第二次世界大戦におけるユダヤ人迫害/虐殺へのリトアニア人の関与と その評価

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日本平和学会 2018年度春季研究大会        東京大学大学院総合文化研究科

2018年6月23日                       博士後期課程 重松尚

「ジェノサイド研究」分科会            hisashishigematsu@gmail.com

 

第二次世界大戦におけるユダヤ人迫害/虐殺へのリトアニア人の関与と

その評価 

 

はじめに

・リトアニアにおけるホロコースト——

 ・リトアニア・ユダヤ人(約20万〜20万8000人)のうち90〜95%が殺害される(1940年にリトアニアに

 編入されたヴィルニュス地方を含む) 

  ・この割合は、全ヨーロッパで最も高いと指摘され 、リトアニア人による関与があったことがその要因の一つに挙げられる

 ・リトアニアでは独ソ戦が始まったまさにその日からユダヤ人虐殺が起きた

  ・ナチが最初から絶滅政策を実行した最初の地域である(=ユダヤ人の権利の制限→ゲットーへの収容

   →殺害、という段階を経た中欧・西欧とは対照的)、とも指摘される 

 

・本発表では、第二次世界大戦期にユダヤ人に対する迫害や虐殺に関与したリトアニア人が、現在のリトアニアにおいてどのように評価されているのかに着目する。

 

・リトアニアにおけるホロコーストは、以下の3〜4つの時期に区分される(イスラエルの歴史家イツハク・アラドによる区分 およびリトアニア人歴史家のアルーナス・ブブニースによる区分 を参考に、一部修正)

  (1)1941年6月22日〜12月

      a. 1941年6月22日〜7月

      b. 1941 年7月〜12月

  (2)1941年12月〜1943年3月

  (3)1943年4月〜1944年7月中旬

 

歴史(0)1940年6月〜1941年6月21日——LAFの結成

・1940年6月、体制転換、ソヴェト化始まる  8月、ソヴェト連邦に編入

  →知識人や政治指導者らがドイツに亡命

・1940年11月17日、ベルリンでリトアニア人行動主義戦線(LAF)が結成

  =共産党を除く主要政党の指導者や外交官らが結集

  ・カジース・シュキルパ(Kazys Škirpa)元駐独公使(1938〜40)がLAFのトップに

    =1939年、シュキルパは親独外交を主張

・LAFは、リトアニアの独立回復を目指し、対ソ抵抗運動を展開

・ベルリンを本部とし、カウナス、ヴィルニュスに司令部を置く →連携を図る

 

・1941年3月19日、本国のリトアニア人に向けて宣言を出す(以下資料 )

 

  ・近いうちに独ソ戦が始まることを示唆

  ・独ソ戦開戦と同時に抵抗運動を展開できるように、今から準備するよう呼びかけ

   (「余計な犠牲」を避けるため、今はまだ抵抗運動を起こさないこと、とした)

  ・開戦後のドイツ軍への支援を呼びかけ

  ・ユダヤ人の殺害を示唆(共産主義の協力者らはユダヤ人を殺せば免罪される(第2項)、ユダヤ人の運

  命は決まっている(第6項)、など)し、ユダヤ人に国外退去を命じる

 

・1941年頃(日時不明)、LAFは、綱領構想を発表(以下資料 )

 

・第16条の内容は、リトアニアにおけるユダヤ人の居住の権利を剥奪するものと解されている 

 

歴史(1-a)1941年6月22日〜7月——独ソ戦と六月蜂起、リトアニア臨時政府の樹立

・1941年6月22日、独ソ戦開戦(ドイツ軍がリトアニアに進攻)

・同日、リトアニア全土で蜂起(六月蜂起)

・同日、各地でリトアニア人軍事組織などによる無差別的なユダヤ人殺害が発生(略奪なども横行)

  =当局(例えばドイツ当局やLAFなど)の指示による政策として行われたのではなく、無政府状態にお

   いて発生した、いわばポグロムであり、この点で1-b以降の時期とは区別される

・23日、リトアニア臨時政府の樹立と独立の回復が宣言される

   ↑ドイツ政府は、臨時政府は容認したが、独立は認めず

 ・シュキルパが首相となる予定だったが、ベルリンにて自宅軟禁

  →教育相となったユオザス・アンブラゼヴィチュス(Juozas Ambrazevičius)が首相代行を務める

・24日、ドイツ軍がカウナスに到着。その後、リトアニア全土はドイツの支配下に入る

 

・ナチ親衛隊将校ヴァルター・シュターレッカー(Walter Stahlecker)は、リトアニア人パルチザンが6月25〜26日の夜にユダヤ人1500人を殺害したこと、その後の数日でさらに2300人のユダヤ人を殺害したこと、このようなポグロムはドイツ当局の指示によらないことを報告している (なお、これに関してA・ブブニースは、ポグロムの規模は実際にはそれほど大きくなかったのではないかと疑義を唱えている )。

 

