日本平和学会2018年度春季研究大会 報告レジュメ
文化的暴力への非暴力的抵抗:現代日本における「生の政治」の考察
滋賀大学国際センター特任講師・
立命館大学客員協力研究員
田村あずみ
1. はじめに
本報告では、現代日本社会に存在する暴力とそれに対する政治的抵抗の可能性を考察する。2000年代、とりわけワーキングプアの視点から、平和とされる日本社会における生存の危機が訴えられた(赤木 2011; 雨宮 2010; 湯浅 2008)。ガルトゥング(Galtung 1969)のいう構造的暴力が日本社会に広がる格差に相当するならば、それを正統化する「文化的暴力」(Galtung 1990)の一つは、例えば自己責任論だろう。文化的暴力への抵抗という政治課題は難問である。第一に、この暴力はすでに私たちが深く内面化しており、それが自らの生を抑圧していることに気づけない。第二に、文化的暴力への抵抗の形を模索しても、既存の政治学の枠組みでは、新たな文化的暴力の産出へと導かれてしまう。アカデミアはこれらを念頭に置き、現代日本における非暴力的抵抗の形を模索する必要がある。
2. 文化的暴力の浸透と連帯の困難
(1)労働における暴力
暴力をガルトゥングの定義に基づき、私たちの潜在的可能性の実現を阻む力と考えるのであれば、現代日本の労働環境は深刻な暴力である。例えば過労死に追い込まれる若者は「仕事を失いたくなければ長時間働く必要があり、仕事を辞めれば生きていけない」と考えているという(Lane 2017)。2018年の大卒就職率が過去最高となっても、国の労働施策は長時間労働の抑制から逆行しつつあり、非正規雇用の低賃金労働も改善されない中、この暴力的な二者択一を強いる構造に変化はない。しかし多くの人は団結して構造に抵抗するより、個別に構造に適応しようとする。長時間労働を強いられる正社員や、ワーキングプアが連帯して立ち上がることはなぜ難しいのか。「私たちは99%」というオキュパイ運動のスローガンは、彼らを結びうる政治的アイデンティティを示したが、赤木智弘は99%の中の亀裂をみる。99%のなかの上層は自らの安定を維持しようと、むしろ権威に従属するため、流動化の希望は「戦争」に託すしかないというのだ(赤木 2011)。
(2)疎外と文化的暴力
私たちの多くは不安定なプレカリアート(雨宮 2010)だが、生の脆弱性をもたらす構造は常態とされ、そうした構造が精神に及ぼす影響は「個人的な問題」にされるため、その事実に気付かない(Institute for Precarious Consciousness 2014)。社会学者アルベルト・メルッチによれば現代社会の搾取とは、意味を構築する力からの疎外だ(Melucci 1996)。自らの生の価値を自分で肯定できず、決められた価値の生産だけに創造性を利用され、他の可能性を奪われるのは文化的暴力であり、それはフーコーの生権力の概念とも繋がる。
3. 文化的暴力に対する非暴力抵抗の概念
(1)既存の政治概念における抵抗
文化的暴力への政治的抵抗はどんな形をとるか。政治を統治の視点で考えれば、それは法や規範などの秩序のもとの支配を意味する。この枠組みの中では、抵抗はより正当な権力の構築と、単一権力の暴走を防ぐシステムの構築、または権力の多元化として語られるが、こうした静的秩序そのものが「別の可能性」を阻害する暴力性を内在する。ある静的秩序は、そこから逸脱する生の創造性を肯定できない。従って彼らを包括する別の秩序が構築されるまでは文化的暴力として機能し得る。しかし現状の秩序にそれなりの権益を持つマジョリティは、変化より現状維持を望むというのが赤木の指摘であった。
一方で自治の概念は権力に依拠しない。生の潜在性を分子レベルで管理・操作し、商品化する生権力に対し、例えばローズ(2014)は市民も専門知識を身に着け、研究支援の寄付等を通じて政策決定に関与する道を示す。だがこうした余裕のある市民は少数である上、現代科学技術は専門家も予測不能な結果を生む場合があり、抵抗の現実味は乏しい。
(2)Powerに関する考察
暴力ではない抵抗の力とは何か。英語Powerの定義としては、まずmanipulation, coercion, authorityなどが上がるが、これはガルトゥングの暴力の定義に当てはまるだろう。一方でability to do somethingなど、暴力の定義から外れる概念もある。ホロウェイ(2009)はこの二つをPower-over(させる力)とPower-to(する力)に区別する。「させる」力は権威・権力である。ホロウェイにとって現代社会の抵抗は「させる」力=権力を奪い返すことではなく、「させる」力から「する」力を解放し、新たな創造を行うことだ。権力は対象を定義し、アイデンティティを与え、それ以外のものになる可能性を封じることで生まれる。それ故に抵抗は「非アイデンティティ」の闘いの形式をとる(ホロウェイ 2009)。
4. 災厄と「生の政治」
(1)災厄という亀裂
ホロウェイは、「させる」力に依拠した既存のシステムに亀裂を入れる私たちの主体性を信じる。しかしプレカリアートは脆弱性ゆえに隷従から逃れられない存在だ。よって報告者は、亀裂とは私たちが作るものというより、不安定なシステムに予期せぬ形で生じるものとして、これを政治的抵抗の発端と考える。ソルニット(2010)は、革命と災害が支配的システムの転覆と新たな可能性の開示という点で共通すると述べる。赤木(2011)の「戦争」も同様の意味を持っていた。災害については、ソルニットが既存の秩序の崩壊によって生まれた相互扶助の関係性をユートピアと描く一方、クライン(2011)は災害を市場チャンスにして新自由主義的政策を強行する手口を告発した。この真逆の態度は、仏哲学者タッサン(2015)が3・11後の「二つの道」として示すものと共通している。その一つは自然を都合よく利用して利益を引き出す従来の価値観の継続。もう一つは支配や制御の概念を離れ、別の関係性を築くこと。それは自然が内在する不確実性の中で生きることと言えるだろう。
(2)3・11後の反原発運動
