日本平和学会2018年度秋季研究大会
「平和に反する罪」と東京裁判の遺産:レーリング判事の意見書と回顧
国民大(韓国)
金碩淵
キーワード:平和に反する罪、東京裁判、パリ不戦条約、事後法、レーリング判事
International Law is more than a scholarly collection of abstract and immutable principles. It is an outgrowth of treaties or agreements between nations and of accepted customs. But every custom has its origin in some single act, and every agreement has to be initiated by the action of some state. Unless we are prepared to abandon every principle of growth for International Law, we cannot deny that our own day has its right to institute customs and to conclude agreements that will themselves become sources of a newer and strengthened International Law. International Law is not capable of development by legislation, for there is no continuously sitting international legislature. Innovations and revisions in International Law are brought about by the action of governments designed to meet a change in circumstances.
– Robert H. Jackson (1945)
はじめに
帝国日本の主要戦犯を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)はニュルンベルク裁判とともに国際刑法の画期的事件とされるが、異論も根強い。裁判の歴史的意義を肯定する研究者でさえもアジア軽視などを強調しながら、円滑な占領を図るため「逆コース」の最中に中絶された戦後改革の一例として裁判を取り上げ、その評価が必ずしも高いとはいえない。「東京裁判史観」の廃棄を訴える「右翼」の場合、「勝者の裁き」論を繰り返しつつ、裁判の意義に対してあまりにも冷笑的である。とりわけ、いわゆる「A級戦犯」の「平和に反する罪」(「侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与」)が事後法の遡及適用で罪刑法定主義に逆らうという主張はいまだにもっとも厄介な争点である。これは裁判長のウェブ(William Webb)卿までも個別意見で言及したほど異論の余地のあったことは確かである。
「勝者の裁き」論をすすめる側は外国の論者を有力な後ろ盾としながら否定論の根拠として頼るきらいがあるが、裁判当時の判事らの異論も大きな比重を占めている。裁判の適法性を全面的に否定したラダビノド·パル(Radhabinod Pal)判事の少数意見はことによく知られている。それほどではないが、個別意見を提出した判事の中でオランダのレーリング(B. V. A. Röling)も間欠的に取り上げられてきた。東京裁判に参加した11ヶ国の判事の中でもっとも若かった(1946年、39歳)彼はウェブ裁判長がすべての書類を検討したたった一人だったと特定し、近年においても国際法専門家のロバート·クライアー(Robert Cryer)が、「誰よりも理性の独立を保ちながら無欠に審理を成し遂げた裁判官」と絶賛した人物である。
