能力を失った!!」との悲痛な叫びで結ばれていた。

・2004年1月16日から同21日までインドのムンバイ(旧ボンベイ)で開かれた「世界社会フォーラム」(WSF)に私は参加した。アジア人を主体に世界から12万人の人々が集まった。私は、インドの抑圧された人々の中にガンディーが生きていることを実感し、当時、次のように書いた。「今回のWSFがインドのムンバイで開かれたことには、ガンディーの思想の継承という意味があったといえよう。……私は何人かのインド人に『ガンディーの思想はまだ生きているか』との質問をしてみたが、答えは例外なく肯定的であった。2002年3月にアグラで開かれたパグウォッシュ会議に出席した際、数人のインド人に同じ質問をしたが、その時は否定的な回答が多かった。これには1998年5月のインド核実験の影響を考慮しなければならないが、今後のWSFの運動においてガンディーの『アヒンサ』(非暴力)『サッティヤーグラハ』(真理把持)の思想が一定の重要な役割を担っていくであろうことは間違いない。」(「『世界社会フォーラム』の提起するもの」『技術と人間』2004.6)

・2008年6月、私は福井市美術館を訪れた。「ガンダーラ美術とバーミヤン遺跡展」を見るためであった。時間をかけて鑑賞したあと、何気なく常設展示「高田博厚の世界」に足を踏み入れた。そして、全く思いがけなく、ガンディーの頭像(1960)に向き合ったとき、それが放射する何かすぐれて精神的・神秘的なものに捉えられた。それはガンディーの複雑な「精神」(the Soul)との直接的な「出会い」であったと今も感じている。

 

(2)ガルトゥング平和学とガンディーの思想

ガルトゥング平和学は、暴力・平和理論および紛争理論を二つの柱としている。

・暴力・平和理論:「暴力」の否定としての平和

・紛争理論:「紛争の平和的転換」としての平和。「コンフリクト」(紛争)をどう捉えるか?

「コンフリクトを一つの挑戦として、知的にも感情的にも、目標状態の不両立性を紛争当事者への途方もなく大きな挑戦として」捉える、コンフリクトへの積極的な態度は、「否定的・破壊的な紛争態度や紛争行動を人が受容すべきことを意味しない。全く逆に、コンフリクトにたいする異なる見方を私は提唱したい。それは、最も偉大な人間精神の一人によってこの問題にかつて捧げられた見方に大いに繋がっている。私はガンディーのことを考えているのだ。彼の基本点のいくらかは次のようであろう。二当事者を遠く切り離すのではなく、不両立性をまさに共有するがゆえに、紛争は彼らを結び付けるのである。不両立性は、彼らを結合・連結する可視または不可視の紐帯として見られるべきである。なぜなら、彼らの運命は連帯しているからだ。不両立性を共有しているがゆえに、彼らはまた、その解決に共に努力すべきなのである。」(ヨハン・ガルトゥング「生き方としてのコンフリクト」[1969]、『ガルトゥング平和学の基礎理論』藤田明史編訳、法律文化社、近刊)

 

(3)アヒンサ(非暴力)とサッティヤーグラハ(真理把持)との関係についての私の仮説

 ガンディーは、対話的人間であった。「自分との対話」(内的対話)および「他者との対話」をつねに実行していた。内的対話の相手は自分の中の「もう一人の自分」である。その「もう一人の自分」は最も身近な「他者」でもあろう。そうした「もう一人の自分」=「他者」の極限の存在が、ガンディーにとっての「神」であったのかもしれない。

 ガンディーにとって、真理は、そうした対話からそして対話からのみ生まれる。そうであれば、対話こそが真理の源泉である。暴力はそうした真理の源泉を破壊するものにほかならない。ゆえに、真理把持には非暴力が不可欠となる。

 しかし、仮にそうだとしても、対話はつねに成立するだろうか? 対話が成立する根拠はどこにあるのか? 

 ガンディーは多言語話者(polyglot)であり、また、多宗教信者(poly-religious)であった。彼は、多言語の中に「同じもの」を見、また多宗教の中に「同じもの」を見たのである。異なったものの中に「同じもの」=「善」を見る能力のある限り、対話は可能である。そして、「同じもの」は、多様である。こうした能力の陶冶は、人間にとって、不易の課題でなければならない。

 

(4)現代への私の問題意識

 ジョン・ラスキン『この最後の者まで』批判後のガンディーの思想(『サルヴォダヤ』1909頃)と、ラスキンと同じくヴィクトリア時代のイギリス資本主義を分析したカール・マルクス(1818-1883)の思想(『資本論』1867)との関係は、どのようであるか? 現代において、マルクス的な革命ないし社会変革を、ガンディー的な非暴力で行うことは可能か? 

