日本平和学会2018年度春季研究大会 報告レジュメ
自由論題部会3「脱原発の進む東アジア-台湾、ベトナム、日本の現状と将来展望-」
報告1:台湾の原子力政策転換とその要因
明治大学大学院博士後期課程 鈴木真奈美
キーワード:台湾、脱原発、原子力政策転換、要因、「決め方」
はじめに
2017年1月、台湾の立法院(国会に相当)は「原子力発電設備の運転を2025年までに全て終了する」との条項を含む新しい電気事業法を可決した。同法の施行(同年1月)により、政府は目標年までに原子力発電の利用を終わらせるべく、エネルギー転換に向けた施策を講じていくこととなった。脱原発の法制化は、アジアでは台湾が初めてである。
台湾では脱原発を意味するフレーズとして「非核家園」(The Nuclear-Free Homeland,原発のない郷土)が用いられることが多い。これは原子力発電に反対する台湾の運動が1990年代から掲げてきたスローガンでもある。本報告ではまず、「非核家園」の政治過程を整理し、その上で原子力政策転換という政治的帰結を促した鍵要因を検討する。最後に、原子力政策転換に関する今後の研究課題を示す。
1.「非核家園」の政治過程
(1)台湾の原子力発電の概要と反対運動の形成
台湾は1950年代に米国から研究用原子炉を導入し、それを用いて技術を習得していき、1970年代に原子力発電をスタートさせた。2018年5月末現在、国営台湾電力公司(以下、台湾電力と略す)が、第一原発から第三原発の3ヶ所で計6基の原発を運転している。表1に、台湾の原子力発電所の概要を示す。この表から分かるように、台湾は原子炉やタービンなどの製造能力を保有しておらず、原子力プラント建設の中枢部分は海外企業に依存している。
台湾の原子力法は、原発の運転期間を原則40年までと規定している。既設6基は2018年から順次運転を終えていき、2025年までに全基が運転終了となる予定である。そこで台湾電力は原子力発電を維持するため、1970年代末から第四原発2基の建設計画を進めてきた。言い換えれば、第四原発が運転に入るか否かが原子力政策の方向性を決定づけることになるため、原子力発電の賛成派と反対派は、それぞれの立場から同原発計画を最重要課題と位置付け、攻防を繰り広げてきた。ここでは過去40年近くを振り返る紙幅の余裕はないことから、表2に第四原発計画についての歴代政権の政策と異議申し立て運動の動態をまとめた。既設6基は戒厳令(1949~1987年)の下、中国国民党(以下、国民党と略す)による一党支配が続くなかで計画・建設されたため、人々が異議を唱えることはおよそ困難だった。台湾で原発に反対する運動が形成されたのは、第四原発計画が最初である。反対運動は、戒厳令解除により合法政党となった民主進歩党(以下、民進党)との「同盟」(alliance)を通じて、第四原発問題を国政の争点へと押し上げていった。
(2)「非核家園」法制化までの過程
表2から見て取れるように、第四原発計画は二度中断されている。一度目は2000年、歴史的政権交代を果たした民進党・陳水扁政権が、同原発の建設中止を宣言したことによる。しかし台湾の政治制度では、立法院が予算執行を決議(1992年)した建設プロジェクトを、行政院(内閣に相当)の一存で覆すことはできない。そのため与野党協議の結果、次の二つが決定された。ひとつは第四原発の建設再開である。もうひとつは「非核家園」を将来的な目標と位置づけ、その達成を政府に義務付ける条項を環境基本法(2002年成立・施行)の中に組み入れることである。こうして「非核家園」は与野党がともに目指す政治的「共通概念」となった。しかし「概念」なので達成目標年など具体的な行程は定められなかった。
二度目は2014年である。第四原発は2010年末までにほぼ完成し、国民党・馬英九政権は2011年秋には操業に入りたいとの意向を示していた。しかし同年3月に発生した福島第一原発(以下、福島原発と略す)事故を受けて、社会の幅広い層から第四原発の運転開始に反対する声が沸き上がり、メディアもこの問題を連日のように取り上げた。各種世論調査によると2011年以降、第四原発中止支持は6割から7割で安定的に推移し、「非核家園」は台湾社会の「共通認識」と位置づけられるようになっていった。
