日本平和学会2017年度秋季研究集会
報告レジュメ
中国人の原爆被爆と日本の市民支援活動
―ヒロシマは日中の和解のために何ができるか―
広島大学
楊 小平
キーワード:中国人の原爆被爆、市民支援活動、中国人強制連行、和解、戦争記憶
1.はじめに
本報告では、広島の安野発電所に強制連行され、被爆者となった中国人の原爆被爆の実態を明らかにする上、日本市民による中国人被爆者への支援活動を考察することで、ヒロシマは日中の和解のために何ができるかを検討する。
2.本研究の問題意識
1945年8月の広島と長崎への原子爆弾の投下によって多くの被爆者が生まれた中、日本人のほか、朝鮮半島の人々、中国人、アメリカ人等の外国人被爆者も多くいた。最近、特に注目を浴びたのはアメリカ人捕虜の被爆であり、2016年5月にオバマ前大統領が広島を訪問、広島平和記念資料館の見学、原爆死没者慰霊碑前の演説を行い、被爆者ともふれ合った。それに対して、日本外務省は「戦後70余年の間築き上げられてきた日米同盟,『希望の同盟』の強さを象徴するものになった」と評価した。このような光りと対照的に、中国人の原爆被害は日本社会においていまだに共有されず、陰に置かれたままである。
強制連行による中国人被爆者は、「二重の苦しみ」構造に置かれている。被爆者の呂学文、孟昭君による西松建設に対する「要求書」には、「私たち二人は収容所での〈事件〉がもとで逮捕され、広島刑務所で被爆したが、この事件は人間性を踏みにじる虐待に対する抵抗であり、民族の尊厳と誇りを守るためのものであった。その意味で、私たちは西松組によって強制連行・強制労働及び被爆という二重の苦しみをうけたものである」と記述されている。元広島市長平岡敬(1972)は、広島の平和運動の問題点として被爆者意識だけが強調されていると指摘し、韓国人被爆者孫振斗問題をめぐる日本政府と日本国民の中に潜む「二重の偏見」構造を指摘しながら、韓国人被爆者の「人間回復」への努力を「壁との戦い」と表現し、日本政府と市民の責任として韓国人被爆者支援の必要性を訴えた。そこで、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」(広島)や「長崎の中国人強制連行裁判支援会」による中国人被爆者の実態調査及び支援活動は、平岡が言う「市民の責任」を果たす行動だと言っていいだろうか。
従来の在外被爆者への支援運動研究は戦争と国家権力による戦後処理から放置された基本的人権の回復とすれば、本稿は国家を相対化する人と人とのつながりを顕彰化することで、支援活動の過程に見られた日本社会における歴史責任の遂行と平和へのアプローチに関わる諸要素を明らかにし、ヒロシマは日中の和解のために果たすべき役割を検証したい。
3.広島の安野発電所へ強制連行による中国人被爆者
日中戦争から太平洋戦争へと戦争が拡大の一途をたどるにつれ、軍需工場、鉱山、炭鉱での労働力、更に軍事基地・鉄道・道路・港湾等の建設のための労働力不足は深刻化した。そこで、日本政府は、従来の「自由募集」「斡旋」という方法に加え、国家総動員体制の下で、1942年に中国人労働力を強制的に利用する政策を打ち出した。広島県北部の安野発電所には360名の中国人が強制連行・強制労働されていた。そのうち16人が被爆、爆心地近くにある警察署では5名が即死し収骨できなかった。広島刑務所に送られた11名は別の事件で収監中の3名とともに所内で被爆し、14名全員は戦後中国へ帰国したが、被爆者援護を受けることなく被爆症で苦しんでいた。ほかに、台湾出身者、中国内陸からの中国人留学生などの被爆者については、拙文「中国人留学生の原爆被爆とヒロシマ―広島大学前身校の中国人留学生被爆者の人生を通して」(楊2017b)が参照できる。
4.中国人被爆者に対する日本の市民支援活動
中国人被爆者の「発見」は、中国人強制連行の実態調査の過程であった。中国人被爆者にとっての被爆者援護は、最初から強制連行をめぐる戦後責任と戦後補償の性質が伴ってきた。故に、市民による支援活動は、「二重の苦しみ」の解消を目指すながら、それを通した平和交流の性格を有している。
(1)戦後における遺骨送還
1953年、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会が組織され、1964年まで9次にわたって約2800人の中国人受難者の遺骨送還を始めた。安野の遺骨として、23人の遺骨と3人の霊砂を1958年4月に第8次遺骨送還で中国に送還し、現在、天津市烈士陵園内の在日殉難烈士・労工紀念館に安置されている。原爆死5人の遺骨が収骨できなかったため、平和公園の原爆供養塔より分骨し、中国に送還された。この遺骨送還運動は、戦後における日中民間交流の始まりと評価される。
(2)実態調査及び支援団体の結成
