日本平和学会2018年度秋季研究集会
脱軍事化の実践と経験
--1970年代、沖縄へ渡ったアメリカ人反戦運動
(パシフィック・カウンセリング・サーヴィス)を事例に--
滋賀県立大学
大野光明
キーワード: ベトナム反戦運動、軍事化、沖縄、レイシズム、セクシズム、文化、リゾーム
はじめに
1965年の米軍による北ベトナム爆撃開始以降、ベトナム戦争は泥沼化し、米国内だけでなく世界各地で反対運動をまきおこすこととなった。ベトナム反戦運動の特徴の1つは、運動主体が一般市民や学生を越えて広がったこと、すなわち、徴兵された兵士たちや戦地から帰還した元兵士たちなど、米軍内部から広範な反対の声と抵抗が出現した点にある。懲役の拒否、軍隊内での抵抗、脱走、上官の命令の拒否などの手段を選ぶ者が急増したのだ。それに伴い、兵士や兵役対象者に対して、軍法の専門的知識にもとづく法律相談やカウンセリング活動、反戦運動の組織化などの支援活動が喫緊の課題となった(Cortright 2005)。
この課題に正面から取り組み、米国内、そして日本と沖縄を含むアジア各地で反戦運動を展開した稀有なグループとしてパシフィック・カウンセリング・サーヴィス(Pacific Counseling Service、以下PCS)がある。本報告では、PCSの機関紙や報告書、ビラや駐在スタッフの書簡などの一次史料 、報告者が2016年以降実施してきた元活動家へのインタビューの結果を分析することで、(1)沖縄でのPCSの運動の歴史と内容を整理し、(2)「ベトナム反戦」がどのように経験され、意味づけられたのかを考察する。その上で、(3)PCSが試みた太平洋を横断したベトナム反戦運動を評価するための枠組みを検討したい。
1 サンフランシスコ湾岸地域とベトナム反戦運動
アメリカ西海岸、なかでもサンフランシスコ湾岸地域には軍事基地・施設が多く存在し、ベトナム戦争を遂行する重要な機能をもった。それらは徴兵、教育・訓練、兵士および物資の輸送のために利用された。
サンフランシスコ湾岸地域のユニークさは、これらの軍事基地・施設と折り重なるように、多種多様な社会運動の拠点が広がっていたことである。ベトナム反戦運動、第三世界にルーツをもつ人びとの権利獲得運動、ウーマンリブやセクシュアル・マイノリティの運動、カリフォルニア大学バークレー校などでの学生運動、オークランドにおけるブラックパンサー党の運動、そして基地・軍隊と密接に結びついた港湾労働に従事する者たちの労働運動などがあり、それらはベトナム戦争を結節点として交差していった。
1968年のテト攻勢以降、戦争の形勢が逆転し世論の不支持が拡大するなか、それまで散発的で孤立していた兵士たちの反戦運動は大きく成長した。サンフランシスコでは、1968年7月の「ナイン・フォー・ピース」と呼ばれる無許可離隊者の抵抗、同年10月のプレシディオ陸軍基地内での兵士による反乱(プレシディオ27)など、基地内部からの行動と意思表示が公然化し、大きな注目を集めた。基地の外側からは大規模な反戦運動がそれに呼応し、兵士たちへの支持の表明と活発な支援運動が展開された。1969年1月には「ナイン・フォー・ピース」の退役軍人がサンフランシスコにおいて「GIヘルプセンター」を開き、地域に存在する数千人規模の兵士たちの多種多様なニーズに応える活動を開始した。
2 PCSと日本および沖縄
1969年3月頃、米兵の訓練拠点・陸軍フォート要塞のあるカリフォルニア州モントレーでウェストコースト・カウンセリング・サービス(West Coast Counseling Service。以下、WCCS)は開始する。開始後の6ヶ月間で、兵士などから良心的拒否や兵士の諸権利に関する600件の相談があり、69年末までに約120の良心的兵役拒否申請の承認を獲得するなど大きな成果を残した (PCS 1971: 4)。WCCSへの高い評価を受けて、WCCSは1969年末にオークランド、サンフランシスコ、サンディエゴ、そして、70年4月にはワシントン州タコマに新たな事務所を開設した。さらに、WCCSは、兵士による抵抗運動と民間人による支援運動が日本においても成長していることを受け、PCSへと名称変更後、70年4月にアジア初の事務所を東京・神楽坂のベ平連事務所の隣に設置した 。その後、沖縄、香港、フィリピン、岩国、横須賀、三沢、横田でもプロジェクトが実施される。