反対意見が強まるなか2014年2月、与野党は運転開始の是非を公民投票(国民投票に相当)にかけることで合意した。ところがその翌月、経済部(経済産業省に相当)はホット試験(実際に核燃料を装荷しての試運転)を実施すると発言したのである。与野党合意を反故にし、かつての立法院決議を盾に運転を強行しようとするやり方に対し、市民たちは「民に権力を返せ」(還權於民)をスローガンに、ハンストや台北市幹線道路での座り込みといった直接行動に訴えた。
この2014年3月から4月というのは、「ひまわり学生運動」が馬英九政権による中国とのサービス貿易協定締結の「決め方」に抗議し、立法院を占拠していた時期と重なる。学生たちの占拠行動は政権の正統性(legitimacy)を失墜させ、台湾のテレビ局が同年3月に実施した世論調査では、馬英九総統に対する満足度(支持率に相当)は14パーセントだった。台湾ではその年の秋に統一地方選が控えていた。それもあって国民党内からも第四原発建設停止を求める意見が強まっていき、ついに馬英九は建設続行を断念せざるを得なくなり2014年4月、第四原発計画の凍結を決定した。
第四原発の存廃については、新政権にその決定が委ねられることになった。2016年1月の総統選挙では、候補者3名はいずれも同原発計画の凍結/中止を唱え、そして二大政党である国民党と民進党の候補者は「2025年までに『非核家園』を達成」(以下、「2025年非核家園」と略す)を掲げた。つまり誰が当選しても原子力政策が見直されることは確実となった。そして2016年に発足した民進党・蔡英文政権下で改正電気事業法が成立し、「2025年非核家園」の達成は法的拘束力を有する公共政策となったのである。
2.原子力政策転換を促した鍵要因
(1)「決め方」に対する問題意識
図1は台湾における原子力政策転換の過程を、第四原発計画をめぐる争議と「非核家園」の社会的・政治的位置づけの変化に着目して整理したものである。「非核家園」は原子力発電に反対する運動の目標から「政治的共通概念」へ、そして福島原発事故を受けて「社会的共通認識」となった。それでも政府は第四原発の運転開始を強行しようとしたが、社会の大勢の反対により同原発計画は凍結された。台湾の人々は第四原発を運転したうえで将来的な脱原発をめざすのではなく、その早期実現を選択したのである。そして「2025年非核家園」の法制化へと至ったのだった。
このチャートから分かるように、福島原発事故は原子力発電からの脱却を加速化させる触媒の役割を果たした。同事故はしかし、原子力発電を利用するすべての国々に対し同じように作用したわけではない。また、脱原発を求める運動の拡大や世論の高まりが、必ずしも政策転換に帰結するとは限らないのは、日本の現状が実証している。では、台湾で原子力政策転換が進展した鍵はどこにあるのだろうか。
図1を俯瞰すると、繰り返し現れるパターンが浮かび上がる。それは大規模な示威行動や論争を引き起こしてきたのは政権による非民主的な、あるいはルールに反する「決め方」への不服であったことだ。それらは、①李登輝政権による8年分予算可決(1994年)、②陳水扁政権による建設中止宣言(2000年)、③馬英九政権による公民投票提案(2013年)、④同じく試運転強行発言(2014年)である。つまり政権が提案/決定した政策の中身もさることながら、その「決め方」に対して異議が突き付けられ、それに対応する形で「決め方」が漸進的/非漸進的に変更されていき、それが政策転換を後押ししたと考えられる。そうだとするなら、「決め方」に対する問題意識の強さ――それは「ひまわり学生運動」にも通底する――が、原子力政策転換を進展させた鍵といえるのではないだろうか。実際、台湾では原子力/エネルギー政策の審議会・委員会の在り方や意見聴取システムが変容してきた。それが運動の働きかけによるものなのか、そしてシステムの変容が原子力政策転換にどう作用したのかは、さらなる考察が求められる。
(2)原子力事業の利益構造
福島原発事故後の原子力政策について台湾・日本・韓国の3カ国を比較したKimとChung(2018)は、歴史的に構築された原子力事業の利益構造が複雑であるほど政策転換は困難になると結論した。台湾の発電事業は国営であり、有力な原子力産業は形成されなかったことから、その利益構造は比較的シンプルである。それに対し日本は複数の民間発電事業者が存在し、世界有数の原子力産業を擁する。また韓国の発電事業は国営だが、原子力企業は有力財閥が保有する。そのため日・韓には政策転換に対する拒否権プレーヤーが多い。そして両国が国策として進める原発輸出は利益構造をますます複雑にしている。台湾において原子力政策転換が進展したのは、原子力利益構造が比較的シンプルであったことが一因といえよう。