・27日、臨時政府は、「ユダヤ人の共産主義活動およびドイツ軍に対する破壊工作により、彼らに対してあらゆる手段を講じる必要がある」としながらも「公の場でのユダヤ人虐殺は避けなければならない」と閣議決定。さらに、進行するユダヤ人虐殺はLAFや臨時政府とは無関係である旨を宣言 

・ドイツ軍がリトアニア人部隊の組織を許可

 →臨時政府は28日に民族労働防衛大隊(Tautinio darbo apsaugos batalionas; TDA)を組織

    =臨時政府は、臨時政府とTDAを内閣と国軍の関係として位置づけ

・民族労働防衛大隊(TDA)は臨時政府の意向とは別にドイツ当局の意向に従い行動するようになり、ユダヤ人虐殺にも関与するように(次節)

 

歴史(1-b)1941年7月〜12月——ナチ・ドイツによる支配の確立

・1941年7月、リトアニア全土においてナチ・ドイツの支配が確立

・臨時政府はドイツ当局にリトアニアの独立の承認を求めるも、ドイツはこれを認めず

  →臨時政府は8月5日に活動停止させられ、LAFも9月26日に解散させられる

・民族労働防衛大隊(TDA)は特別部隊ゾンダーコマンドとしてドイツに協力し、リトアニア各地のユダヤ人虐殺に関与

  →1941年7月4日から12月11日までのあいだに、民族労働防衛大隊(TDA)は2万6000人のユダヤ

  人を殺害 

・そのほかリトアニア人自警大隊や補助警察、地方の警察署の警察官らもユダヤ人殺害に協力

・1-aの時期と比較して、1-bの時期においては人種主義に基づくユダヤ人殺害が行われた

 

・1941年秋までにリトアニア・ユダヤ人の大半(約15万人)が殺される 

・アラドは1941年6月22日から12月までのあいだにリトアニア・ユダヤ人の8割(約16万〜16万4000人)が殺害されたとしている 

・残りのユダヤ人はゲットーに収容され、労働力として利用される

 

歴史(2)1941年12月〜1943年3月——「比較的静かな期間」

・この時期、ドイツ当局はリトアニア各地の都市に建設されたゲットーに収容されたユダヤ人の労働力を最大限利用することを目的とした。そのため殺害されたユダヤ人の数は相対的に少なく、「比較的静かな期間 」であったとされる

 

歴史(3)1943年4月〜1944年7月中旬——ゲットーの解体とユダヤ人絶滅政策

・1943年2月、ドイツ当局はリトアニアのゲットーをすべて解体することを決定。3月以降順次解体される

・1943年9月23〜24日、ヴィルニュス・ゲットーが解体される

 また、労働力に適しているとされたユダヤ人はエストニアやラトヴィアの強制収容所に移送され、労働力に不適とされたユダヤ人はアウシュヴィッツに送られ殺害された。そのほか、ヴィルニュス近郊などでも数千人のユダヤ人が殺害され、リトアニア人警察大隊がこれに関与 

  →労働力として強制収容所に移送されたユダヤ人の多くも、後に殺害される

 

リトアニアにおける対独協力(コラボ)について

・リトアニア語のkolaboracija; kolaboravimas(協力(コラボ))は、(1)裏切りまたは売国、(2)社会の大半が支持しない当局に協力すること、(3)占領当局に協力すること、などを意味し、一般に「協力」を意味するbendradarbiavimasとは区別される用語(以後、「コラボ」のルビを振ることで両者を区別する)

  →「協力(コラボ)」や「協力者(コラボレーター)」(kolaborantas)には相当否定的なニュアンスが含まれる。

   ゆえに、ある人物に関して少しでも肯定的な評価を見出そうとする立場からは「協力(コラボ)」や「協力者(コラボレーター)」

   という用語は忌避される(後述)

 

・リトアニアにおいては2つの次元で対独協力(コラボ)が行われたとの指摘 

  1. 言説(the discursive)——極右思想家、臨時政府、LAF  =ユダヤ人殺害に直接は関与せず

  2. 実行(the actual)——リトアニア人警察大隊、準軍事組織、一般市民  =ユダヤ人殺害に直接関与

    ↑現在のリトアニアにおいては、2.は対独協力者(コラボレーター)であったと広く評価されているが、

    1.に関しては、対独協力者(コラボレーター)にあたるか否か論争が繰り広げられている

 

対独協力(コラボ)に関するリトアニア人歴史家の見解

・対独協力(コラボ)に関して、リトアニア人歴史家ヴィータウタス・ティニニスは次のような見解を示している 

 ・「協力者(コラボレーター)」を、(1)占領者を支持する者、(2)祖国の売国奴〔išdavikas〕、占領当局の指示や政策を実行

 し、自国民を強制的に占領者の意志に従わせる者、などと独自に定義

 ・本当の協力者(コラボレーター)(すなわちドイツと永遠に関係を保つことに同意する者)は多くなかったとする

  (ナチと協力したリトアニア人の多くはただリトアニアの独立を望んでいただけ)