PCSは兵士たちの除隊や表現の自由等の諸権利を守ることを目指しただけでなく、基地・軍隊を多面的に「解体」することを目指した。たとえば、運動の戦術的なポイントとして次の4点が確認されている。①兵士とアメリカ市民の視点から軍隊当局の非正当化と信用の失墜を進める、②軍隊というシステムと「お偉方」[brass:軍の高級将校や幹部]に対するGIの抵抗を支援し勇気づける、③GIの運動がアメリカ国内および世界各地の広範な階級対立とつながっている点を政治的に教育する(ただしそれは強制するものではない)、④基地内の闘争を基地周辺の地域コミュニティにおける抑圧された人びとの存在や階級対立につなげるよう支援する(PCS 1972: 3-4)。
また、PCSのプロジェクトはさまざまな団体・個人との連携のもとで取り組まれた。なかでもアメリカ全国法曹会(National Lawyers Guild、以下、NLG)の存在抜きにはプロジェクトは成立しなかったといえる。NLGは1937年に設立された左派系の弁護士・法律家の全国組織である(ナショナル・ロイヤーズ・ギルド 1991)。NLGは1971年にMilitary Law Office(以下、MLO)をPCSサンフランシスコ事務所の隣に開設、アジアでのプロジェクトへ弁護士を派遣した。PCSのプロジェクトは、民間人(Civilian)オルガナイザーとNLG/MLOの弁護士らがチームをつくる形で実施された。
3 沖縄でのPCSプロジェクト
沖縄・コザにPCS事務所が正式に開設されたのは日本「復帰」前の1970年12月のことであった。事務所にはオメガ・ハウス(Omega House)、のちにピープルズ・ハウス(People’s House)という名前がつけられた。1972年にはPCSの女性活動家が中心となってコザにウーマンズ・ハウス(Women’s House)が設置された(The Okinawa Women's House and the Women of PCS 1973)。また同年10月にはキャンプハンセン近くの金武に新たな活動拠点United Frontもつくられ(『Hansen Free Press』1972年10月)、沖縄に3つのプロジェクト事務所が置かれることになった。多いときで3事務所あわせて10名を越えるスタッフが駐在し、これほどの規模をもった地域はなく、沖縄の戦略的重要性が伝わってくる。
3つの拠点は、スタッフの事務所や住居として利用されていただけでなく、誰もが利用可能なオープンスペースとして開放されていた。事務所内には、軍法や兵士の諸権利に関するものからラディカルな運動・思想に関する書籍、映像フィルム、レコードとステレオ、ポスターやチラシがあった。これらのほとんどがサンフランシスコ事務所によって調達・郵送されたものであった。ピープルズ・ハウスには印刷機が1台あり、ビラや機関紙などの印刷に利用されている。
主な活動内容は4つにまとめることができる。第1に、法律相談などのカウンセリング活動である。訪問者がいつでも弁護士やオルガナイザーに問題や不満、悩み、あるいは裁判について相談できる体制が整えられた。相談内容は合法的除隊の可能性や手続き、将校らによる日常的なハラスメントや差別(特に黒人兵に対するもの)、軍法会議にかけられたあとの対応や弁護の支援要請などであった。
第2に、米兵、軍属、沖縄出身者等の軍雇用者、沖縄や日本の活動家らによる自由な話し合いの場(rap session)がつくられた。ベトナム戦争やブラックパンサー党、女性解放運動についてのフィルム上映後に議論をするなど、映像や音声を使用した話し合いが毎週のように行われた。ウーマンズ・ハウスではコンシャスネス・レイジング・ミーティングが2週間に1度の頻度で定例化され、女性たちが自然に受け入れてしまっている家父長制や女性性やジェンダーに関する規範、性暴力の経験を共有することが試みられた。食事をそれぞれ持ち寄っての夕食会も毎週開かれている。
第3に機関紙の発行である。オメガ・ハウスとピープルズ・ハウスは『Omega Press』(1972年1月から管見の限りでは1975年4月まで)、ユナイテッド・フロントは『Hansen Free Press』(1972年10月から1973年7月まで。その後、1973年8月発行の『Omega Press』へ合併)を定期的に発行していた。ウーマンズ・ハウスは『Sisterhood is Blooming』をリーフレットして1973年1月頃に発行している(2号以降の草稿の一部は確認できたが、発行有無や内容は不明)。これらの機関紙は多くの兵士が外出する給料日や週末に、飲食街やゲート近くでまかれた。この配布活動には米兵も参加していた。
