人新世時代の惑星政治とは何か
―気候変動問題を通した理論的諸前提の問い直し―
創価大学
前田 幸男
キーワード:人新世、惑星政治、多重絶滅、自由と民主主義、地政学、コスモ・ポリティックス
1.<問題設定:惑星政治とは/人新世とは>
本報告の問題提起 <なぜ既存の政治学やIRの理論的諸前提に基づいて世界を理解するだけでは、現在起こっている気候変動問題に適切に対処することができないのか、そして適切な対処のためにはどのようなアプローチが要請されているのか>
1.1 惑星政治とは / 科学の三分類が措定してきた「自然とヒト」の分業体制に注目し、その暗黙の理論的前提の問題性について考える。
・専らヒトに焦点を当てる既存の政治学系の議論(地方・国内・比較・地域・国際・グローバル政治など)
・「自然とヒト」を切り離さず一つの枠組みとして捉え、両者の生存/絶滅の問題に取り組む⇒惑星政治
・新しいマテリアリズム⇒J.ベネット/W.コノリー、B.ラトゥール/G.ハーマンらANT等
1.2 人新世とは (Cf. ミシェル・セールの人間プレート論)
・過去3世紀間に人類は何を成し遂げたか?
(クルッツェンやザラジエウィッチなどの地質学者)
A) 6000万人から10倍以上に膨張
B) それに伴いメタンを排出する畜牛の数は14億にまで増加
C) この惑星の表面のおよそ3割から5割は人間によって利用され、作り変えられた
D) 過去数億年に排出された総量以上の化石燃料をわずか数世代で使用。
E) 人間の活動が熱帯雨林地域の生物種の絶滅率を1000倍から10000倍まで引き上げた
F) 地球上のアクセス可能な新鮮な水の半分以上が人類によって使用され、漁業によって海洋生物が乱獲されている
G) 窒素肥料の過剰使用によって土壌が汚染され、マイクロ・プラスチックの海洋への垂れ流し⇒エネルギー使用が20世紀中に16倍に増加したことによる1億6000万トンの年間の二酸化硫黄の大気への排出(それが総自然排出量の2倍以上)。
H) 以上の大部分が、世界人口のたった25%の人々によってだけ引き起こされてきた⇒今後のアフリカの人口爆発を考えると、おそらく地球の現状の環境の保持は難しい。
2.Multiple Extinctionsという問題構成 (以下の①~③をつなげて考えることが重要)
①人間以外の種の絶滅
②人間という種の絶滅
③人間がすでに生身の人間というものを止めている(生身の人間という存在はすでに絶滅している)⇒近代人への主体化という問題
(※1:③のために①にも②にも不感症になっている)
(※2:①や②にはtechnical fixiesで対応するために③からは、ほぼ抜けられない)
(→文学に可能性があるかもしれない。Environmental Humanitiesという分野)
3.社会というものの定義の変更を!
・社会学におけるデュルケーム的伝統の問題点(人間の集合的意識として独立の領域を作ることができるという前提)→本当か?
・カール・フォン・リンネ『自然の体系』(1735年)(分類学の父)
人間:Homo sapiens。2番目の人類、Homo troglodytes(現在、Pan troglodytesとして分類されているチンパンジー)を設定。(人間が人間になったのはいつか?)
・ルソーの『人間不平等起源論』(1755年) /フランス革命と人権宣言(1789年/1793年)
4.政治理論の組み換えを!
4.1 社会契約論
・トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(1651年)。文脈はイギリスの市民革命期の混乱を神に正当性を求めずに秩序を作るというところにあった。(政治神学から政治学にかわっていった所以)
・社会契約論の問題点:「自然状態」→自然状態(a state of nature / natural condition)
→自然と言いながら、この物語に登場してくるのは、専ら人間だけであって、自然は一切出てこない。政治学の起源の一つの社会契約論に問題が孕まれている。
→人間以外の主体をフラットに捉えて、社会契約論を構想するには何が必要なのか?
(Cf. Assembly of things, ミシェル・セール『自然契約』)
4.2 自由と民主主義
・産業革命から進歩史観、階級闘争、奴隷制に対する闘争、ロシアと中国での革命、ナチズムとファシズムへの抵抗、1950年代と60年代の脱植民地化運動、第三の波としての民主化運動からの自由の獲得、権利言説の拡大と深化、アフリカ系アメリカ人・先住民・インドの不可触民・その他マイノリティのための市民的権利のための闘いなど ⇒ 西洋的理解ではこれは線形史観。
・「自由」の獲得が、250年人類の歴史にとってのもっとも重要なモチーフだった。
・エネルギー資源の使用が木から石炭、石油、ガスと拡大していったが、それはとりもなおさず化石燃料の使用の拡大の歴史 (⇒なぜサッカーはイングランドが発祥だと言われているのか?)
