占領と性奴隷制 〜日本軍占領下インドネシア南スラウェシ州における少女たちの動員と奴隷化〜

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日本平和学会2018年度秋季研究集会

 

占領と性奴隷制

〜日本軍占領下インドネシア南スラウェシ州における少女たちの動員と奴隷化〜

 

桃山学院大学非常勤講師

鈴木隆史

 

キーワード:日本軍占領、性奴隷制、慰安婦、兵補、綿繰・紡績工場

 

1. はじめに

 戦後70年以上経ち、日本軍性奴隷制被害者の新たな証言を得ることが益々困難になっている。本報告ではインドネシア南スラウェシ州カロシに本部を置く「インドネシア元従軍慰安婦支援協会」の代表故ダルマウィ氏と協力者たちのサポートを得て、被害者本人、家族、元兵補たちを探し出し、行なったインタビューと日本側に残された資料を元に日本軍性奴隷制の実態と被害者の人生に及ぼした影響を明らかにする。

 インタビューは、彼女たちがどのようにして「慰安所」に連れてこられたのか、「慰安所」ではどのような扱いを受けたのか、解放後どのような人生を送ってきたのかなどについてビデオを用いて行なった。インタビューは本人や家族の了解を得て、家族や支援者同席で行なっている。また、彼女たちが拉致された現場、「慰安所」のあった場所にも出かけてそこで話を聞き、すでに会話ができなくなった被害者の親族や「慰安所」の存在を記憶する元兵補などにもインタビューを行い、当時の被害者たちの置かれた状況を立体的に把握できるように努めた。

 

2. 日本側資料に基づく南セレベスの「慰安所」の概要と被害者の証言

 日本側資料としては、1992年に見つかった、厚生省社会・援護局が所蔵していた資料、「南部セレベス売淫施設(慰安所)調書」とそれをもとに作成された「売淫施設に関する調査報告」がある。この「調書」は、昭和21年(1946年)5月30日、蘭印軍軍法会議検察官が南部セレベス全地域における「慰安所」施設及びその責任者を調べるよう命じたことに対する回答の一部として、海軍民政部第二復員班長が第二軍高級副官宛に作成したものだが、当時南セレベス(現在の南西スラウェシ州と西スラウェシ州の町が含まれる)にあった「慰安所(資料では売淫施設と記されている)」の概要が記されている。今回のインタビューでもこの資料に記載のある「売淫施設」に捕らわれていたと思われる被害者もいるが、インタビューの内容とこの資料に記された内容では、女性の募集方法と待遇において大きな隔たりがあることが分かった。被害者たちは着替えも貰えず、自由な外出もできず、報酬ももらっていないと証言する。また、民政部が管理していた「慰安所」以外にも、飛行場の防空のために作られた壕などで、調理するように少女たちを呼び出し、強姦するというケースもあった。さらに、将校や紡績工場長、抑留所管理者などの「現地妻」にされた女性もいたことも分かった。

 

3.日本兵による拉致・強姦・強制労働

 被害者たちは、14、5歳の少女であった場合が多く、自宅、畑、学校や市場への行来の路上、綿繰り・紡績工場などで日本兵に拉致され、馬、トラック、徒歩で「慰安所」や将校の宿舎などに連れて行かれた。業者による募集のケースは見られず、親や本人に銃を突きつけて、強引に少女たちを連れ去っている。

 「慰安所」に連れてこられた少女たちは、「ルマ・パンジャン(長屋)」と呼ばれた建物の部屋に入れられた後、夜には日本兵に強姦された。初潮も迎えていない少女も多かった。朝から夕方までは「慰安所」を出て、トーチカの建設に必要な土砂の運搬、油井での原油の汲み取りとろ過、兵舎での掃除・洗濯・調理、畑での農作業などの労働を強制されたケースがある。着替えも、労働の報酬も一切なく、自由を奪われた状態での強制労働と強姦は、彼女たちが二重の奴隷制のもとに置かれていたことを意味する。将校や工場長などの「現地妻」にされた女性の中には妊娠し、日本兵が帰国した後に子供を産み一人で育て上げた人もいる。

