日本平和学会2018年度春季研究大会
報告レジュメ
パレスチナと日本のフェミニスト運動の連帯の可能性を考える
室蘭工業大学大学院工学研究科ひと文化系領域
清末愛砂
キーワード:占領下の生活、封鎖/隔離、鎮圧、ジェンダーに基づく暴力、フェミニスト運動
1. 本報告の目的
本報告の目的は、①対パレスチナ政策の文脈から見えるイスラエル問題、②イスラエルの占領下の生活とジェンダーに基づく暴力、③パレスチナ女性の占領に抗する闘いを概観した上で、③日本のフェミニスト運動に求められるパレスチナ女性との連帯の可能性について検討することにある。
2. イスラエル問題とは何か-対パレスチナ政策の文脈から
70年前の1948年5月14日、「ユダヤ人国家」を標榜するイスラエルが建国された。その建国の過程でシオニスト軍が実施した追放作戦により数多のパレスチナ人が虐殺され、また故郷から追放され難民となった。建国直後に始まった第一次中東戦争の休戦までに、難民化したパレスチナ人の数は70万とも80万ともいわれる。こうした虐殺と難民化の歴史(エスニック・クレンジング)に鑑みると、イスラエルはパレスチナ人の犠牲の上に成立した国家ということができる。パレスチナ人は故郷の喪失を「ナクバ」(大災厄)と呼び、故郷への帰還権を求め続けている。1948年12月11日、国連総会はパレスチナ難民の帰還権を認める決議を採択している(総会決議194号)。しかし、現在までイスラエルは難民創出の責任を否定するとともに、帰還をいっさい認めないとする立場をとり続けている。
1967年6月の第三次中東戦争の結果、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザを占領下に置いた(以下、これらの地区を「被占領地」という。)。エルサレムは1947年11月採択の国連総会決議181号の下で国際管理地区と分類されていた。しかし、第一次中東戦争の結果、西エルサレムはイスラエルに占領され併合された。東エルサレムについては、第三次中東戦争終了直後にイスラエル政府が併合を決定し、エルサレム基本法(1980年7月30日制定)で東西エルサレムがイスラエルの首都として規定された。
占領は国際法上の違法な行為であるため、日本を含む世界の大多数の国はエルサレムをイスラエルの首都と認めず、テルアビブに大使館を設置している。2017年12月6日、トランプ米大統領はエルサレムを首都と認め、歴代大統領が履行を拒否してきたエルサレム大使館法(1988年制定)に基づき米国大使館をエルサレムに移設するとの公式発言を行った。その後、イスラエルの建国から70年目にあたる今年の5月14日、その移設が行われた。3月末から、被占領地では難民の帰還権やガザ封鎖等の解除を求める非暴力のデモやゼネラル・ストライキが組織されてきた。それに対しイスラエル軍は武力でデモ隊を鎮圧してきたが、米国大使館の移転日はとりわけガザで苛酷な鎮圧が行われ、62名のパレスチナ人が殺害される事態となった。
1993年から1995年にかけてイスラエルとパレスチナ解放機構との間で一連のオスロ合意が締結された。日本では同合意およびそれに基づくパレスチナ自治政府および自治区の誕生を「和平合意」と評価する傾向がある。しかし、それは占領政策を強化し、パレスチナ国家の樹立の可能性を阻むものにすぎなかった。ヨルダン川西岸地区は同合意により、A地区(自治政府が行政権・治安権を有する)、B地区(同自治政府が行政権を、イスラエルが治安権を有する)、C地区(イスラエルが行政権・治安権を有する)に分断された。A・B地区は同地区の半分以下の面積を占めるものでしかなく、残りはイスラエルが完全支配するC地区である。これらの地区は単純に混在しているわけではなく、イスラエル軍の検問所や道路ブロックの設置等により、一つひとつのコミュニティが他のコミュニティと分断される形で存在している。
2002年、イスラエルはヨルダン川西岸地区のパレスチナ人の土地に大きく食い込む形で「壁」の建設を開始した。1993年以降、ガザはイスラエルがその周囲につくったフェンスにより完全に囲まれている。ガザへの出入り口も、とりわけパレスチナ評議会選挙でハマースが大勝利した2006年以降、住民の移動や物資の搬入を大幅に制限する封鎖が続いている。このように、イスラエルは被占領地のパレスチナ人の日常を多面的に支配し、段階的にフェンスや壁を建設することで被占領地の封鎖・隔離を行ってきた。以上が対パレスチナの文脈におけるイスラエル問題の概要である。
3.占領下の生活とジェンダーに基づく暴力