・「自由」拡大の歴史の大部分は、ふんだんに二酸化炭素を排出する「自由」を享受できた時代だった 。今日、われわれの人権は、エネルギー集約的なもの。そしてそれが限界に近づきつつある。
・T.ミッチェル(2012)『化石燃料民主主義(Carbon Democracy)』
・地球の危機を契機に社会科学が考えてきた「自由」と「民主主義」の観念を根本的に見直す必要がある。
5.境界について考える
環境・平和の研究者たちは、境界研究(border studies)という分野と今後、本格的に連携していくことが避けられない。
なぜなら、「ウェストファリア的権威構造が領域の限界を確定し防衛するという意味での国境(border)に固執するという認識がある一方で、21世紀の政策課題は何よりも諸限界(limits / boundaries)が問題となっているから」(Falk, 2016, pp.159-160)。
この根本的な発想の違いの克服という問題を乗り越えない限り、批判は単なる批判として主流のアプローチを支えるだけになってしまう(Bertelson, 2001)
・人口、成長、温室効果ガス排出、グローバル・コモンズの共同利用、深海底での石油の掘削、水圧破砕 、金融商品と関係する生態学上のリスク等→すべて生/死の境界に関する問題。
・人間が他の動植物の共存する上で、越えてはいけない一線がどこなのかを見極め、その認識を共有するという重要な役割が当てられている。
・政治学・国際関係論は、国家と国家の境界の問題に没入してしまっている。(たとえ、気候変動のような国境線が直接登場してこない場面でも、その背景にnational borderが前提としてある以上、問題の本質は変わらない。
・Geopolitics(Great Game)とGeo-politics(Geological Politics)の併存状態。
・このかみ合わなさは、どうやって乗り越えることができるのか?
・後者への移行には何が足りないのか?⇒存在論のレベルからの再出発は避けられない。
・ウェストファリア的アプローチでは、囲まれた領域に対する主権と、その延長としてのグローバル・コモンズの共同利用とが前提とされている。だから気候変動交渉が、うまくいかない。
・環境社会学/環境人類学だけでは、こうした「主権」や「統治」の問題に立ち向かえない。
6.新しい地政学もしくは「コスモ・ポリティックス」の方へ
・カント的なコスモ・ポリタニズムの伝統では上記の問題は乗り越えられない。制度論ではダメ。「制度は、必ず人間がコントロールする」という含みが付随してくる。
・人間に信頼を置く立場:人間の知性の否定は解決にはつながらない。
→生命が誕生して現在に至るなかで自らの存在を他の種に依存する以外には決して生きることのできない人間の「知」が、それ以外の存在を問題なくコントロールするというのはいかにして可能なのか?
・コスモ・ポリティックスへの依拠が必要。言い換えれば、人間を人間として捉えるのではなく種として捉え、他の動植物とフラットな関係を構想する。もしくは、人間以外の動植物を人間と捉える(戦略的本質主義)。
→アマゾンの熱帯雨林の破壊を前にして「川はわれわれの兄弟であり、われわれは汚染やごみの投棄によって兄弟を殺しはしない」というAwajun-Wampiのリーダーの言葉。
→「コスモ・ポリティックス」(イザベラ・スタンジュール)/それは政治的な声を上げない、あげることができない、もしくはあげようともしない「もの」を承認する政治のこと 。
→例えば「水」は、洪水や津波や干ばつを引き起こし人間の生を脅かすこともあれば、逆に生命を支えることもある。その意味で、水はつねにすでに政治的であるという。石油もガスもそう。
まとめ
<課題①:社会科学の組み換え>
政治学・国際関係論が置く暗黙の前提としての人間中心の存在論。契約主体が人間だけに限定されている社会契約論。権利主体が人限だけに限定されている自由論。集団なり組織なり、集合的なるものを構想するときに人間の集まりとして考えられている社会学。
→これらの脱構築と再構築とヘゲモニーの組み換え。
<課題②:平和学として境界研究に本格的に取り組む>
伝統的地政学→すべては国益からスタート。
批判的地政学→三元的アプローチを取る(①公式の地政学、②政策担当者の地政学、③一般人の地政学)
→どこから認識を組み替えていくのか? スチュアート・ホールのDecoding/Encodingも参考になるだろう、やはり。
★政治学&国際関係論⇒地球上に引かれた「境界(border)」を中心に世界を見るのか、地球の「限界(惑星限界(planetary boundary / limit)」に専ら取り組む学問として、自らを再構成することができるのかどうか。