日本平和学会2019年度春季研究大会
京都帝大における原子核研究と原爆開発計画
京都大学名誉教授
政池 明
キーワード:荒勝文策、連鎖反応、遠心分離器、海軍技術研究所、広島の放射能調査
はじめに
第2次大戦中の京都帝大における原子エネルギー/原爆開発についてはこれまで掘り下げた研究は行われていなかった。しかし21世紀になって新しく多くの資料が発見されて、これまで知られていなかった実態が明らかになり、話題を呼んでいる。この報告ではこれらの資料によって明らかになった事実を示し、その意義について考察したい。
1.原子核研究の黎明
荒勝文策は台北帝大における原子核研究の業績を認められて1936年に京都帝大の教授となる。
1939年初頭ハーンとマイトナーによるウラン核分裂の発見が報じられると荒勝グループの萩原篤太郎は直ちに核分裂時に発生する中性子数の測定を行ない、その年の秋その数が2.6個であると英文で発表する。この値は核分裂の連鎖反応の成否を決定する極めて重要なパラメータであるが、萩原の測定値は大戦以前に公表された値の中で最も精度のよいものであった。ただ当時の荒勝の講演記録には核分裂のエネルギー利用についての記述は見当たらない。
荒勝は核分裂のメカニズムを追求すべくγ線によるウランやトリウムの核分裂断面積を測定し、それが中性子による核分裂に比べてずっと小さいことを明らかにする。更に荒勝らは17.6 MeVのγ線を種々の原子核に照射すると中性子、陽子、α粒子などが放出されることを突き止めたが、これは大戦後の原子核反応の巨大共鳴発見に先鞭をつけることになった。
大戦末期、荒勝研究室の大学院生花谷暉一らは熱中性子のウラン核による捕獲断面積を測定し、中性子がウラン235に当たると核分裂をおこすだけでなく、中性子を吸収してウラン236となる反応も起こることを指摘した。更に花谷らは核分裂の際放出される中性子数を再び測定し、2.4個という値を得ているが、この数値は現代の測定値と比べても見劣りしない。
大戦中、荒勝グループはサイクロトロンの建設を開始したが、敗戦によって完成に至らず、敗戦直後占領軍によって破壊された。
2.大戦中の原子エネルギー/原爆研究
京都帝大の荒勝グループは大戦中サイクロトロンの電磁石を建設するにあたり海軍から援助を受けた。更に1943年海軍は研究費として年間3000円を荒勝に支給し、原子核分裂による原子エネルギーの基礎研究を依頼したと言われているが、研究費の使途については明らかでない。その後、海軍技術研究所の北川徹三が記した「勤務録」の1944年9月17日の項に「荒勝教授、藤尾講師来部、艦本(海軍艦政本部)に行き、Uにつき打合す。」とあり、この時荒勝が海軍から核エネルギーの研究を依頼されたと考えられる。それを受けて1944年10月4日大阪の水交社で関西の大学関係者と海軍関係者の合同で「ウラニウム問題」についての話し合いが持たれ、核エネルギーの兵器への応用の可能性が検討された。この年の10月~11月に京大講師(当時)清水栄が書いた「超遠心分離器」と表記された3冊のノートにはウラン235濃縮のための遠心分離器設計の詳細が記されている。
1945年5月末に戦時研究が政府によって正式に認められたことが湯川秀樹の日記に記されている。更に7月21日に京大の研究者と海軍関係者の合同の打合せ会が琵琶湖ホテルで開かれ、荒勝はこの会議にウランの核分裂断面積の測定結果と核分裂の際発生する中性子数に関する報告のメモを提出したと言われている。この会では湯川が「世界の原子力」と題して語り、湯川研究室の小林稔が連鎖反応の臨界値について、東京計器K.K.の新田重治が遠心分離器について、更に京大工学部の岡田辰三が純粋ウラン金属の生成法について話したことが知られている。この会議の2週間後に広島に原爆が投下され、更にその9日後に戦争が終結するので、これらの開発研究は殆ど成果を得られないまま終わることになる。
3.原爆の放射能調査
広島に原爆が投下されると、荒勝はスタッフ、学生と共に広島に赴き、陸海軍、理研との合同会議に臨み、「投下された爆弾は原爆か」と質問されると「原爆と思われるが、科学者としては今科学的な調査をやっているから、それが出来たら判断する」と述べる。荒勝らは土壌などを採取して京都に持ち帰り、それ等から放出されたβ線のスペクトルや寿命を測定する。最近の分析で、そのβ線はヨウ素133から放出されたものであることが明らかになった。荒勝は直ちに第2次調査団を広島に派遣し、放射能測定結果から、爆心地、爆発ウラン量等を特定して終戦当日原爆であると断定し、海軍に電報で知らせる。
4. 考察
荒勝は大戦中も基礎科学を優先し、経験主義と自身の研究結果を重視する手法を貫いた。
太平洋戦争末期、海軍の要請で核分裂の原爆への応用研究を始める。連鎖反応の条件を求め、ウラン濃縮のための遠心分離器設計などを始めるが、敗戦によってそれらの研究はいずれも初歩的段階で終わる。
当時の状況から考えて原爆の完成は望めないと思われていたのにその研究に手を染めるようになったのは研究者を少しでも温存しておきたいと考えたためと言われている。また軍事研究と称して基礎科学を進めることが出来ると思ったのかもしてない。しかし基礎科学者が原爆製作につながる戦時研究に力を貸したことは事実であり、科学者の軍事研究への関わりとして深刻に受け止めねばならない。
参考文献
政池明『荒勝文策と原子核物理学の黎明』京都大学学術出版会、2018年
読売新聞社編『昭和史の天皇―原爆投下』角川文庫、1988年