「女性のためのアジア平和国民基金」をめぐる政策過程の一考察

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日本平和学会2018年度秋季研究集会

 

「女性のためのアジア平和国民基金」をめぐる政策過程の一考察

 

大妻女子大学ほか非常勤講師

土野瑞穂

 

キーワード:「慰安婦」、「女性のためのアジア平和国民基金」、戦後補償

 

はじめに

 「慰安婦」問題を「最終的かつ不可逆的に」解決するために締結された日韓両政府による「合意」に基づき、2016年7月、元「慰安婦」女性たちの支援と名誉回復に取り組むことを目的とした「和解・癒し」財団が韓国に発足したが、被害者不在の政策決定と内容に批判が寄せられてきた。同様の批判は1995年に日本政府が発足させた「女性のためのアジア平和国民基金」(略称アジア女性基金。以下同)発足の際にも起こった。そもそも被害者の傷を癒すための政策立案において、被害者の声は届いているのだろうか。届いていないとすればなぜか。本報告では、「和解・癒し財団」の前例としてのアジア女性基金に焦点を当てる。そして同基金発足に至る政策過程を考察し、被害者の声が届かなかった要因を探ることで、「慰安婦」問題への対応策に関する諸課題を提示する。

 

1.アジア女性基金発足に至る前史

 1990年代、元「慰安婦」女性たちは自身の奪われた尊厳を回復する手段として国家による謝罪と補償を勝ち取るため裁判に訴えた。しかし相次ぐ「慰安婦」裁判の敗訴を受けて、日本の運動は議員立法成立のための運動を展開することとなった。なぜなら日本の戦後補償制度のもとでは、外国人戦争被害者は国家補償から排除されていたため(田中2013)、国家補償を実現させるには新たに法律を作るほかなかったからである。だが、2009年の政権交代を経ても、法案成立には至らなかった。日本国内における「慰安婦」問題に対する認識と法制度の問題は、今日もなお、日本政府の公式謝罪と国家補償の実現にあたって強固な壁であり続けている。

 

2.国家補償をめぐる政府内の攻防

 1993年のいわゆる「河野談話」を踏まえ、日本政府は「慰安婦」問題への対応措置の検討を進めた。しかし国家による補償を認めない自民党議員ら、そして元「慰安婦」に対する個人補償を認めれば、他の戦争被害者に対しても補償せざるを得なくなり、際限がなくなることへの政府・官僚の恐れが、国家補償を遠ざけ、民間基金を生み出すこととなった。

 とはいえ、「民間基金」の決定には、「国家賠償を避けんがためにこれらの案が出されて」(鈴木 1996: 34)きたとは簡単に総括できない過程がある。当時の外務官僚らは、国家補償を支持する自民党議員が少なからず存在したと証言する。村山連立政権という政治的環境のもとで五十嵐官房長官や村山首相、河野洋平が個人補償を実現しようと努めたが、保守勢力が抵抗する中で、当事者・運動団体から多くの批判を浴びることとなったアジア女性基金ですら成立したのはある意味で驚くべきことだとさえ思われる。

 

3.排除された運動

 社会党と自民党の間で政治的妥協が図られていく過程で、被害者の声は聞き届けられることはなかった。「河野談話」を経て政府が「慰安婦」問題への具体的措置の検討に着手すると、日本の運動団体は様々なかたちで抗議・要請行動を行った。しかし政府・官僚が、運動関係者から意見を聴取したのは、民間基金構想が政府内ですでに固まった後であった。また運動側も、国会議員との連携が十分ではなかった。さらに、日本政府による元「慰安婦」への謝罪と国家補償を、どのようなかたちでどのように実現するかについての議論が日本の運動の中で不十分であったことが考察の結果明らかとなった。こうして運動側は政府・官僚側のペースに巻き込まれ、「慰安婦」問題への対応措置検討の過程で排除されてきた。

 

4.アジア女性基金をめぐる日本の運動の分裂とその要因

 民これまで国家補償を要求してきた運動団体・活動家らの中から、アジア女性基金へ参画を表明する者が表れた。基金への態度を分かつ要因は、「慰安婦」問題の位置づけと、当時の日本の政治状況に対する認識、およびそれに基づく運動戦略の違いであったと考えられる。この違いは双方のあいだで齟齬を生じさせ、アジア女性基金擁護派と基金反対派の間で深い対立に発展した。そしてアジア女性基金をめぐっては、「慰安婦」問題への「態度を決定する『踏み絵』」(上野 2006: 247)となった。

 

おわりに

 個人補償をはじめとする当事者の要求の政策化にあたっての制度的な障壁に加え、「慰安婦」問題をめぐる各アクターの状況認識や戦略の相違、議員との連携不足が浮き彫りとなった。アジア女性基金をめぐる日本の非民主的な政策過程に大きな問題があったことは言うまでもない。したがって政治家・官僚との連携は非常に重要となってくる。それに加えて考察結果が示唆しているのは、「公式謝罪」「国家補償」の具体的な内実とその方法についてのさらなる議論の深化ではないだろうか。

 

参考文献

  • 上野千鶴子「あえて火中の栗を拾う―朴裕河『和解のために』に寄せて」朴裕河著, 佐藤久訳『和解のために―教科書・慰安婦・靖国・独島』平凡社,2006年、243-251頁。
  • 鈴木裕子『戦争責任とジェンダー―「自由主義史観」と日本軍「慰安婦」問題』未来社、1997年。
  • 田中宏『在日外国人 第三版』岩波書店、2013年。
  • 村山富市「インタビュー 村山富市 元内閣総理大臣・アジア女性基金理事長」財団法人女性のためのアジア平和国民基金『オーラルヒストリー アジア女性基金』2007年、11-21頁。