水俣の現状――生活支援と訴訟からみえる水俣の課題

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日本平和学会2019年度春季研究大会

 

「水俣の現状――生活支援と訴訟からみえる水俣の課題

 

NPO法人水俣病協働センター

谷由布

 

キーワード:水俣病「被害者」、生活支援、訴訟、もやいなおし、

 

はじめに

 水俣病事件は、今年、1956年5月1日の公式確認から63年が過ぎた。現在、認定患者は約3000人、医療費および一時金などの受給者約5万人、医療費のみの対象になっているのは約24000人である。認定患者のうち現在も存命なのは約380人(2016.12現在)、係争中の訴訟は9つある(2018.6現在)。

水俣病事件における分断とはなにか、そしていまなお続く水俣の課題とはなにか、さまざまな課題があるなかで、とくにわたしが現在おこなっている生活支援と訴訟支援からみえる課題を考察したい。

 

1.水俣病の「被害者」とは

 長年関心をもってくださっている方もいるだろうし、過去の問題と思う方もいらっしゃるだろう。過去の四大公害病のひとつとしてだけはよく知られている。

 1956年に公式確認され、1968年に公害認定されると同時に原因企業がチッソであることが認められた。政治解決なども図られたが、2004年には、国の責任が認められた。その後も新たな「被害者」の訴えがなくなることはなく、現在まで続いている。

 本来、「水俣病患者」イコール「水俣病被害者」であろうが、水俣においてはイコールとはいえない。水俣病には、補償、あるいは救済の内容によって、医療費などを受給するために複数の手帳があるが、この手帳の名前を見ていただければ一目瞭然である。

 

認定患者手帳  → 認定審査会による認定を受け、補償を得る

医療手帳    → 政治解決時の総合対策医療事業、一時金+医療費対象

保健手帳    → 政治解決時の総合対策医療事業、医療費のみ対象

水俣病被害者手帳→ 特措法による救済対象者

地域研究手帳  → 認定申請をして6カ月が経過した人に交付される手帳

手帳なし    → 被害を認められていない人、あらゆる申請を棄却された人、被害を訴えられない人、

 

 この手帳の種類や有無を明確に区別して対応するのは、政府であり、行政であり、企業だ。水俣病の被害者として一般的に公表されるのは、認定患者のみである。本来水俣病はひとつだが、いくつもの水俣病とあるいはそうでないものにわけられてしまった。

 わたしが生活支援と訴訟で関わるのは、このなかの認定患者と、いまだ患者と認定されず手帳も持たない人たちである。

 

2.生活支援でみえてくる被害者の分断

 現在、とくに胎児性や小児性の水俣病患者の日常生活をさまざまなかたちでサポートしている。認定患者の家族でも、被害の認定はさまざまだ。これは、先にも述べたが、被害がないわけではなく、被害を認められなかったり、自覚がなかったり、訴えでなかったり、という理由によるものだ。そのため、パートナー、親子や兄弟姉妹で症状は同様にあっても、手帳がちがうことで得られる補償が異なる。

 例えば、認定された胎児性・小児性患者は、原因企業チッソとの補償協定から年金や手当などを受け、胎児性・小児性水俣病患者を対象とした補助金の支援も受けられる。しかし、同世代でも医療手帳や水俣病被害者手帳の所持者は、補償協定の対象にも、補助金の対象にはならない。家庭内だけでなく、地域の中でも、言えることだ。

 

3.訴訟からみえる課題

 現在、わたしが関わる訴訟は、水俣病被害者互助会の第二世代訴訟(国家賠償、福岡高裁)と認定義務付け訴訟(行政、熊本地裁)、水俣病被害者互助会の原告の1人が、自らの母の認定申請棄却に対して起こした認定義務付けの裁判の3つである。

 原告の中には、名前を公表していない人もいる。これは親族や、地域や職場での人間関係に悪影響が出ることをおそれるためだ。水俣病について、パートナーや親子、兄弟姉妹でも話すことができないという人はまだ多い。自分が水俣病であることを夫にも、子どもに隠している人もいる。子どもの被害の認定を求め、自らの被害については口をつぐむ人もいる。手帳を所持していることを知られないように、友人たちの前ではもっていないふりをするという人もいる。

 また、第二世代訴訟を通して感じるのは、これまでの水俣病の歴史の積み重ねをなかったことのように扱われることだ。水俣病の最初の裁判は1969年に提訴され、1973年に判決がでている。判決が出るまでには、現地検証もおこなわれ、提訴当時不可能と思われていた、原因企業の補償責任を確実なものとした。その後に続く多くの裁判の中で、水俣病の認定や国の責任について、蓄積がなされ、2004年には国の責任が認められ、感覚障害のみの水俣病も認められた。しかし、現在の水俣病訴訟の中では、水俣周辺の地域性や時代を一般化し、被害の全容を薄めてしまうようなことがおこなわれている。

 また、裁判に関わる医学の面でいえば、昨年日本神経学会が十分な検討もない中で、国の意に沿うような「見解」を出した。水俣病は発生当時から、さまざまな医学者、研究者により、被害実態がゆがめられ、被害者の切り捨てがおこなわれてきたが、現在も同様の事が起きている。

 

おわりに

 ここまでにあげた水俣病の課題は、一部に過ぎない。水俣病は政治によって、行政によって、企業によって、さまざまなかたちでの分断を生みだされてきた。現在も水俣でこそ、水俣病を語ることはときに難しく、口をつぐむ人もいる。水俣病によって起きた、地域の分断に対して、水俣では「もやい直し」という取り組みもおこなわれている。水俣病によってばらばらになってしまった地域のつながりを結びなおそうという取り組みだ。しかし、これは水俣病に向き合うというよりは、水俣病をくるんでみえなくしてしまうようなものに感じることがある。水俣病を過去のものとして扱いがちで、被害からすでに回復しているかのようなメッセージを送り、現在の課題については踏み込まない。

 2019年にはいってから、JNC(チッソの分社化による事業会社)の正門の近くに、「メチル水銀中毒症へ病名変更を求める!!水俣市民の会」という看板が立てられた。このような動きがいまもってあることが、水俣が水俣病と向き合えていない証明になるのではないだろうか。おそらくどこよりも水俣病を語ることができないのも水俣だ。

 水俣病事件は、暗く重いもので、そのように語られるものだが、そこに向き合うことで水俣はほかにはない価値を生み出すことができる。そして、水俣病をかかえる場所だからこそ、福祉や医療をよりよいものに進めていくことができる。隣に水俣病患者がいることが、人にやさしくなり、社会をよりよくしていく原動力になるのではないか。水俣はまだ、十分に水俣病と向き合うことができていない。しかしその途上にいると信じている。