理化学研究所の原爆開発計画と戦後の原子力開発

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日本平和学会2019年度春季研究大会

 

理化学研究所の原爆開発計画と戦後の原子力開発

 

東京工業大学名誉教授

山崎正勝

 

キーワード:仁科芳雄、陸軍「ニ号研究」、戦争の廃棄、原子力三原則、過酷事故予測

 

はじめに

 日本は被爆国であると同時に、英・米・仏、独、ソについで、第二次世界大戦中に核兵器開発を行った国の一つだった。日本の開発の隘路はウラン資源にあり、マンハッタン計画の0.4%以下のウランしか入手できなかった。理化学研究所(理研)で行われた陸軍の研究は戦時計画の中心で、予算規模などで海軍の約10倍だった。この報告では理研の計画をたどり、その後の日本の原子力政策の歴史を概観したい。

 

1.科学者が言い出した理研の原爆(ウラニウム爆弾)計画

 有名な「アインシュタインの手紙」のように、原爆計画を日本陸軍に提案したのは科学者だった。理研の仁科芳雄は、1940年の半ばすぎに陸軍中将安田武雄(当時、陸軍の航空技術研究所長、後に航空本部長)に、原爆の研究に着手する用意があると伝えた。しかし、太平洋戦争が始まった直後は、仁科は「戦争中といえども基礎研究に邁進すべきである」と発言し、原爆計画に特に力を入れたわけではなかった。仁科が東京帝大化学科を卒業したばかりの木越邦彦を計画へ誘ったときも、ウランの研究をしていれば、「戦争に行かなくてもすむ」、「まあ、ぼつぼつ(岡山言葉で「ゆっくり」の意)やるさ」と告げた。

 

2.「お国のお役に立つ研究」に

 真珠湾攻撃の1年後、仁科はそれまでの基礎研究重視の立場を翻して、「われわれもお国のお役に立つような仕事をしなければならない」と発言し、原爆研究を本格化した。1943年の春、仁科は安田に研究の概要を報告し、熱拡散法で10%程度の濃縮ウランが入手できれば、その核連鎖反応で通常火薬で約1万トンのエネルギーが得られると伝えた(この報告書と、そのもとになった玉木英彦の計算ノートは、現在、理研の記念史料室に収められている。内容的には実現不可能な原子炉暴走型の爆弾だった。)。これを受けて、9月に陸軍は、航空本部の唯一の直轄研究として「ニ号研究」(「ニ」は仁科の頭文字から)を開始した。

 実験室にあったウランを使用して、気体熱拡散法で濃縮を試みるものの、理研に作られた熱拡散搭は、1945年4月の空襲で焼失し、5月に仁科は理研での研究の中止を余儀なくされた。

 

3.原爆調査から「戦争はなくさなければならない」へ-科学者の社会的責任

 広島原爆投下の翌日に陸軍から原爆調査依頼を受けた仁科は、広島と長崎に入り、それらが原爆であることを確認することができた。翌年4月に仁科は、「原子爆弾の攻撃を受けて間もない広島と長崎とを目撃する機会を得た自分は、その被害の余りにもひどいのに面を被わざるを得なかった」と述べ、戦争をなくすこと(戦争の廃棄)が、原子爆弾の誕生から導かれる「必然の帰結」だとした(このような言説は、当時の日本に他にも見られた(山崎 近刊))。さらに仁科は、科学者の国際協力による世界平和実現を構想した。こうした理解は、水爆とビキニ事件から生まれた「ラッセル・アインシュタイン宣言」やパグウォッシュ会議の運動の思想(対立を超えた対話、科学者の社会的責任)に先駆けるものだった。

 日本学術会議が誕生すると、仁科は自然科学分野の副会長となり、1949年の声明「原子力に対する有効なる国際管理の確立要請」の提案を荒勝文策とともに行うとともに、知識人の平和運動の起点となった「平和問題談話会」の活動にも参加した。

 

4.原子力三原則

 占領が終わると、学術会議で原子力研究の再開の検討が始まった。当時の最大の課題は、軍事転用なしに原子力研究が行えるかどうかだった。大阪大学(当時)の伏見康治は、原子力の法律に憲章を設けて、「軍事目的の研究は一切行わない」ことと「研究結果はすべて定期的に公開する」ことで、軍事転用を監視することができると考えた。この理解は、1954年のビキニ事件を受けて出された「原子力三原則」(公開・民主・自主)と1955年の原子力基本法(民主・自主・公開)に引き継がれた。

 他方、この時に同時に締結された日米原子力協定(この協定によって1957年に米国製実験炉が東海村で臨界に達した。)は、自主原則を損なう要因となった。その後、実用炉の導入が模索されるころには、科学者の中で意見が分かれた(1959年7月原子力委員会公聴会)。

 

おわりに―閉ざされた公開原則

 最初の実用炉(東海発電所)が稼働するときに、政府は「原子力損害の賠償に関する法律」の策定のために、原子力発電所が制御を失った場合の過酷事故の予想を原子力産業会議に依頼した。その報告書「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害に関する試算」で予想された放射能の放出は福島原発事故の規模に相当し、賠償金は当時の国家予算の2倍を超えるというものだった。しかし、この報告書は公開されることなく、1970年代初頭の石油危機以降、原子力発電所は急速に数を増し、基数で世界第3位になっていった。これに危惧した武谷三男などの科学者からは、原子炉の安全性についてあらためて公開の原則の必要性が説かれたものの、原子力政策は、その後も国民に閉ざされたまま、福島事故を迎えた。

 

参考文献

山崎正勝『日本の核開発:1939~1955』績文堂、2011年。

山崎正勝「平和問題と原子力:物理学者はどう向き合ってきたのか」、『日本物理学会誌』Vol. 71, No. 12, 

2017年。

山崎正勝「原子爆弾と戦争廃棄・放棄論、1945~1946」、『科学史研究』(近刊)。