しかしKimとChungの解析では、日本に匹敵する、もしくはそれ以上に複雑な利益構造が形成されてきたドイツで原子力政策転換が進んだ理由が説明できない。したがって利益構造以外にも、原子力政策転換を規定する構造的要因があると考えられる。ここで提起しておきたいのは、原子力利用をめぐる国際関係である。原子力開発・利用は、多くのケースにおいて、原子力技術の「供給国」(supplier)と原子力協定を締結し、はじめて可能になる。「供給国」は原子力協定を通じて「受領国」(recipient)の原子力政策に影響力を行使できる。東アジア3カ国の場合、「供給国」は米国である。吉岡(2016)は「(日本)の脱原発の前に立ちはだかる最強の壁は、アメリカ政府かもしれない」と指摘したが、台湾の原子力政策転換過程において米国がどのような立場をとったのか、検証する必要があるだろう。
おわりに代えて――原子力政策転換の比較研究に向けて
最後に、今後の研究課題を提示して本報告の締めくくりとしたい。今日までに原子力発電の終了を法制化した国(以下、「脱原子力発電国」と称す)は、台湾以外に、スウェーデン(ただし2011年に法改正しリプレースに限り建設容認)、イタリア、ドイツ、ベルギー、スイスの5カ国である。原子力政策転換についての先行研究は、そのほとんどが経済協力開発機構(OECD)加盟国、なかでも欧米を対象とする事例研究、ないし比較研究である。それに対し本報告では、「新興国」に分類される台湾を対象に原子力政策転換過程とその要因を検討した。今後は台湾の事例研究をさらに進めていき、その上で、①欧州の「脱原子力発電国」と台湾との比較研究――歴史的背景や地理的条件などが異なる国々が、原子力政策転換という同じ政治的帰結に至ったのはなぜか、②台湾・日本・韓国の比較研究――歴史的背景や地理条件が類似する東アジア3カ国で、長期的な原子力政策の方向性に相違が生じたのはなぜか、について検討していきたい。これらの研究は、③日本の原子力政策転換を可能にする上で有用な示唆を与えるものと思われる。
主要参考文献
高銘志(2013)「再訪非核家園之內涵在我國歷年來相關政策與法制之變遷:兼論環境基本法非核家園條款引
發之爭議」『台灣環境與土地法學雜誌』第7期:台灣法學雜誌社:102-130.
鈴木真奈美(2018)「台湾の原子力政策の転換過程:『フクシマ・エフェクト』はどう作用したのか」『「世界の核被害に関する研究成果報告会」報告集』京都大学原子炉実験所:103-118
本田宏・堀江幸司編著(2014)『脱原発の比較政治学』法政大学出版局
吉岡斉(2012)「日本における脱原発時代の開幕 (福島原発事故から考える日本の社会問題)」『大原社会問題研究所雑誌』(641)法政大学大原社会問題研究所:10-27.
賴家陽(2017)「焦點事件與政策停頓 : 以核四封存為例」國立臺灣大學政治學研究所:博士論文.
Chen, Dung-sheng(2016)“Taiwan’ s Civil Society in Action: Anti-nuclear Movements Pre-and Post-Fukushima”, in Hindmarsh.R & Priestley. R eds., The Fukushima Effect: A New Geopolitical Terrain: New York and London: Routledge:43-60.
Kim, Sung Chull & Chung, Yousun (2018) “Dynamics of Nuclear Power Policy in the Post-Fukushima Era: Interest Structure and Politicisation in Japan, Taiwan and Korea”, Asian Studies Review. https://doi.org/10.1080/10357823.2017.1408569