被占領地のパレスチナ人の生活は、イスラエルの占領政策により大幅な制約を受けてきた。それは自らの意思に基づく自己決定権を一方的に否定されることを意味し、自由と尊厳に対する侵害のみならず、生きることを根底から支える希望を損なわせるような残虐なものである。ジュネーブ第4条約の締約国であるイスラエルには占領国としてその支配下に置く者を保護する義務が課せられているが、同国は被占領地を帰属が定まっていない係争地とみなし、同条約の適用を拒否している。
占領政策はパレスチナ人に対する人権侵害を前提とする苛酷な管理に基づく。各形態の人権侵害の主な例としては、①土地の接収(イスラエルの入植地の建設等に使われる)、②水の使用権の制限、③移動の制限、④(移動の制限に基づく)教育や医療等へのアクセスおよび物資の搬送の制限、⑤抵抗運動への鎮圧、⑥抵抗運動の逮捕者への拷問や行政拘束、⑦抵抗者を出した家族の家屋の破壊(集団懲罰)、⑧軍事攻撃(近年ではガザへの大規模攻撃)等をあげることができる。
占領政策は被占領地のパレスチナ人に一様に適用されるが、その結果として生じる人権侵害の中には女性であるがゆえに被るものが含まれている。また、人権侵害にはパレスチナ社会のジェンダー規範を意図的に利用してなされるもの、および同社会のジェンダー規範と結びつくことで人権侵害の度合いが増幅されるものが含まれている。占領下のジェンダーに基づく暴力の例をあげると、①軍事攻撃による出産への影響、②検問所での女性に対する性的嫌がらせ(それゆえに娘に通学を伴う学校教育を受けさせることを躊躇する家族がある)、③検問所等でヘジャーブを脱がせる行為、④抵抗運動により逮捕された女性への性暴力、⑤軍事攻撃や封鎖・隔離がもたらす不安定な生活に起因するDV、⑥稼ぎ手である夫を失った女性たちの生活難(夫が長期間投獄されたケースも含む)等がある。看過してはならない重要な論点は、パレスチナで生じているジェンダーに基づく暴力の主要因の一つが明らかにイスラエルの占領にある点である。
4.パレスチナ解放闘争と女性-日本のフェミニスト運動との連帯は可能か
パレスチナ人は、故郷の喪失と難民化および1967年以降の被占領地での支配を黙って受け入れてきたわけではない。とりわけ、第三次中東戦争以後、パレスチナ人は猛反撃を開始した。解放闘争の初期の拠点は難民化ゆえに、パレスチナの外を主な拠点として展開された。しかし、1987年の第一次インティファーダ以後、その拠点は被占領地へと移った。パレスチナ社会には女性に抵抗運動への参加を躊躇させる規範がないわけではないが、それでもなお女性たちは自らの尊厳をかけ、初期から現在にいたるまでの解放闘争に積極的にかかわってきた。特に被占領地に住むパレスチナ人が性別や年齢にかかわらず参加した第一次インティファーダでは、多面的な活動を通して大きな貢献を果たした。その過程で同社会のジェンダー規範に同時に挑戦するフェミニスト運動も生まれてきた。そこには、1970年代に世界規模で広がった女性解放運動も影響している。また、占領に抗議するイスラエルのフェミニスト運動との連携もみられる。
では、日本のフェミニスト運動(特にフェミニストによる平和運動)との連携はどうであろうか。これまで被占領地の状況に応じて単発的に抗議行動がなされることはあっても、パレスチナ女性との連帯が同運動の課題として継続的に議論されたことはない。その主な理由は、日本社会の深刻なジェンダー規範への挑戦が運動の第一義的な課題であることに加え、植民地支配や軍事主義という観点からは、大日本帝国の支配の歴史の清算(例えば、日本軍性奴隷制問題)、または日本企業の海外進出等による新植民地主義が引き起こしてきた女性への人権侵害に抗する現地の闘いへの連帯が求められてきたからであろう。また、日本とパレスチナとの間の歴史的なつながりの希薄さと地理的な遠さも関係している。
これまではそうであったとしても、パレスチナ難民の創出から70年、被占領地での支配の開始から51年という長期にわたる不正義の要因と現況をこれ以上、見逃すことができない時期に来ている。近年では日本とイスラエルと間で安全保障及び経済面での連携や協力が進められており、それらは確実に被占領地のパレスチナ人の生活に打撃を与えるものとなりうる。フェミニスト運動が本来的に目指している被抑圧者への解放と連帯の観点から日本のフェミニスト運動はいま、パレスチナにおける歴史的不正義と現況に批判的関心を持ち、またイスラエルとの連携・協力関係を考えた上でも行動すべきときがきている。
参考文献
清末愛砂(2013)「追放と占領を経験するパレスチナ女性の<生>を規定するもの-国際的な法の枠組や取り組みと現実との乖離」『女性・戦争・人権』12号.
清末愛砂(2009)「ジェンダーと平和学-紛争下に生きる女性たちの声を求めて」牟田和恵編『ジェンダー・スタディーズ-女性学・男性学を学ぶ』大阪大学出版会.