第4に、沖縄の反基地運動や平和運動のデモや集会へ参加し、連帯の意思表示を行うことである。PCSは全沖縄軍労働組合(全軍労)の闘争に強くシンパシーを抱き、ストライキや集会に参加した。沖縄の人びとの闘争の歴史的背景や意味を知り、理解することで、それらを米軍兵士に対して伝える役割も担った。
4 反戦と反基地の射程
PCSは「反戦」をどのような実践として経験し、意味づけ、深めていったのだろうか。
第1に、反戦運動とは戦争機械としての基地・軍隊を「解体」することを目指すものであった。「解体」とは、基地・軍隊を成り立たせている人や社会のありようを批判し、変革し、それらを規定しているイデオロギーを問題化する実践であった。具体的には戦争と基地・軍隊がレイシズムとセクシズムによって駆動している点が強調された。
レイシズムは2つの視座から問われていた。1つにはベトナム戦争という大量虐殺行為がベトナム人へのレイシズム、さらには占領下の沖縄人へのレイシズムに立脚しているという認識であった。もう1つは、戦争が米国内外の人種的なヒエラルキーのもとで遂行されているという認識である。なかでも黒人兵士が構造的に徴兵の対象とされ、軍隊内部で差別されていることが問題化された。
セクシズムについては、米軍の存在する場所であればどこにでもバーで働く女性、売春婦、兵舎や事務所で単純労働に従事する女性がいるという現実からとらえられていた(『Omega Press』2巻8号、1973年12月号)。PCSの活動家は、セクシズムが米軍男性兵士による駐留地の女性への暴力としてあらわれるだけでなく、米兵の女性パートナーや基地内の女性労働者に対しても作用していることを確認し、問題化しようとした。PCSの特徴は、日常のなかに浸透し自然化されている規範を戦争、基地・軍隊に結び付けた点にある。
第2には、戦争と基地・軍隊の背景には米国の帝国主義があるという視座である。たとえば『Omega Press』2巻8号では帝国主義が特集テーマとなった。同号はベトナムと沖縄だけでなく、ラテンアメリカ、中東、アフリカにおいて米国が軍事力とともに介入していることを明らかにするだけでなく、その仕組みがアメリカ本国における女性、労働者、第三世界出身者たち、そして兵士たちの暮らしや生のありようにも連動していると主張した。利潤を蓄積・最大化する資本の運動が軍隊をたずさえて世界各地を展開しているだけでなく、国内においても人びとを搾取し、利用し、かつ、対立を構造化していることが析出されている。よって、PCSにとって戦争と基地・軍隊とは、帝国主義という名の下で生じている国内外の人びとの経験を横につなげていく枠組みのなかで問題化されていた。
そして、第3に、前述したイデオロギーや規範の日常的な浸透が強調されることで、PCSの取り組みは文化闘争としても展開された。セクシズムは西洋の男性の目線を内面化し、「美しく」なり、自らを売ろうとする人びとの身体性や欲望に根深く影響を与えている。あるいは黒人兵士たちにとってのレイシズムとは、自らのヘアスタイル、言葉、身振り、音楽やダンスなどを軍隊の管理下から解放し、取り戻すという問題としてあった。沖縄だけでなく、各地のPCSはロックフェスティバルなど音楽や映画を用いたイベントを多用したが、それは単なる動員の道具としてではなく、軍事化された感性や身体を解放する力として選び取られていたのではないかと考えられる。
おわりに
管見の限りでは、沖縄でのPCSプロジェクトは1976年末に終了している。その主要な要因はベトナム戦争の集結と米国内の反基地・平和運動の衰退にともなうファンド不足であった。最後に、PCSの運動をどのように評価できるのか、またそのための枠組みについて述べたい。