不作為の罪の基準、穏健派要人の処罰、その他の審理の手続き上の欠点など、レーリングが裁判について幾つかの問題提起をしたのは事実である。多数意見が提示した「平和に反する罪」の論拠に反論し、以後にもその立場を堅持したことも確認される。とは言え、「平和に反する罪」の訴因を全面的に排斥したパルとは違って、レーリングは当条項の「特別な解釈」を考案し、戦争の首謀者らの刑事責任訴追を平和を復元するための適法的な解法として支持した。 その後も彼は裁判に対する批判を繰りかえしがらも究極的に戦犯処罰の適法性を否定しなかった。一方、裁判当時もその後も彼は裁判所の外で数人の人に自分の感想を打ち明け、彼の立場をめぐっては諸説が存在する。それらの記録を総合して結論をだそうとしたところ、彼の悩みは裁判の評価にどのような示唆をあたえるのだろうか。
1.平和の「静態的」観念を認めなかったパル判事の世界観
そもそもニュルンベルク裁判は事後法論争に触れ、国家間の条約及び保証を無視し隣国を侵略してはいけないということは普遍的に認知すべきで、これを裁かないことこそ不条理であり、罪刑法定主義、つまり、「法律なければ犯罪なく刑罰なし」(nullum crimen sine lege, nulla poena sine lege)という近代刑法の法言は如何なる関連性がない、と却下していた。かりに関連性があるとしても、「平和に反する罪」を成文化した裁判の憲章は戦勝国の恣意的な権力行使ではなく、既存の国際法の表現であり、「平和に反する罪」は1928年のパリ不戦条約(General Treaty for Renunciation of War)を頂点とする戦争の犯罪化に向けた第一次世界大戦以後の一連の動きを根拠とする、と明言した。パリ不戦条約が具体性を欠いて宣言に過ぎなかったという反論に対しては、国際法の慣習法的な効力に着目、国家間の合意はすべからく手続き上の行政的問題ではなく法の一般的原則で、条約は既存の法理を表現しただけだと前提し、国際法は常設の国際立法機関の産物ではないため、変化する国際社会の要求に順応すべきであり、裁判の憲章がさだめた法は決定的で当裁判所を拘束すると断言した。 国家行為に対する指導者責任訴追に対しでも、いかなる犯罪とも同じく、国際犯罪も結局「人間」が犯すものであり、抽象的機構ではないと付け加えた。
それを踏襲した東京裁判の最終判決に対し、パル判事は裁判所が単純な事実認定機関に止まらず、裁判所の判事は憲章の適法性を検討する権限があり、彼自身が検討したところ、パリ不戦条約以後にも侵略戦争の犯罪化という慣習は生成していなかった、と結論づけた。 彼は国家間で新しい犯罪の概念が成立するためには「法の支配する国際社会」の構成が先行すべきだが、いまだにそういう同等な国際社会は存在していない、したがって武力による自助の手段を不法化して排除することは納得できない、そして、国益への客観的脅威に直面した日本が誠実な確信(bona fide belief)をもって自衛戦を展開したとも主張した。ようするに、武力行使を道徳的に中和し、既存の秩序の変革を図った戦争を容認したといえる。
彼の少数意見はもっぱら訴因の法理的側面を問題視し、被告らの刑事責任を免除しただけで、「日本無罪論」を進めたたわけではない、という留保的意見もあって、彼の真意をめぐっては特に日本国内で論争が再演されてきたが、裁判後の言動に鑑みるに、彼が日本のアジア解放スローガンに同調していたと解釈しても無理がないと思われる。より根本的なレベルで彼の反論は帝国主義時代の秩序、それが設けた「平和」という現状維持を否定する世界観から始まるものであった。彼の意見書に書いてあるように、
現在の国際関係のもとにおいて平和の静態的観念は絶対に擁護されえない。今日の現状において被支配国に転落している国々が単に平和の名で永久的な支配に順応するよう強要されるわけにはいかない。国際法は今まで殆ど戦争を通じて成し遂げられた人類の政治的、歴史的進化を司法的範囲内に引き入れる課題と正面からぶつかる構えができていなければならない。この問題が解決されるとき、ようやく戦争およびその他の武力による自助の手段は有効に排除されることができ同時に非平和的な調停の試みに対する刑事責任の導入も構想できる。国際法はそういう試みに対する刑事責任を問う前に、平和的な変化の規則を首尾よく確立しなければならない。そのときまでは、純然たる機会主義者の「持てる国」らが専ら武力によって編成し維持してきたはずのその現状を人類と正義の名のもとで直接、間接に維持しようとする試みは正当化されえないのみならず、我らもまたその現状が間違っていないと判断できないということは我ら自身がよく知っているとおりである。運よくも政治的自由を享受してきた部類は、今、即座に決定論的で禁欲的な人生観をもつ余裕があり、政治的現状の枠組みで平和を構想できるかもしれないが、全人類が彼らと同じく運がよかったわけではなく、いまだに多くの人々が政治的支配から抜け出そうと切実に希求している。彼らにとって現時代というのは全体主義の脅威だけではなく現実的な帝国主義の禍に直面している時代なのである(Pal 1948: 910)。