1992年6月、「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」が広島市民によって結成され、後に西松建設との交渉・訴訟・和解事業に応じて、「中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会」「西松安野友好基金」「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」等に団体名が変更してきた。
戦後、日本政府(外務省)は戦勝国である中国政府に対して説明する必要に迫られ、中国人を使役した35企業に命じて135事業場から『事業場報告書』を提出させ、これを基に中国人強制連行に関する報告書(『外務省報告書』)を作成した。すすめる会の結成に先立て、1992年に「中国人強制連行調査訪中団」を以て、『外務省報告書』の資料に基づいて西松安野発電所への強制連行の受難者調査を行った、その中、被爆者徐立伝、被爆者楊希恩の遺族などを確認できた。その後、河北大学に委託して、安野の被害者の追跡調査を続けてきた。
(3)中国人被爆者の認定及び証言活動
1993年「すすめる会」の招待で、新潟に強制連行され広島刑務所で服役中に被爆した中国山東省の張文彬が訪日し、被爆者健康手帳が交付されたことがはじめ、いままで、被爆者健康手帳が交付された中国人強制連行労働者は4名で、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館には、4名の被爆者の名前が登録されている。「すすめる会」は中国人被爆者の実態調査のほか、中国人被爆者を日本に招き、被爆者健康手帳の交付申請を行い、小中学校での中国人被爆者の証言講話も開催した。
(3)交渉、訴訟、そして「和解事業」
1993年、安野の生存者として呂学文と孟昭恩が訪日、西松建設中国支店(広島市)に対して、「公式謝罪」「歴史の事実を後世に伝える記念館・記念碑の建設」「肉体的苦痛に対する補償」等「三項目要求」を提出し、交渉が始まった。1997年に交渉が決裂、1998年に広島地裁に提訴、2002年敗訴、2003年に広島高裁で二審、2004年勝訴も、西松建設の最高裁への上告を経て、2007年敗訴となったが、西松建設の一連の不祥事を背景に2009年10月受難者・遺族と西松建設の間に和解が成立した。この過程において、上記の支援団体の名称の変化からも、日本の市民支援が中心的役割を果たしてきたことが明らかである。本稿では、特に和解に基づき、実態調査、記念碑の建設、受難者・遺族の来日及び追悼式の参加等の「和解事業」の実施内容を分析し、その過程における受難者・家族・遺族と支援市民との協働関係から日中の和解に及ぼす諸要素を検証する。
5.ヒロシマは日中の和解に何かできるか
さて、以上のようのように、本稿は、強制連行による中国人が被爆者となった道のりを説明しながら、中国人の原爆被爆の実態を明らかにした。その上、被爆者を含めた強制連行された中国人への支援に関わる日本の市民団体の活動を分析した。そこで、筆者は、以下の4点から、ヒロシマは日中の和解に何かできるかを考えてみた。
(1)強制連行による中国人被爆者の「二重の苦しみ」
日本に強制連行された人々は、少なくとも日本の国家政策の強権的実行の結果、自らの意思に反して郷土と祖国を離れて渡日し、広島および長崎にいた。その結果、中国人被爆者にとってのヒロシマ・ナガサキは、日本人被爆者と同じ被爆被害に加え、強制連行の被害という二重の悲惨な体験を意味する。被爆という共有される体験は、中国と日本、とりわけ、中国人受難者と広島を結ぶ力となった。そこで、被爆者援護法に関する権利主張は、自然的に強制連行に関する補償と融合し、強制連行の歴史事実の確定を補助することになった。一方、被爆者認定は、被爆者としての苦しみの解消に役立ち、和解の可能性を帯びるものとなった。
(2)市民活動という和解へのアプローチ
広島で命を落とした中国人被爆者にとって、広島は怒り、悲しみを向かう場所でありながら、遺骨が埋められた場所でもある。広島平和記念公園にある原爆供養塔にはおよそ7万人の遺構の中には、中国人の遺骨も混ぜられている。被爆者でありながら、中国人である故、ヒロシマから疎外された過去だが、土に化した遺骨が広島の一部となり、その経験もヒロシマの一部であることが否定されても消えない事実となる。内にある遺骨と外にある思いは、共になってヒロシマの真意に向き合う。市民支援活動はこれらの内と外の枠を越えて、中国人被爆者の思いを包摂する形で、日中の和解に参考となるのではないか。
参考文献
- 平岡敬(1972)『偏見と差別』未来社.
- 楊小平(2014)「方法としての「記念碑」―戦争遺構、慰霊碑、記念碑とツーリズム」『日韓合同国際
- 研究会論集』.
- 楊小平(2016)「原爆遺構・被爆品とともに『平和』を考える」『月刊 みんばく』8号.
- 楊小平(2017a)「広島とヒロシマの国際化―グローバルとローカルのはざまに」『ぷらくらし』.
- 楊小平(2017b)「中国人留学生の原爆被爆とヒロシマ―広島大学前身校の中国人留学生被爆者の人生を通して」『アジア社会文化研究』第18号.