3・11は既存の秩序に亀裂を生んだ。筆者が主に2012年に東京で調査した反原発運動の参加者は、その動機として混乱や怒り、社会に無関心であったことへの後悔を語り、路上で感情を表出して分かち合うことが救いだったと振り返った。デモ参加者の自他認識に、ホロウェイの「非アイデンティティ」の闘いの具体例が見られる。例えば彼らは自らを不特定の無名の個(デモの「頭数」、「(山のにぎわいとしての)枯れ木」)と表現する。さらに原発事故という亀裂は、それまで自分と無関係と思っていた他者(福島の人々、原発労働者、未来世代)との繋がりを再認識するきっかけとなった。こうして生まれた運動は、先立つ抵抗主体なしに、災害という亀裂に巻き込まれた個が、混乱の中で他者との関係性をより倫理的にしようともがくことが、事後的に抵抗を形成する可能性を示す。自律的な個ではない、他者と絡まり合っているがゆえに脆弱で不安定な個こそが、社会を変える創造的な政治アクターになりうると、3・11後の反原発運動から学ぶことができる。
(3)災厄後の生の政治とは
安定的な自己システムに、それまで「外部」とみなしてきた制御不能の力が侵入するのが災厄である。安定的だと信じてきた自分のアイデンティティや、当然のものと受け入れてきた権威が揺らぎ、混沌とする中で、侵入してきた他者に応答しながら自分のシステムを再編成する。これは理解不能なものを定義づけて制御する力ではなく、不確実性に応答しながら、新しい生の様式を創造する力だ。こうした力の作用について、新唯物論(New materialism)は、完全に自律的な主体でもなく、従属的で無力でもないエージェンシーによる「自己組織化」のシステムを参照する(Connolly 2013; DeLanda 2002)。常に変化し、不確実性を内在するシステムの中で、互いに絡まり合った生を肯定する配置を個々人が探ってゆくことが、生命の本質を反映した「生の政治」であり、統治としての政治とは別の抵抗を示唆する。
(4)非暴力的な知としての平和学
政治学や社会学が、定義付け、法則の発見や規範の構築という従来の科学的枠組みの中でのみ展開される限り、それはPower-overに基づき「他でありえた可能性」を奪う暴力になりかねない。一方の震災が示唆する「生の政治」とはPower-toの政治であり、定義を逃れた創造である。フーコーは、アイデンティティを伴わないこの生の様式とは「自分自身および他の人間たちとともに個体性、存在、関係性を作り出し、名前のない特性を作り出すこと」であるという(2001, p.50)。未知のものを支配的な意味体系に押し込めて創造性を奪うことなく、理解できないものとの出会いを歓迎し、新しい価値を創造することで互いの生を肯定することが、自己責任論などの文化的暴力への非暴力的抵抗となる。現状の社会科学がPower-overの知に席巻される中で、暴力の存在に敏感であるべき平和学こそ、こうした別の知を積極的に創造しながら、尊厳ある生の実現を模索してゆかねばならない。
参考文献
Connolly, W. E. (2013) The fragility of things: Self-organizing processes, neoliberal fantasies, and democratic activism. Durham and London: Duke University Press.
DeLanda, M. (2002) Intensive science and virtual philosophy. London: Continuum.
Galtung, J. (1969) Violence, peace and peace research. Journal of Peace Research, 6(3), pp.167-191.
Galtung, J. (1990) Cultural Violence. Journal of Peace Research, 27(3), pp.291-305.
Holloway, J. (2010) Crack capitalism. London: Pluto Press.
Institute for Precarious Consciousness (2014) Anxiety, affective struggle, and precarity consciousness-raising, Interface, 6 (2), pp. 271–300.
Lane, E. (2017) The young Japanese working themselves to death. BBC News. 2 June 2017. [Online] Available at: http://www.bbc.com/news/business-39981997
Melucci, A. (1996) Challenging codes: Collective action in the information age. Cambridge: Cambridge University Press.
Tamura, A. (2018) Post-Fukushima activism: Politics and knowledge in the age of precarity. London: Routledge.
赤木智弘(2011)『若者を見殺しにする国』朝日新聞出版.
雨宮処凛(2010)『生きさせろ! 難民化する若者たち』筑摩書房.
クライン, ナオミ(2011)『ショック・ドクトリン: 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(幾島幸子・村上由見子訳)岩波書店.
ソルニット, レベッカ(2010)『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(高月園子訳)亜紀書房.
タッサン, エティエンヌ(2015)「フクシマは今―エコロジー的危機の政治哲学のための12の註記」 村上勝三編 『ポストフクシマの哲学―原発のない世界のために』 明石書店.
フーコー, ミシェル(1986)『知への意志(性の歴史)』(渡辺守章訳)新潮社.
フーコー, ミシェル(2001)「ヴェルナー・シュレーターとの対話」(野崎歓訳)蓮實重彦・渡辺守章監修『ミシェル・フーコー思考集成IX 自己・統治性・快楽』筑摩書房.
ホロウェイ, ジョン(2009)『権力を取らずに世界を変える』(大窪一志・四茂野修訳)同時代社。
湯浅誠(2008)『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』岩波新書.
ローズ, ニコラス(2014)『生そのものの政治学: 二十一世紀の生物医学、権力、主体性』(檜垣立哉監訳)法政大学出版局.