テーマ:「ヒロシマというとき」
詩人・運動家としての栗原貞子―反戦・反核・平和を訴え続けて―
広島女学院大学大学院博士後期課程
松本滋恵
キーワード:栗原貞子、反戦、反核、平和、ヒロシマというとき、アナキスト、詩人、平和運動家
1.はじめに
昨今、北朝鮮の核・ミサイル開発の対応についてニューヨークの国連総会において各国が一般討論演説をした。一歩間違えば有事へと進みかねない状況である。このような時こそ栗原貞子の詩「ヒロシマというとき」の詩句<捨てた筈の武器を ほんとうに/捨てねばならない>の言葉に立脚しなければならないと考える。貞子は武器を持つことがいかに恐ろしいことか詩作、運動によって訴え続けた。詩人として平和運動家として歩んだ栗原貞子に光を当て歴史的背景、時代背景、社会的背景にどのように対応したか焦点を絞り考察してゆく。
2.「ヒロシマというとき」を読みとく
戦前、広島は軍都であり経済的に潤っていたが、戦後、軍が廃止され経済基盤を求めるために、平和都市へと性格を変え、また、国会においても広島平和記念都市建設法が承認された。詩「ヒロシマというとき」において、ヒロシマとカタカナで書けば、平和都市と誰しも脳裡に浮かべ、やさしく応えると推測するが、果たしてそうであろうかと問いかけている。ヒロシマは偽装されたにすぎず、一皮むけば、パール・ハーバー、南京虐殺、マニラの火刑がある。これらは、旧日本軍が行った不条理な事実である。
ヒロシマ=平和都市の裏には数々のアジアの国の怒りがあり、広島の話題を持ち出すとそれらの怒りがいっせいに噴き出す。新憲法の下、戦力の不保持を謳いながら朝鮮戦争ではマッカサ―の命により警察予備隊が創設され、アメリカの軍国主義に従属する形となった。今日、自衛隊は武器を所持し、即、戦場へ行くことができる装備をしているが、二度と戦争を起こさないためには武器を完全に捨てねばならない。憲法九条を遵守しなければならない。日本にある米軍の基地を撤去せねばならない。日本人総ての人が真の意味で戦争責任を精算しなければならないと訴えている。
以上のことから本作は、戦中、日本が侵略加害をしたことへの反省として、日本が、世界に何ができるか、それは戦争放棄の憲法を実行し、核廃絶や軍備の完全撤廃を行うことであり、そうしなければ、世界の人々と友好関係を結ぶことはできないと詠んだ詩である。以後、この詩に詠み込まれたメッセージを見据えつつ、運動家としての貞子の有り様を追っていくこととする。
3.アナキストとしての栗原貞子
栗原貞子は18歳(1931年)の時アナキストである栗原唯一と出奔したうえで結婚した。貞子自身、アナキストであると明言はしていないが、戦時下において「クロポトキンの『パンの略取』や『田園・工場・仕事場』『青年に訴う』など夫が秘匿していた数少ない禁断の書を読んで、自由発意と自由合意にもとづく無権力社会の平和な世界を夢見ていた。二十代半ばの頃であった」(注1)という記述を残している。
このことに加え、アナキシズムの雑誌『リベテール』1973年10月号から1980年1月号まで計13冊と、それと同時期発行の『イオム アナキズム/文学と思想』が1973年3月号から1976年11月号までの計9冊、広島女学院大学に開設されている「栗原貞子記念平和文庫」に貞子の蔵書として所蔵されていることからもアナキストであると考えられる。
貞子は世情に流されず、多角的な観点でもって客観的に世情を見ていた。戦後言論、信条の自由が得られ、自分の信念の思うまま、行動することができた。その一方で、運動に参加するも運動が組織化され、上からの命令が下されると自由発意、合意は打ち消され、自分の理念と乖離することから、一つの運動を継続することはなかった。
統一と団結という言葉はしばしば組織防衛の言葉として用いられているようである。異なった考え方の運動を統一するためには、運動の論理がタナ上げされ、個々人の意識や下からの創造性はきりすてられ、個人原理が生かされない。(中略)統一でなく総合交流を、非難でなく相合に主張の明確化を、そのなかで発展的な契機をつかみたい(注2)。