 

3. 綿繰・紡績工場と日本軍性奴隷制

 インタビューで浮かび上がってきたのは、各地で綿栽培が行われ、綿から種を取り出して紡ぐ綿繰工場や綿糸を作る紡績工場で多くの女性たちが働かされていたことである。路上で拉致され、「慰安所」に連れて行かれたた少女たちの中にはこうした工場で働いていた人もいる。女性たちは「カネボウ」という名前を記憶しており、ピンランに紡績・織布工場を持っていた鐘紡がピンランの工場に綿糸を供給するための工場を各地に持っていた可能性もある。さらに、「トゥアン・カネボウ」と呼ばれた馬に乗った日本兵(将校)のお付きとして行動をともにした元兵補によると、「トゥアン・カネボウ」は彼の親戚の娘を「現地妻」にしていた。一部の将校や工場長などが「現地妻」を持っていたことを裏付ける証言である。この「トゥアン・カネボウ」は軍人であると同時に鐘紡の責任者を兼ねていた可能性もある。もしそうだとすると軍と企業とが一体となっていたことを示すものとなる。これらの工場では少女たちの母親も働いていたが、少女たちだけが帰宅途中に拉致されていることから工場が少女たちを物色する場所をも兼ねていた可能性もある。日本軍だけでなく企業も共に日本軍性奴隷制を支えていた可能性が指摘できる。

 

4. 性奴隷とされた少女たちの解放後の人生

 敗戦により日本軍が撤退したことで、「慰安所」などに捕らわれていた少女たちは解放され、両親の元へと戻った。両親に喜んで受け入れられた人もいれば、日本兵と寝た女は「汚い」と家から追い出された人もいる。ブギス人・マカッサル人の伝統的価値である「シリ(恥と名誉)」が背景にある。家族に受け入れられた人でも、どのような目にあったのかを話していない場合もある。彼女たちは、結婚後も離婚されるのを恐れて一切話さず、知られることへの不安を抱えて長年生きてきた。家から追い出された彼女たちは、農作業の手伝いや稲を鳥の食害から守る番をしたり、家政婦などをして生き延びてきた。お菓子作りで自立した人もいる。誰にも過去を話せず、70年間一人で生きてきた被害者も多く、今回のインタビューで初めて過去を他人に話した人もいる。また、家族と一緒に暮らしていても、子どもや孫が母や祖母のそうした過去を知らなかったということも多く、インタビューに同席することで初めて詳しく知るに至ったケースもあった。家族に囲まれて一見幸せな人生を送っているように見えても、過去のトラウマは消えていない。日本占領下の南スラウェシにおける日本軍性奴隷制が被害者たちとその家族の人生を破壊したことはインタビューから明らかであり、そのトラウマは未だに癒やされていないのである。

 

注)本研究は京都大学東南アジア研究所共同利用・共同研究拠点「東南アジア研究の国際共同研究拠点」より研究費交付を受けて行われた(平成24年度〜29年度)

 

参考文献:

1)(財)女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成④』。及び吉見義明編『従軍慰安婦関係資料集』「83 セレベス民政部第二復員班員復員に関する件報告」(365-375頁)。

2)川田文子『インドネシアの「慰安婦」』明石書店、1997年

3)奥村明『セレベス戦記』図書出版社、昭和49年

4)鐘紡社史編纂室『鐘紡百年史』1988年10月

5)JACR(アジア歴史資料センター)Ref. B05013032100、海軍南方軍政関係/海軍南方占領地区/セレペス地区/『邦人事業報告書』(海I-1-9-55)(外務省外交史料館、No. 28 (18) KANEGAFUCHI KOGYO K.K.