2.レーリング判事の問題意識とソリューション
レーリングもパルとおなじく裁判所憲章の適法性を検討すべきだとし、またパルと同様に、パリ不戦条約の以前及び以後における国際社会で侵略戦争の犯罪化という慣習は形成されていなかったと結論づけた。当条約は侵略戦争を犯罪だと明示していないし、条約を違反した場合も「本条約が提供する利益を享受しえない」という制約以外には処罰条項さえ設けず、個人の刑事責任訴追を伴うと明示しかったと指摘した。さらに、条約の準備過程にわたって各国は自衛権を譲らないようこだわっていたし、自衛権の範疇が曖昧にされたまま結ばれた条約の違反の可否を判断することは極めて難しく、そのような背景に鑑みてみると、条約に署名した国々がそれを司法的強制性のある文書として意図したと推察できないと判断した。
半面、「平和に反する罪」の訴因を全面的に排斥したパルとは違って、レーリングは当条項の制限的な適用を提示した。「法律なければ犯罪なく刑罰なし」という法言の趣旨は「正義の具現」よりは「政治的知恵の表現」であって、裁判官や立法機関の恣意的制裁から個人を保護するときに有効になる「政策の規範」であり、当時の国際関係へ適用されるべき原則ではないとしながら、ともかく自由のために戦った戦勝国は必要ならその原則を無視してもよいと付け足した。国際社会が直面しているもっとも急を要する課題は戦争の防止であり、第二次大戦の惨状は人類が平和の復元のため新しい法的解法を模索すべきであって、それ故、国際法の上、「平和に反する罪」が特別に解釈されるべきであると主張した。
その特別な解釈というのは既存の国際法と「平和に反する罪」を両立させる作業を意味した。彼の代案は次のようであった。正義のために戦った連合国は終戦直後の新しくできた秩序に対する脅威を除去する責務がある。その脅威を成す関連者の身柄を拘束することが許され、一歩進んでは彼らを司法的に処理することがより確実であり、既存の国際実定法にもその根拠がある。平和と安全保障という現実的課題の下で侵略は「政治犯罪」であり、それを犯した者は「犯罪者」である以前に「敵」であり、そして「有罪性」より「危険性」を優先的に考慮すべきだ。こういう時点から接近すると、「平和に反する罪」を認め、身柄を永久に拘束することは既存の国際法とポツダム宣言の文句にも沿っていて、量刑として死刑は排除すべきだと観た。(ニュルンベルク裁判でも「平和に反する罪」を「首位の国際犯罪」と規定しながらも、それに関連した訴因だけが認められた被告ら全員に禁固刑だけが下された事実に注目した。)
レーリングがこのように日本の戦争首謀者らに対する司法的審判に同調したのは単に彼らの物理的拘束という現実的要求に応えるためだけではなかった。その基底には第二次大戦に対する確実な価値判断があった。彼は帝国日本の膨張を「征服戦争であり、不法な拡張であった」と規定し、「新秩序」を構築してアジアを解放しようとしたという被告側の主張を認めなかった。日本の覇権主義は1937年以後の日本政府要人の言動と政策によって確認され、状況に伴って変貌した態度にてアジア解放に対する偽善が露出すると説明した。例えは、1940年に東インド諸島の独立を支持するといった日本が1941年の戦争開始後の段階では日本に頼るよう画策し、やがって占領後には会合・結社までも禁止し、日本の領土として帰属させ、1944年に入って戦勢が不利になるとまた独立を約束しながら対日協力を誘導しようとしたと指摘した。結局、「共栄圏」スローガンは「日本のためのアジア」構築の策略であったという。意見書から引用すると、
「新秩序」を立てようとした日本の野望が大戦の原因であったという点に疑いの余地がない。(中略)この新秩序が対米交渉を座礁させたのである。弁護側の最終弁論によれば、1941年末の状況は内部的要因に鑑み中国からの撤退は日本の立場から不可能なもので対米交渉の妥結も不可能であって結局このジレンマは戦争に繋がったという。本裁判所に提出された証拠はそれとは違う結論に至らせる。(中略)「新秩序」は中心争点であり対立の核心であった。「新秩序」はきちんといわば世界を支配できるほどの広大で強力な帝国の誕生を意味した。米国の不信は妥当であって、「新秩序」が各種条約を違えながら展開していたという判断に適した。「アジア人のためのアジア」というスローガンが支えた「新秩序」の概念に真実性があったか、それともドイツの国家社会主義のようなもう一つの内在的、理念的侵略の手段であったかを判断することは本裁判に本質的な関わりを持つ。本裁判に提示された証拠によれば「新秩序」概念は事実上は侵略の手段それ以上のものではなかった (Röling 1948: 739-740)。