貞子は、個人原理が生かされない画一的な統一でなく総合、非難でなく相合の主張の明確化を求めてやまなかった。貞子の心意は組織、運動に受け入れられず、身を引くことになる。以上のことから貞子の運動には大きく分けて三つの時期に分けられると考えられる。
4.第一期 平和運動の昂揚から挫折へ
夫の唯一は、1951年4月、地元の町会議員に初当選する。その後1955年4月広島県議会に社会党から当選し、その後3選される。この間、地域の問題解決に夫と共に奔走する。
原水爆禁止世界大会において、1958年の第4回大会から参加するが、第7回大会後、ソ連の核実験のことで会の内部は混乱、対立、不信が生じ「統一と団結のため」と称し、問題を棚上げにしたことで、運動より組織を優先する体制に失望し、離脱する。
その後、周囲から孤立し、数年間孤独の淵に立ち、絶望の中に沈むが、母や正田篠枝の身近な人の死に直面し、現世での複雑な人間関係から、単純で純粋な死者との思い出、語らいにより、自分自身を内省し、自分のおごりに気付かされ、孤独の中から抜け出すことができる。この経験が貞子をさらに大きく成長させ、自分の信念を確立させるに至る時期である。
5.第二期 ベトナム反戦運動への参加を基点として
1965年ベトナム戦争が開始され、貞子はベトナム反戦運動に参加することによって、「原爆被爆者も加害者」である事を認識し、明言する。当時その事は画期的なことであり、注目を浴びる。1968年9月から数ヵ月ベトナム脱走兵清水徹雄さんを巡って奔走する。1969年5月頃よりベトナム反戦運動そのものがゲバ学生のような運動となり、身を引いている。丁度同じ頃、広島で被爆した韓国の女性3人が、原爆の治療を受けたいばかりに密航し、逮捕されたニュースが新聞を賑わす。この事件により韓国の被爆者の存在を知る。これが契機となり事実を掘り起こすなかで、貞子の視野が差別問題まで拡大し、その実態を提示して行くこととなる。
1970年山口県の岩国米軍基地に核兵器が貯蔵され、核部隊が存在していることが判明する。このことによって本土が沖縄化へと方向付けされると危惧し、岩国基地司令への抗議、基地撤去デモ、基地前での座り込み、街頭宣伝などがなされる。「人間は核と共存できない」と憂いて貞子も参加する。沖縄全面返還により沖縄への関心が高まる。かねてからの友人長崎の詩人山田かん氏が秋に来訪したことにより広島だけでなく、長崎にも目を向けることになった。貞子はこの時期の作品について、「反戦・反ベトナム戦争(中略)60年代の後半から70年代の始めにかけて高揚の中での作品である」(注3)と記している。当時貞子は57歳であることから肉体的、精神的、詩人としても隆盛期であったと言える時期である。
6.第三期 書くことから語ることへ
1971年7月、詩「ヒロシマというとき」を発表してから「書くことから語ることへ」と行動を拡げる。始めは日本YWCAの第一回「ひろしまを考える旅」からである。それ以後、組織、集団には入らず、問題意識を拡大し、多種多様な取り組みに関わっていくことになる。1973年7月20日、フランスの核実験以来1985年7月2日のソビエトの核実験まで、12年間で305回の座り込み抗議をしている。その後、参加したとの記述がなく未詳である。1980年5月ハワイ、ホノルルにおいての「非核太平洋国際会議」、ドイツ、ケルンにおいての「INTERLIT82国際文学者会議」、「大阪城公園反核40万人集会」、世界教員組合主催の「軍縮教育国際シンポジウム」、「アジア文学者ヒロシマ会議」、「核も基地もない太平洋国際会議ヨコスカ」、東京での「女性による反核・軍縮・非核地帯設置のための国際フォーラム」など日本国内に留まらず、ハワイ、ドイツと数々の会議に、発起人、提案者として参加している。さらに、日本国内の問題だけに視点を置くのではなく、アウシュビッツの虐殺へと問題提起してゆくことにもなる。そのような中ついに1991年10月30日、広島県呉港においてのPKO反対デモに参加した時、帰宅するよりも早く脅迫電話、脅迫状が届き、連日の嫌がらせによって不眠症になる。その後1994年10月6日、交通事故に遭い4カ月間入院し、独りで歩けず、外での活動ができなくなる。身体が動く限り多種多様の問題提起と活動へと邁進した時期であった。