 

2.竹中千春『ガンディー 平和を紡ぐ人』に触発されたこと

(1)本書の問題提起

 「誰が平和をつくるのか。その人はどこから来るのか」(竹中千春『ガンディー』p.ⅰ、以下、頁のみ)。そして、「マハートマ・ガンディーの人生を辿って、その答えを探してみたい」(p.ⅰ)と著者はいう。きわめて平易な問いである。しかし同時に、現代にも通用する普遍的な問いでもある。本書の魅力ないし独創性は、この平易な問いに答えることの困難性にこそあると思える。ガンディー自身、次のように言っている――「真理を求める探究の手段は、難しい(difficult)と同時に簡単な(simple)ものである」(「序文」『自伝』)。

 

(2)方法:一人物の呼称の変化の中に彼の存在の意味を探究する

  モーハンダース    ガンディー    マハートマ・ガンディー 

 

 

・モーハンダース:青少年時代(1869-1893)

・ガンディー:南アフリカ時代(1893-1915)

・マハートマ・ガンディー:インド時代(1915-1948)

① モーハンダースからガンディーへ

 転機:「ガンディーが、より大きな公の世界へと身を投じていく『歴史の瞬間』」(p.23)

 1893年5月、弁護士としてガンディーは南アフリカのナタール港ダーバンに着く。1週間目、ダーバンを発ち、訴訟が進行中のトランスヴァールのプレトリアに汽車で行く。途中のマリツバーグ駅での出来事。巡査が来て、一等車両にいたガンディーは荷物と共に外に投げ出される。冬の夜。緯度が高く、冬の寒さは厳しい。

 「私は何をなすべきかを考え始めた。自分の権利を求めて戦うべきか、このままインドに帰るべきか、あるいは、この侮辱を放念して、まずはプレトリアに行き、訴訟の終結後にインドに帰るべきか。義務を未完遂のままにインドに逃走することは、臆病者の行為ではないか。私が蒙った困難は単に表面上のことであって、それは人種差別という深い病状の一症状にすぎない。できれば、この病状を抉り出し、その過程での困難を身に引き受けるべく努めなければならない。そうだ、悪の矯正を、人種偏見の除去に必要な範囲において、私は追及しなければならない。」(「プレトリアへの途上にて」『自伝』)

 彼は次に来る汽車に乗ることに決めた。ここには彼の思考の特徴がみえる。まず直感が、何をなすべきかを命ずる。預言者の面影。行動の目標が定まると同時に、それが拡散しないように細心の注意で限定する。実験科学者の眼。大きな目標は「悪の矯正」だ。しかし「人種偏見の除去に必要な範囲」に当面の行動目標を限定する。

 上の内的対話に現れている彼の意識中の矛盾・対立をどう表現すればいいか。次のようであろう。すなわち、「無用者」(p.19) 対 「真理探究者」([the seeker after truth]「序文」『自伝』)。

 

 サッティヤーグラハの創造:「南アフリカでのガンディーの最大の功績」(p.47)

 「この語[サッティヤーグラハ]は、人間たちが自分の権利を獲得するために自分で苦痛に耐える方法として使われています。その目的は戦争の力に反するものです。あることが気に入らず、それをしないときに私はサッティヤーグラハ、または魂の力を使います」(ガンディー『真の独立への道(ヒンド・スワラージ)』[1909]、田中敏雄訳、岩波書店、2001、p.110)。「誰もがこの仕事は悪いと断定的にはいえないものです。しかしその人にそれが悪いと思えたとき、その人にとってそれは悪いのです。そうであれば、その人はそれをしてはなりませんし、苦痛は被らなければなりません。これがサッティヤーグラハの鍵です」(同、p.111、下線は引用者)。「法律が気に入らないからといって、私たちが法律制定者の頭を叩き割るようなことはしません。しかし、その法律を撤回させるために私たちは断食をします」(同、p.112)。

 

② ガンディーからマハートマ・ガンディーへ

 「ガンディーは都市においては労働者や貧しい住民と、農村においてはさまざまな利益や権利を持つ農民たちと手を結んだが、逆にこうした人々もガンディーの指導に期待を寄せて、非暴力の抗議運動に立ち上がった。まさに、ガンディーを仲介者としてエリートの政治と民衆の政治、都会の政治と農村の政治が結合した」(p.65)。