3.裁判以後における裁判評価
ようするにレーリングはパリ不戦条約が戦争の法的地位を変えたとは認めないながらも戦争の首謀者らの刑事責任訴追を支持した。ところで、彼の真意に疑問の余地があり、裁判後にはその立場に変動があったという主張がたびたび提起されている。知的好奇心に満ちたレーリングは裁判所の外で人々と会い、日本の文化を理解しようと努力した。裁判後にも同僚学者とのインタビューなどを通じて見解をうかがわせている。その人たちが伝える話などをめぐって諸説があるので、その記録を検証する必要がある。
(1)1977年、アントニオ・カセセとの対談録 たとえば、 小堀桂一郎(東京大学名誉教授)は東京裁判を「理性的」に再評価した外国人有識者としてレーリング判事の名をあげ、マッカーサーの情報参謀だったGHQのウィロビー(Charles Willoughby)将軍が裁判を「有史以来の最悪の偽善」だと非難し、それにレーリングが同調していたと書いている。出典は国際刑法の権威で判事として活躍した故アントニオ・カセセ(Antonio Cassese)が1977年レーリングと対談した記録。1993年出版され、1996年、2009年、日本語にも翻訳されているが、当該頁を引いて見るとそういうウィロビーの発言は確かにある。一旦共感を表すレーリングの発言も確かにある。ところが、対話はそこで終わらないのである。早速カセセが裁判を開く必要があったと思うのかと尋ねると、レーリングは「イエス」と確答する。その説明としていわく、
私は東京裁判が法の発展段階上における一つの道標であったと確信します。スティムソンが日記に書いたように法思想の観点からは「平和に反する罪」の訴因については裁判がやや時代を先立っていたのではあるが、判決の基礎を成した状況認識が核の時代において絶対に必要だと思います。しかし、武力行使の禁止と「平和に反する罪」を受け入れるためには世界が変わらなければならないというのが難点であります。すなわち、「平和に反する罪」を認めることは一歩前進を意味するが、その他の分野における進展も必然的にそれに伴われるべきでございます。平和的な変化というのは主権国家の世界においてもっとも難しいことの一つであります。すでに有利な位置を占めている国は強引に押しかける前にはなかなか利権を諦めないはずです。(中略)世界は今なお「平和に反する罪」という概念に適応していくべき時点にあります。第二次世界大戦以後およそ30回の国際戦争そして100回あまりの内戦が起こっています。武力行使の禁止にもかかわらず数多くの戦いがあったわけです。ところが「平和に反する罪」で起訴された例が一件もありません!法的観点からは混乱している状況でありますが、法はロジックではないということを法律家たちは知っています。それにしてもこういう部分において法制度の緊張はドラマティックになります(Röling and Cassese 1993: 86)。
一見、水平的な国際社会が遼遠な現実の下で武力による調整を法的に排除できないとしたパルの世界観に似ているが、レーリングのポイントは現実との乖離を乗り越えて新しい法の秩序に世界が歩調をあわせていくべきだという進歩の当為にある。続く話をみるとその立場が一層たしかになっている。彼はニュルンベルク・東京の両裁判が戦争の不法化に向けて大いに建設的な貢献をしたと、事後法の遡及適用したのは否定できないが、本ケースにおける事後法はそれほど悪くないとも言っている。むしろ悪いと決まりきっている行為を裁かないことこそが悪いというニュルンベルク判決を想起させるような発言さえしている。冷戦期にわたってその原則が毀損されるのは遺憾であるが、もはや侵略行為が国家政策の手段として正当化されないという裁判の遺産は国際社会が共有する文化の一部になっているとも言う。