    ↑「本当の協力(コラボ)」はリトアニアをドイツに売り渡す行為(協力自体が目的)であるのに対し、祖国

     の独立という愛国的目的のために手段として協力したのであれば「売国」ではないので、協力(コラボ)に

     はあたらない、という主張

 ・LAFおよび臨時政府は協力者(コラボレーター)にあたらないとする(以下、ティニニスの臨時政府に対する評価)

   ・「臨時政府の構成員は、個々人としては、既に始まっていたユダヤ人ジェノサイドには反対だった」

  ・「ユダヤ人差別はドイツ占領当局によって主導されたが、リトアニア人の諸機関は反ユダヤ政策を

   実行するよう要求された」

   ・「臨時政府はドイツ占領当局との対立を望んでいなかったため、ナチの反ユダヤ政策に同意」

   ・「ユダヤ人迫害と殺害(ホロコースト)は関連するが異なるもの」

  ・「臨時政府はユダヤ人殺害とは直接関係ないが、迫害は行った」

 

リトアニアにおける「公的史観」

・2012年、リトアニア外務省のイニシアティヴにより『リトアニアの歴史』が出版される 

  =リトアニアにおける「公的史観」を知る手がかり

・『リトアニアの歴史』では、臨時政府について、以下のとおり記述されている

  「〔臨時政府は〕ナチ・ドイツからの譲歩を引き出そうとしたために、反ユダヤ主義的宣言を出した 」

  「臨時政府がナチに解散させられたことから、臨時政府がリトアニア民族の利益を第一に考えていたこ

   と、ドイツ当局の意志に反して臨時政府の樹立が宣言されたこと〔…〕は明らかである 」

  →LAFによって樹立された臨時政府は対独協力者(コラボレーター)ではなくむしろドイツと対立する立場にあった、と

   の見解が示されている

    =ティニニスの議論との共通点が見られる

 

ジェノサイド・センター所長の見解

・2016年、LAFのトップであったシュキルパの故郷であるナマユーナイ(Namajūnai)村にシュキルパの活動を顕彰する記念碑が建立される

  →「反ユダヤ主義者」とされるシュキルパを顕彰することに対して非難の声が上がるも、地元パスヴァ

   リス地区のギンタウタス・ゲグジンスカス(Gintautas Gegužinskas)自治体長は、「K・シュキルパもま

   た過ちを犯したのかもしれないが、しかし私たちパスヴァリスの人々にとって彼は、リトアニアの国

   家としての地位を固めるのに多く関わった偉大な人物である」と述べる

・リトアニアの歴史認識に関わる国家機関「リトアニア住民のジェノサイドとレジスタンスに関する調査センター 」(以下、ジェノサイド・センター)のテレセ・ビルテ・ブラウスカイテ所長は、(ソ連時代において研究者がマルクスやレーニンを引用せざるを得なかったように、)「K・シュキルパもまた自らが生きる時代の言葉で語り、当時の人々に理解されるよう話したのだ」と述べ、さらにシュキルパの活動には反ユダヤ主義的行為は一切見られないとして、記念碑の建立に問題はないとの見解を示した 

 

・ジェノサイド・センターが所管する「ジェノサイド犠牲者博物館」(在ヴィルニュス)で対ソヴェト・パルチザンのユオザス・クリクシュタポニス(Juozas Krikštaponis)の写真が掲載されていた

  →クリクシュタポニスは対ソヴェト・パルチザンとして活動する以前のナチ占領期においては、民族労

   働防衛大隊(TDA)第2中隊隊長としてユダヤ人虐殺に関わっていた人物として知られる

・クリクシュタポニスの写真が展示されている事実を指摘されたブラウスカイテ所長は、「彼は博物館に展示されるべきではない。彼を英雄として描写すべきでない。彼は殺人者なのだ」と述べ、即座に展示を撤去 

 

 →ブラウスカイテ所長は、ユダヤ主義的言説を広めたシュキルパに対する評価とは対照的に、実際にユダヤ人虐殺に直接関与した人物に対しては否定的な評価を下す

 

おわりに

・ホロコースト研究においては、ユダヤ人虐殺に直接関与した人々(例・民族労働防衛大隊(TDA)、リトアニア人警察大隊)も、反ユダヤ主義的言説を流布し反ユダヤ主義的政策に関わりつつも虐殺には直接関与しなかった人々(例・LAFや臨時政府)も、ともに対独協力者(コラボレーター)として位置づけられ、ゆえに否定的な評価が下される

・リトアニアにおいても、同様の見解を示す歴史家は少なくない

・しかし、リトアニアの「公的史観」や歴史認識に関する国家機関の見解では、虐殺に直接関与した者は否定的に評価されるのに対して、LAFおよび臨時政府の活動はリトアニアの独立のためであったとして正当化される

・LAFや臨時政府のように、ユダヤ人殺害に直接は関与していない(しかしユダヤ人迫害は行った)機関に対する評価はリトアニア国内では未だ確立していない。歴史家のあいだでは、評価をめぐる論争も乏しい