 こうした労働者や農民の側からガンディーの運動を捉える視点は、どのような方法によって可能となるのか。著者はこうした分析に「サバルタン・スタディーズ」の方法を駆使しているようだ。

 「徴税や土地法に始まり、司法制度や植民地軍の樹立、西洋式教育による植民地文化の宣伝や公用語としての英語の普及に至るまで、すべての統治、すなわち『インドにおけるイギリスの業績』のあらゆる側面は、ジェームズ・ミルの気の利いた言い回しを使えば、インドをいかに『イギリス史の中の大変に興味深い一部分』に矮小化できるかどうかにかかっていた。逆に言えば、インド人によるインドの歴史記述という方法によって、自らの過去を発見し取り戻せるかは、インド人自身の手にゆだねられている」(ラナジット・グハ[2002]、竹中千春「平和の主体論――サバルタンとジェンダーの視点から」『平和研究 第42号 平和の主体論』2014、p.8)。

きわめてガンディー的な発想! それ自体がガンディー的な発想を持つ民衆史の方法を、ガンディーの生き方に適用したところにも著者の独創が認められよう。

 

③ マハートマ・ガンディーからモーハンダースへ 

 マハートマ・ガンディーに完成した人間を見るのではなく、「マハートマ・ガンディーからモーハンダースへ」という円環の視点が重要。そこからミクロ・メゾ・マクロにわたる現代に繋がる様々な問題が見えてくる。

 

 3.現代の諸問題とのつながり

① ガンディー 対 ハリラール(長男):父子争闘。ガンディー暗殺の半年後、路上での「無意味な死」(p.208)

  ハリラール:「誰もが素晴らしいと思うはずの父だったが、僕の欲しかった父ではなかった」(p.204)

② ガンディー 対 ゴードセー(ガンディーの暗殺者):加害者と被害者、「殉死の思想」(p.208)

  法廷でのゴードセーの弁明:「ガンディーは…非暴力という誤った思想を説き、ヒンドゥーを犠牲にしてイスラームに力を与えてきた」(p.186)。

③ ガンディー 対 ジンナー(パキスタン総督):カシミール問題、核戦争の危機

④ ガンディー 対 ネルー(インド首相):社会主義型社会の建設を軸とするネルーの治世の評価

⑤ ガンディー 対 日本人:アジア主義をめぐる対立、東アジア共同体の可能性

  ガンディー:「もしもインドから積極的な歓迎を受けるだろうと信じようものなら、あなたがたはひどい幻滅を感ずるという事実について、けっしてまちがえないようにしてください。」(「すべての日本人へ」1942)

  大川周明(日本を盟主とするアジア主義の理論家):「マハートマ・ガンディの日本に対する一切の非難は、大東亜戦争をもって帝国主義的野心の発動なりとする誤解の上に立つ。……若しガンディが明治維新の精神を正しく理解し、従って近代日本の真実の意図を正しく理解するならば、この誤解は必ず消え去るであろう」(大川周明「ガンディを通して印度人に与う」『新亜細亜小論』[1944]、中央公論新社、2016、p.419)

 

【参考】ガンディーの生涯

 1869 10月ポールバンダルで生まれる

 1882 13歳、カストゥルバと結婚

 1888  イギリスへ出発、

 1991 法廷弁護士の免許を取得、インドへ帰国  

 1893 南アフリカへ出発 

 1894 ナタール・インド人会議を設立             

 1901 一時インドに帰国、12月インド国民会議に参加

 1902 11月南アへ戻る

 1904 『インディアン・オピニオン』紙を発行、ダーバン近郊にフェニックス農場を開設 

 1905 ラスキン『この最後の者まで』に魅せられる

 1906 アジア人登録法案に反対し、9.11サティヤーグラハ闘争を組織

 1909 『ヒンド・スワラージ』を出版

 1915  インドに帰国                                                     

 1919 3月、ローラット法成立、4月、サティヤーグラハ運動開始

 1925 『自伝』執筆(~29年)

 1930 3月「塩の行進」

 1931 9月渡英、ロンドン円卓会議出席。帰途、スイスのヴィルヌーヴでロマン・ロランと会談

 1932  不可触民に分離選挙区導入との新統治案に抗議

 1933 不可触民差別撤廃を求め、全国行脚

 1940 第2次大戦参戦に抗議

 1942 「インドを去れ」(Quit India)を指揮

 1944 ベンガル東部に行き、ヒンドゥーとイスラーム間の宗教暴動の鎮静化に努める

 1947 インドとパキスタンの分離独立に反対。パキスタン独立8.14、インド独立8.15

 1948 1.30、過激派ヒンドゥー教徒により暗殺さる