(2)1955・56年、竹山道雄による伝聞 独文学者の竹山道雄は1955年の後半、雑誌『心』に連載したエッセーで東京裁判の判決に反対した判事としてレーリングの名をあげ、彼の意見書を紹介したことがある。裁判終了直後、判決に反発していた自身に向けてレーリングが将来に人たちが冷静を取り戻せばより正しく判断できると言いながら慰めてくれたと書いている。翌年の紀行文ではオランダで8年ぶり再会した際にはレーリングがもっと強い語調で裁判を批判したと伝えている。通例の戦争犯罪だけでなく政策の結果として起こったことまでそのように結論づけた東京裁判は誤りだったとレーリングが断言し、数年がすぎたその時点で裁判が開かれば大多数の判事がパルのように判断するだろうとも言ったという。
これを受け、牛村圭(日文研)は、レーリングが裁判に対する反感にもかかわらず公の場で「世紀の裁判」に参加した張本人としてその歴史的意義を擁護せざるをえかったと推測しながら、レーリングの立場は裁判終了数年後、既に否定論に傾いていたと主張する。ところで、そもそもレーリングは信念の判事として名高い人であった。1941年、ナチス占領の下で判事の刑執行決定権を武力化しようとする当局に立ち向かったとして地方に左遷されたことがある。1956年、エジプトのスエズ運河国有化に対するイギリス・フランスの軍事行動に反対し、自国政府と摩擦をおこし、名門ライデン大学教授任用から落ちたという風聞もある。なによりも東京裁判の個別意見も自国政府の圧力に抵抗しきって提出したものであった。
竹山に話にもどると、再会の翌日、レーリングが他の判事らの意見まで自分が代弁しえないし、「日本の無責任な軍国主義」に対してはパルと見解の差があるといいなおしたと加えている。そのときレーリングは、新しい法が波及される過程において弱者のほうに先に適用されかねない「歴史的現実」は遺憾であるが、「平和に対する義務が国家に対する義務に優先する」という原則の正当性を再確認していたと、竹山は整理している。
(3)1952年、エリザベス・ヴァイニングの回想録 1946年から4年間皇太子の家庭教師を務めたエリザベス・ヴァイニング(Elizabeth Vining)女史の話も興味深い。 訪日して2年過ぎた時点のレーリングが、最初は東インド諸島での惨状を忘れず嫌日感情をもってきたが、だんだん日本人がすきになり、物質主義に傾いている西洋人にとって学ぶべきところさえあるという感想を聞かせてくれたという。牛村はこの伝言もレーリングが建前として裁判をかばい守るしかなかった苦悩を伺えると解釈しているが、はたしてレーリングが抱いた日本人に対する親近感と敬意が裁判否定論として内面化したと推論しえるのか。
すくなくともレーリングは日本人の精神世界で何が正しく何が正しくないかという問いに心酔したようである。そのところ日本の禅仏教の対外発信に大きな役割をした鈴木貞太郎を頻繁に訪ねたと知られているが、その影響であろうか、レーリングはドイツと違って日本の場合、悟りを得たか、得なかったか、または「アジア人のためのアジア」などの理想に従って動いたか、などによって同一の行為が善にも悪にもなりえるといったとヴァイニングは伝えている。そういう態度がただ日本を日本の方式で理解しようとするオープンマインドに止まらず、西洋中心の国際規範による審判への懐疑に繋がったと想像できるかもしれない。レーリングはカセセとの対談でも鈴木がもっとも印象的な人物であったと言及しているが、「悟り」の本質といえば「現実を新しい角度からアプローチしながらも引き続いて現実を直視すること」としている。レーリングにとってその「現実」とは何を意味したのか。
(4)1960年、鈴木貞太郎献呈論文集 1960年、90歳を迎えた鈴木に献呈された論文集にレーリングも名を載せている。彼はある現象を全体的に把握するには一定の距離をおくべきで、振り返ると、ナチスドイツを裁くためのニュルンベルク裁判が先例として押し付けられ、東京裁判も拡大していくことになり、さまざまな問題が生じたが、その問題点が裁判が志向した理想を無効にするわけではなく、ニュルンベルク・東京の両裁判が成し遂げた革命を完遂するのが国際連合に残された課題である、と自分の立場を整理している。その13年後、1973年の論文(結論をやや増補した同一内容)でも両裁判の革命が新しい法を根拠としていても、おおよそ革命を可能にする概念は戦争の惨状が刺激した「人間の良心」によって生まれることだという認識を表している。
