憲法理念からのネイション意識の再構築

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日本平和学会2018年度春季研究大会

 

 

憲法理念からのネイション意識の再構築

 

中央大学

暉峻僚三

 

キーワード:エスノセントリズム、レイシズム、人権、憲法、ネイション、国民と人民、税金

 

1.はじめに

 「戦後レジームからの脱却」をあげる現政権が、彼らにとっての悲願の自主憲法制定=改憲に前のめりになっていることもあり、近年改憲か護憲かというやや単純化された議論を報道メディアで目にすることも多くなってきた。本報告では、改憲 vs 護憲以前の問題として、日本社会がどのように憲法の揚げる理念を扱ってきたのかを、レイシズムという視点から述べるとともに、日本社会にすっかり根をはっているようにも見える、想像上の血統としての「日本人」意識から脱却した、ネイション意識の再構築=ナショナリズムの再構築を、現行憲法のあげる理念と絡めて提起したい。

 

2.改憲プロモーションと護憲プロモーション。どちらにも感じる違和感

 テレビ、ネット空間、紙媒体などのメディア空間では、改憲に向けたプロモーション、護憲のプロモーションが盛んに行われている。改憲に向けたプロモーションでは「アメリカが作った憲法は、日本の国柄に合わない」「時代に合わなくなってきたから変えるべきだ」というトーンの主張がよく見られる。しかし、「国柄に合わない」「時代に合わない」というのであれば、少なくとも憲法の揚げる理念を実現させようとしてきたことが前提でなければ、国柄に合わない、時代に合わなくなってきたという理屈は通らない。護憲へのプロモーションは、かなりの部分を9条が占めるが、国民主権、人権の尊重、平和主義を3つの柱とする憲法を「守れ」というトーンの主張である。しかし、「守る」のであれば、それは憲法の提示する理念を達成したという前提でなければ「守り」ようもない。

 では、日本社会は、日本国憲法をどのように扱ってきたのだろうか。本当に「変えろ」「守れ」と言うことができるほど、真摯に憲法の理念は社会で共有されてきたのだろうか。

 

3.憲法の理念は日本社会からどのように扱われてきたのか

 私自身は、憲法の揚げる理念を次のように理解している。国民主権、人権の尊重、平和主義という3つの幹は、掘り下げてゆけば、個の最大限の尊重という根に行き着く。一人ひとりがその人として尊厳を保って生きてゆく権利(人権)があり、尊厳ある個が熟議の上社会を作ってゆく国民主権があり、個々を数として動員し、殺し、殺される戦争や武力による問題解決を否定する平和主義がある。

 戦前・戦中の天皇に身を捧げる集合体としての日本人という思想は、徹底した個の軽視、命の軽視となって、大きな災いを日本に、植民地に、戦争相手国にもたらした。

 そのような苦い教訓からたどり着いたはずの「個の最大限の尊重」は、どれだけ統治機構をはじめとする私たちの社会に根付いたのだろうか。日本社会にしっかりと埋め込まれており、近年はヘイトスピーチと呼ばれる憎悪表現という形で表出することも多い、レイシズムを視点として考えてみたい。もちろん、現行憲法が、全くレイシズムと無縁というわけではないし、全てが理想的だと考えているわけではない。現行憲法自体が内包しているレイシズムとの親和性についても留意する必要はある。

 

4.留意点: 現行憲法の内包するレイシズムとの親和性

 留意点として、次の点をあげたい。まず、第1条の天皇についての規定である。条文によれば、天皇は日本国民統合の象徴ということになっている。条文の中の天皇が、天皇という人を指しているのか、日本の制度の中の職・身分を指しているのかは、法学に疎いので良くわからないが、あまり違いはないようにも思える。天皇は血統ゆえに天皇である以上、その2つに明確な線引きはできないからだ。

 戦前・戦中には、現人神とされてきた天皇は、戦後、人間宣言をした。つまり「神話との繋がりを否定するわけではないけど、少なくとも神ではありません、人間です」と宣言したことになる。しかし、一人の人間が、同じ社会に住む全ての人の統合を象徴するという理屈は、天皇が一人の人間=個であることを前提として、成り立つのだろうか。神話という想像上の血統のつながりを背景としなければ、成り立たないのではないだろうか。そして、日本国民の統合を血統に求めているのだとすれば、天皇制そのものがレイシズムと親和性を持っているとは考えられないだろうか。

 そして、もう一つレイシズムとの親和性を感じる要素は、憲法のあちこちに見られる「国民」という表記である。GHQ草案ではPeopleやPersonsにと表記されている部分に該当するところは、憲法では「国民」と表記されている。そして、国民という言葉は、時として排外性を帯びる。裁判所の判断には、国民は必ずしも、日本国籍保持者を意味するものではないことを示すものもあるが、憲法の中の国民という表記と、社会の中で一定程度共有されている、想像上の血統に繋がりを求める「日本人」像が結びついた時、「国民」という言葉は暴力性を持つのではないか。しかも、日本は、最後の勅令として憲法施行前日に突然、選択の余地なく外地戸籍の人々を「国民」から除外したのだ。

