日本平和学会2018年度秋季研究大会
「慰安婦」問題解決運動をめぐる現状分析
日本学術振興会特別研究員PD(大阪大学)
木下直子
キーワード:「慰安婦」問題、日韓「合意」、歴史認識、少女像、映画、フェミニズム
はじめに
いわゆる「慰安婦」問題においては、アジア各地の被害者がその生涯を閉じつつある現在、日本政府の誠実な対応を引き出し、被害者の身に起こった痛ましい出来事を記憶していくための取り組みがこれまで以上に求められている。韓国では文在寅政権の下、前政権における被害者中心アプローチの欠如の問題が確認され、日本軍「慰安婦」問題研究所が設立されるなど、かつてなく政権が運動と歩調を合わせている。和解・癒し財団の解散を求める市民の声も、政府は無視できない状況にある。では、その市民の歴史認識はどのようなもので、現在の動きにはいかなる展望があるのか。本報告では、日韓の文脈に焦点を当て、日韓「合意」以降の運動や文化的生産物にみられる「慰安婦」表象などの特徴を分析し、現状の運動とその周辺に関する課題について考察したい。
1.「慰安婦」問題解決運動の見取り図
「慰安婦」被害者を支援しながら問題の解決を目指してきた社会運動は、韓国では長年、韓国挺身隊問題対策協議会(現・日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯)が中心的役割を担い、日本でも挺対協に連帯しながら運動が取り組まれてきた。近年、挺対協がソウルの日本大使館前に「慰安婦」少女像(平和の碑)を設置して以来、韓国内外で少女像の設置運動が拡大した。日韓「合意」直後より韓国内では「合意」の破棄・見直しを求める声が上がり、「慰安婦」を描いた映画が立て続けに公開されたこともあり、大衆的な関心の高まりも一定程度みられた。一方で、「合意」を根拠に日本政府の誠実な取り組みを引き出すという運動戦略(花房 2016)が日本側で本格的に実行できなかったことへの振り返りが必要である。
2.イメージに訴える運動――少女像、映像作品
近年、日韓両国で「慰安婦」問題への関心を高めたきっかけは、日本大使館前に設置された少女像である。この像は、いたいけな少女が強制連行され「慰安婦」にされたという「モデル被害者」(上野 1998: 176)を具現している点で論争的である。しかし、運動体内ではこれについて緻密な議論を展開するよりも、像が増えることによる波及効果を重視し、韓国内外の市民が少女像設置に乗り出すのを歓迎してきた。映像作品『少女の話』(2011)や『終わらない物語』(2017)には、残虐で悲惨なシーンが散りばめられ、鑑賞者に日本軍への憎悪を募らせる要素が多数含まれている。つまり、事実の究明よりも、悲惨なイメージを拡散し、日本への敵対的な感情を煽り運動の勢力拡大を図ることが優先されていると言える。
3.フィクションが増幅させる歴史認識――商業映画の傾向
次に、大衆的な関心を集めたいと考える運動にも影響する商業映画の傾向を分析する。「慰安婦」(問題)を描き話題になった韓国映画『鬼郷』(2016)、『アイキャンスピーク』(2017)、『ハーストーリー』(2018)の中には、極端な加害と被害の描写が目立つものがある。残虐な加害行為にこそ真実味があるとする制作姿勢と受容のありようには、全体像を捉え損なう問題がある。また、商業映画で大衆迎合的でドラマチックに構成されることは、個々の被害者の痛みや運動関係者の経験がただ消費される事態になりかねない。
4.問題
各種文化的生産物において、被害の深刻さを強調しようとするあまり、「慰安婦」像をより悲惨な設定にする操作は、被害者個人の痛みを飛び越え民族的な怒りを募らせる装置を作り上げる行為となる。こうした作為は多様な被害者像を捉え損ない、歴史への想像力を貧困なものにしてしまうのではないか。やはり、歴史や事実へ向き合う姿勢としての謙虚さが、歴史問題と関わるうえでの倫理観に求められるべきだと思われる。被害者の経験が選別され、脚色され、そのような資源として利用されているのであれば、これはフェミニズムにとっても深刻な事態である。被害者を思い泣いたり日本に憤ったりするなど鑑賞者に激しい感情を生起させる物語は、とりわけ一部作品によっては日本が糾弾されるところまでを描いていることもあり、カタルシスをもたらす。このようなエンターテイメント性に対する慎重な検討が必要であろう。
おわりに
「慰安婦」問題解決運動は、日本においては国内での運動に何よりも力を入れなければならないが、そのためにも相互に影響を受け合う韓国の運動については、丁寧に追っていく必要がある。「慰安婦」制度に関する歴史認識についても、今一度洗い出し、その語り方について、世界で進展しつつある戦時性暴力研究と照らし合わせ、検証するべき時期に来ていると考えられる。安易に日韓の連帯を美化するのでなく、より建設的な議論を試みる努力と、記憶の時代を担っていくうえでの責任を持つ個人によって運動が継続されるのでなければ、定型化された言説のみが正当性を付与される、権威主義的で硬直した活動になっていくであろう。
参考文献
- 花房俊雄「「慰安婦」問題 日韓「合意」に思う―「合意」の実施にあたって被害者への直接謝罪を日本政府に訴える」、『世界』岩波書店、2016年、184-189頁。
- 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、1998年。