(5)1983年、東京の国際シンポジウムにおける発表文 一方、裁判の正当性を結論的には擁護していたものの、上記の論文や伝聞においてレーリングは裁判の問題点も繰り返して指摘していた。東京裁判で連合軍の戦争犯罪は排除されたという点で「勝者の裁き」論にもある程度は共感していた。ウィロービー将軍の発言にメリットがあると肯定した国際政治の背景には石油供給が絶たれようとしている中東情勢に向かい合った米国が国益をまもるため武力行使の構えをとっていた状況であった。とりわけ彼は冷戦の深化によって戦犯裁判が停滞されつつある現実に失望していた。さらに、東京裁判で台頭した不作為の罪が裁判以後に取り上げられなかったことも不満であった。東京裁判の厳しい基準を適用すればベトナムにおける米軍の戦争犯罪に対しワシントンの指導者らも裁かれるべきだとも言った。
つまり、裁判当時は「新秩序」スローガンを断固たる態度で論破した彼だが、冷戦とベトナム戦争という1970年代の時代的背景におかれてからは、アジア解放と反共という裁判当時の弁論に合理化の余地があるとさえ言うように至ったのである。カセセ対談録の翻訳本に解説を付けた東京裁判研究の権威、粟屋憲太郎(立教大学名誉教授)はレーリングが裁判当時のアジア解放論と共産主義脅威論に基づいた自衛戦争主張を基本的に受け入れるようになったともみている。
ところが、レーリングは、他界2年前の1983年の5月、東京大学の大沼保昭教授らが組織して東京で開かれた学会に参加し、末年の考え方を伺える発表文を残している。裁判後にも強大国は理念的、経済的理由を挙げながら軍事的介入を繰り返してきたが、過去日本が犯した侵略行為が正当化されるのではないと明言している。結局、戦犯裁判の原則が忘却され毀損される現実の下で戦時日本の論理を過去より同情的に振り替えるようになったとはいえ、レーリングは戦後に成し遂げられた国際刑法の革新が正しかったという認識を堅持していたと考えられる。
4.結びにかえて
レーリングの個別意見は少数意見ではあったものの、反対意見ではなかった。彼は戦争の首謀者らの刑事責任訴追を平和復元のための適法的な司法措置として支持した。裁判後もその判断は変わっていなかった。裁判当時そしてその後も引き続き裁判の問題点を再論したことは戦犯裁判の完成に向けて国際社会がどういう努力をすべきかに注意を喚起する作業であって、裁判の正当性を否定するものではなかった。 武力行使に対する法的責任が度外視される冷戦時代にもその立場は根本的に後退せず、戦犯裁判のさまざまな欠陥を裁判否定論の根拠として取り上げるより、理想に歩調を合わせない国際社会の奮発を呼びかけていた。彼にとって「平和」は絶対的な価値であった。
戦後の両裁判が「人間の良心」から生まれたというレーリングの言葉はかえって彼の認識が両裁判の精神に過去よりも近づいていたことをうかがわせる。それはかつてナチスの凶行に立ち向かった「良心」を素に「慣習の新しい根源を成す革新」を模索しようと訴えたロバート・ジャクソン(Robert H. Jackson)やヘンリー・スティムソン(Henry Stimson)の志に共鳴する認識であった。そもそも戦犯裁判の制約は手ごわく、物理的条件が備わったときのみ可能であるのが現実である。裁判を開く必要性に対する幅広い支持、無条件降伏で確保できた容疑者の身柄、前例のない多国籍検察·弁護·判事の構成など、第二次世界大戦の終わりは国際法革新の稀な転機を成していた。
2011年他界したカセセは、その前年発表した論文で、彼にとってまたとないメントールだったレーリングが国境を越えて第三者が裁く国際刑事裁判の出現までは予見できなかったと、名残惜しく回顧している。戦勝国が敗戦国を裁く仕組みに批判的だったレーリングだが、もし冷戦後まで生き残ったら、国際刑事裁判所の新設までに至った戦犯裁判の展開に驚いただろう。もちろん国際社会を完全たる法の支配に導くまでには課題が山積しているが、彼自身が革新の動力としてあげた「良心」は彼の期待以上に作動しているかもしれない。すくなくとも彼はその黎明期における裁判の不足をいかに補い、その遺産をいかに継承し、いかに平和を保つかに没頭したのであって、彼の遺した記録もその課題と取り組んだ痕跡として読み取るべきであろう。ちなみに、レーリングは国際法の進化だけでなく核軍縮を含む新しい安全保障のメカニズムまで模索し、国際平和研究学会(IPRA)の初代事務総長まで勤めたほど、ヨーロッパにおける平和学の先駆者でもあったので、日本平和学会の会員の皆様にも関心をもっていただければというところでもある。
※ 本稿は既に韓国語で発表した拙稿から抜粋したものである:「レーリング判事は東京裁判を否定したのか:少数意見から晩年の回顧まで」『日本歴史研究』36(2012年)。
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