 例えば、国会前に集い、首相退陣を求めるデモで「国民なめるな」というシュプレヒコールをあげる人々に、悪意はないだろう。そして、おそらく集う人々は、「平和」「人権」などのキーワードに敏感な人々が少なくないだろう。しかし、「国民なめるな」とコールしている時、何世代も日本に根を下ろし暮らしてきながらも、投票すらできない、国民として扱われてこなかったと感じている人々に思いを至らせている人は多くないだろう。この例は、アクティブな形を取らなくとも、いかに受動的な形であれ、排外性が私たちの社会に、常識として根付いているのかを示していないだろうか。

 

5.レイシズムに寛容な社会

 留意点はありつつも、全体として、現行憲法は「個の最大限の尊重」を根っことして掲げていることは間違いがないだろう。

 では、個を最大限の尊重する社会を私たちは作ってきたのだろうか。また、個を軽視する統治に対して、どれだけ異を唱えてきたのだろうか。残念ながら、個の最大限の尊重に対して、極めて後ろ向きの態度を取ってきたのが、日本社会の姿ではないだろうか。

 人は様々な属性・帰属意識を持つものだ。私は、人の属性の中でも、自分の意思で変えることができないか、変えることが難しいものに対して発生する差別がレイシズムであると理解している。自分の意思に関係なく纏ってしまう「脱げない服」である属性に、単一のネガティブな色をつけ、そこに属しているとみなす個の尊厳を壊すレイシズムは、現行憲法の根っこである「個の最大限の尊重」とは相容れない。もし、日本社会に個の最大限の尊重という理念が共有されているのだとすれば、少なくとも公的な空間におけるレイシズムは許されないはずである。しかし、現実はどうだろうか。公人による憎悪表現まがいの(またはそのものの)発言は枚挙に遑がないし、公教育空間における地毛証明書など、統治文化のレイシズムから、草の根のヘイトスピーチに至るまで、日本社会はレイシズムへは極めて寛容なように見える。もちろん、日本だけではなく、世界中どこの国・地域にもレイシズムは存在する。大切なのは、ネット上も含めた公的空間におけるレイシズムの表出を、明確に許されないこととする法体系とその運用、そして民主主義の社会に暮らすものとしての市民意識である。人種差別撤廃条約など、日本が批准している条約も含めれば、十分ではないかもしれないが、法的なフレームは存在する。法的なフレームがあるにも関わらず、朝鮮半島や中国への繋がりを持つ人々をターゲットとしたヘイトスピーチがほぼ野放しになっているような現状は、法の運用すら怠る程、「個の最大限の尊重」が社会で共有されていないことにならないだろうか。

 憲法では、14条において人種、信条、性別、社会的身分又は門地による差別の禁止と法の下の平等を定めており、98条では締結した条約、確立された国際法規の誠実な遵守を定めており、99条は公人による憲法の尊重と擁護の義務を定めている。しかし、実態はどうだろうか。

 日本国憲法では、個の最大限の尊重を表す人権、平和主義、そして国民主権を、国民は誠実に希求し、不断の努力によって保持してゆくことになっている。しかし、上記のような、公人によるあからさまなレイシストっぷりへの社会の寛容さ、学校での地毛証明書に見られるような集合体主義、日米同盟への世論などをみると、そもそも人権、平和主義、国民主権を、日本の人々は希求したり、不断の努力などをしてきたとのだろうかと強く疑わざるを得ない。

 想像上の血統に繋がりを求めるエスノセントリズムが、しっかりと日本社会に根付いているのに比べると、民主主義社会の主役としての日本の市民意識=ネイションの意識は、レイシズムを放置する現状を鑑みれば、根付いているとは到底いえないだろう。

 

6. 「個の最大限の尊重」を共有する人民としてのナショナリズム

 ナショナリズムは、どちらかといえば「悪役」のイメージ、エスノセントリズムのイメージで語られがちだが、近代ナショナリズムは民主主義と不可分でもある。例えば、近代ナショナリズムに大きなインパクトを与えたであろうフランス革命は、少なくとも理想としては、神の信託を受けた王が統治する領域と、神の声を運ぶ教会の統治する領域の中で俗世界と重なる部分を、その領域に暮らす人民自らが統治する領域へと変えるパワーシフトであり、ナショナリズムは共和国思想を共有する人々による人民主義でもあった。(現実はともかくとしてという但し書きはつくが)