7.貞子の生涯を通して
貞子の詩業と運動については既に以下のように指摘されてきた。
・栗原の詩業と運動の全体を語るのは、反核60年を語るに等しく、容易ではない。(注4)。
・栗原さんの文学と運動には、いくつもの先駆的意義を担う業績がある。その大事なひとつが、原爆の最初の被害国民という「被害意識」を、日本人(国)の「加害」性を自覚することに転じ深化させて、反核に新たな展望を与え加えたことである(注5)。
貞子は生涯一貫して詩業と運動において反戦、反核、平和のあり方を模索し、人間としてどうあるべきかを訴え続けた。それゆえ原爆被爆者も加害者であると認識し、ヒロシマの惨劇を体験した被爆者としての公理を成立させるため反核へと方向付けて行くことになる。これは、思想の根幹、精神の支柱、深淵にアナキストとしての揺るぎない信念が関わっていると考えられる。貞子は「文学は政治に従属するものではなく、政治に先行するものであり、政治的征服者たちに対していつの時代でも自由な文学は反対の立場に立っている」(注6)また、「政治への無知と無関心こそ、平和への敵と言えるでしょう」(注7)と述べている。
かつて戦時下において文学者は政治に無関心であったがゆえ時代の流れに抗することなく、時代状況に即応し、「大東亜戦争」を聖戦と讃美し、戦意を高揚させた。文学は政治に先行するものであり、「政治への無知と無関心こそ、平和への敵と言えるでしょう」と辛辣とも言える文を明記している。貞子は戦時下において政治に従属することなく抗した文学者であったからこそ言える言葉である。「文学は政治に従属するものではなく、政治に先行するものであ」るとは、貞子の真髄ともいうべきであり、それとともに時代の先駆者としての自負がある。
詩人としては人間の内面の深層に照明をあて、率直に戦争の酷さ、被爆の実相、世情を批判、風刺して膨大な作品を残した。運動家としては朝鮮戦争における自衛隊の増強、ベトナム戦争、日米安保条約の強化と海外派遣へと事態の進展に鋭く対応し、先制的に批判を展開した。そのような切実な思いが次の言葉から窺える。
・どうか原爆反対に立ち上ってください。私は戦後ずっとそんな思いで、詩を書き、原水禁止運動などに参加してまいりました(注8)。
・私は平和の論理はつらぬかれねばならないと信じているが、セクトにはあまり拘泥しない。だから参加出来る場があれば参加し、そこから学び平和のひびきを少しでも大きくして行きたいと思っている。極端にいえば、マイナスの中からでさえ学んでいくために参加の精神は持続して行きたいと思っている(注9)。
マイナスからでも学ぼうとする姿勢は学ぶことに関していかに貪欲であったかということが窺える。この貪欲さが貞子の基底にあり、事実を書きとめ、自分だけに留めず、さらに、広め、呼びかけ、共感を求めようとしたことが詩作へと繋がり、また、通底する世界観でもって先駆的な平和運動へと展開していったのである。
注
1 栗原貞子 『黒い卵(完全版)』 人文書院 1983年7月 133頁。
2 栗原貞子 『ヒロシマ原風景を抱いて』 未来社 1975年7月 141頁。
3 栗原貞子 『ヒロシマというとき』 三一書房 1976年3月 149頁。
4 高橋夏雄 「反核60年栗原貞子追悼」『文芸 日女道 11月号』 姫路文学人会議 2005年11月 3頁。
5 注4に同じ 3頁。
6 栗原貞子 『どきゅめんと・ヒロシマ24年』 社会新報 1970年4月 211頁。
7 注2に同じ 37頁。
8 栗原貞子 「…広島で考える…」『月刊Human Rights』 №50部落解放研究所 1992年 62頁。
9 注2に同じ 77頁。