第1に、PCSの運動を「巨大なリゾーム状の歴史」(梅森編著 2007: 183-185)の現われとしてとらえることが求められる。PCSプロジェクトに参加し、介入した兵士たちは、米本国、ベトナム、沖縄などの駐留地を移動していた。兵士の移動とともに経験、言葉、実践も運ばれ、シェアされていた。軍隊の国境を超えた移動と展開が、その地下にリゾーム型の運動地図を逆説的に形成していたのだ。また、PCSの運動には、米国内の多種多様な運動の複数の歴史が流れ込んでいる。特に黒人解放運動とウーマンリブの影響は大きい。多様なテーマと主体、経験が交差する場としてPCSは存在した。PCSの運動をふまえれば、反戦・反基地運動はインターセクショナルな枠組みや視座(Boggs 2016)を欠いては論じきれないことがわかる。
第2に、PCSは「ベトナム反戦」という看板を掲げながらも、1973年1月のパリ和平協定調印以降も数年にわたって沖縄で運動を持続させた。その歴史的意味は何か。たとえば、米国のベトナム反戦運動について、「徴兵制の撤廃が約束され、地上戦の『ベトナム化』が進み、米兵の死者が減少するにつれて、反戦運動が低調になっていった」ことをふまえ、「米国のナショナリズム自体を相対化する点では不十分であった」との批判がある(油井 2017: 111)。PCSはこのナショナリズムの重みに耐えながら、戦争の終わった「平時」においてもなお、軍隊が海外駐留の意味と影響をとらえ批判しつづけた。だからこそ、PCSは「ベトナム反戦」を越えて帝国主義を問題にし、レイシズムやセクシズムなどの持続するイデオロギーを批判したのである。PCSは未完の形でプロジェクトを終わらさざるをえなかったといえるだろう。
文献
- 阿部小涼、2018、「占領と非戦の交差/脱臼するところ――帝国のヴェトナム反戦兵士と沖縄」『政策科学・国際関係論集』18号
- 梅森直之編著、2007、『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』光文社
- エンロー、シンシア(上野千鶴子監訳)、2006、『策略――女性を軍事化する国際政治』岩波書店
- 大野光明、2014、『沖縄闘争の時代1960/70――分断を乗り越える思想と実践』人文書院
- ナショナル・ロイヤーズ・ギルド(小田成光・入倉卓志訳)、1991、『We Shall Overcome――アメリカ法曹 人権擁護の五〇年』日本評論社
- 油井大三郎、2017、『ベトナム戦争に抗した人々』山川出版社
- Boggs, Grace Lee, 2016, Living for Change, Minneapolis/London: University of Minnesota Press.
- Carlsson, Chris, 2011, Ten Years that Shock the City: San Francisco 1968-1978, San Francisco: City Lights Foundation Books.
- Cortright, David, [1975] 2005, Soldiers in Revolt, Chicago: Haymarket Books.
- Hoskins, Janet, and Nguyen, Viet Thanh, 2014, Trans Pacific Studies: Framing an Emerging Field, Honolulu: University of Hawai’i.
- Man, Simeon, 2018, Soldiering through Empire: Race and the Making of the Decolonizing Pacific, Oakland: University of California Press.
- PCS, 1971[推定], Pacific Counseling Service, BANC MSS 86/89c, Ctn1-1.
- PCS, 1972, “Report on the Pacific Counseling Service”, BANC MSS 86/89c, Ctn1-1.
- The Okinawa Women's House and the Women of PCS, 1973, "Church Women United Grant Proposal Outline for Grants from International Mission Funds 1972 and 1973", BANC MSS 86/89c, Ctn5-23.