 戦後の日本は、制度としては憲法を頂点とする民主主義国になったが、想像上の血統に紐帯を求める日本人意識・国体思想は社会に埋め込まれたままである。そして、戦前・戦中に、エスノセントリズムの扇動者と、動員された人々によりなされてきた「やってしまった痛み」の集合的記憶に向き合う機会を、戦後の日本社会は、できる限り放棄してきた。だからこそ、明治以降に根付いてきた、植民地やアジアの近隣諸国への優越感情や差別感情は解消されるはずもなく、「やってしまった痛み」の再生産は今日に至るまで、肉体的な暴力は伴わなくとも、レイシズムの表出としていたるところで続けられている。

 想像上の血統に紐帯を求める「日本人像」というエスノセントリズムに囚われている限り、「個としての我」が重視されることはない。「個としての我」が重視されなければ、同化主義・全体主義的傾向に歯止めはかからず、「すごい我々」への批判的言論・言動は、「すごい我々」を同一であると感じるメンバーの「我」への批判とみなされ、「反日認定」となって激しい攻撃の的となる。

レイシズムが再生産され続ける背景には、想像上の血統に紐帯を求めるエスノセントリズムベースの「我々日本人」像があるのではないだろうか。

 レイシズムに決別する社会を築くには、想像上の血統に紐帯を求めるネイションの意識から、憲法の理念を共有する人民としてのネイション意識へのシフトを必要とする。個の最大限の尊重をベースとした、人権、人民主権、平和主義という理念を共有する、日本の領域に暮らす人民という「我々意識」が社会に定着すれば、レイシズムに限らず、現在日本社会の平和を脅かしている様々な問題と決別するための土台を築くことにもなる。例えば、ヘイトスピーチなどの憎悪扇動・表現は、個の尊厳を重視するネイション意識とは相容れないし、沖縄の基地問題や原発も、領域に暮らす個々が同じように最大限、個として尊重されてこその「我々」というネイション意識のもとでは、しわ寄せがいく「彼ら」の問題ではなくなる。

 

7.ネイション意識再構築のためのツール;媒体としての公的資金

 では、どのように「個の最大限の尊重」を根っことする憲法の理念を共有する、人民としてのナショナリズムを構築してゆけるのだろうか。

 「個の最大限の尊重」はそもそも、国境という発想とは相入れないようにも見える。個の最大限の尊重は、人は生まれながらに、同じように尊厳ある存在であるという人権の基本から導き出される考え方だからだ。自然権としての人権という概念に照らして考えてみれば、個の最大限の尊重という理念は国境内だけで流通するようなものではなく、根本的には国という領域で線を引くようなものでもない。では、憲法の理念の共有が、ネイションの意識にはならないのかというと、そんなことはない。

 当たり前だが、統治にはモノ・ヒト・サービスといった資源が必要で、お金がかかる。そして、日本の統治にかかるお金は、日本で暮らす人民が、国籍にかかわらず、直接、または人との関係性において間接的に、税金という形で出資している。公的資金は、平和を構築するために使われることもあれば、使われるお金が平和を損なうこともある。公的資金の使われ方で、平和が損なわれたとすれば、それは、人民が暴力へ出資したことを意味する。個を最大限尊重する理念を共有するネイション意識のもとでは、ネイションのメンバー個々が尊重されているかどうかは、個人の問題ではなく「我々」の問題であり、我々が我々への暴力に対して出資するということになるため、必然的に社会的な暴力に対する意識は高まる。公的なお金という、大半が国の領域の中を流れる媒体を、啓発・教育のツールとして積極的に使うことにより、憲法の理念を共有するネイション意識の醸成促進は可能ではないだろうか。何よりも、お金という数値化できる媒体を通じて考えることで、理念を見える化することができるのは啓発や教育のツールとしては利点と言って良いだろう。

 2022年より、高校では主権者教育に力点を置く「公共」科目が必修となる。憲法の理念を共有するネイションは、違う言葉にすれば主権者としてのネイションでもある。お金という媒体をツールとして使う教育は、公教育空間でも取り入れやすいのではないだろうか。

 もちろん、ネイション意識が簡単に変わるわけではないだろうし、一つのアプローチでレイシズムを克服できるわけでもないだろう。また、上記の提案は、公的なお金の流れについてであり、例えば、憎悪扇動・表現が行われている、ネットや出版などの商業空間をカバーできるわけではない。それでも、公的なお金という媒体をツールとした、憲法理念を共有するネイション意識=人民意識の醸成促進は、憲法を「守る」のか「変える」のか以前に、「やってみる」というステップに進むためにも、大きな意味があると考える。

 

8. 憲法の理念を共有するネイション意識とレイヤーとしての連帯意識

 公的なお金の流れをツールとして使うことには、もう一つの強みがある。日本の公的なお金は、何も、日本の地理的領域の中でだけ完結しているわけではない。領域外にも、様々な形となって流れている。ODAなど、目的地が海外である場合もあるし、在日米軍への予算など、間接的に日本の領域外に流れるお金もある。公的なお金をツールとして使えば、そのお金が流れる先に暮らす人々とも、緩やかな「我々」意識を醸成してゆくことが可能になるのではないだろうか。