福島第一原子力発電所事故と国際人権
-被災者の健康に対する権利と国連グローバー勧告-
大阪大学大学院国際公共政策研究科
徳永恵美香
キーワード:福島第一原子力発電所事故、健康に対する権利、避難に対する権利、国連グローバー勧告
1.はじめに
福島第一原子力発電所事故(以下、福島第一原発事故)から6年以上経過したが、事故発生時から現在に至るまで、被災者を取り巻く状況はきわめて厳しい。事故の収束が見通せないまま、今も放出され続けている放射性物質は、事故後避難を余儀なくされた人々や周辺地域に住む住民の健康へのリスクに影響を及ぼし続けている。一方、政府や自治体は、人々の健康への被害を最小限にする取り組みを行っているとは言い難いのが現状である。例えば、福島県は、政府の方針を受けて、福島県内での家賃の一部補助や公的住宅の提供支援を行うことを条件としつつ、福島第一原発事故に伴う避難指示区域外からの避難者に対して、 災害救助法に基づく応急仮設住宅及び民間借上住宅の無償提供を、2017年3月に終了した。このような対応は、避難者に対して、住む家を失うか、元の居住地に戻るかの選択を迫るものである。自らの意志に反するような形で帰還を強いることは、避難者をはじめとする被災者の健康に対する権利や居住に対する権利、避難に対する権利を侵害するとともに、国内避難民の保護に関する国際人権基準に反している措置であると言わざるを得ない。
福島第一原発事故に伴う健康被害に関わるこのような状況を打破し、人権条約上の被災国の義務の観点から政府の対応に抜本的な見直しを求めたのが「『達成可能な最高水準の心身の健康を享受する権利(以下、健康に対する権利)』に関する国連人権理事会特別報告者アナンド・グローバー氏・日本への調査(2012年11月15日から11月26日)に関する報告書(以下、国連グローバー勧告)」である。本報告では、この国連グローバー勧告を取り上げ、被災者の健康に対する権利と同権利に関連する人権条約上の被災国の義務の観点から検討を行い、その意義と勧告が提示する課題を明らかにしていきたい。
2.被災者の保護と国際人権基準
被災国の管轄下にある被災者は、当該被災国に対して人道支援の提供を求める権利を有する。この被災者の人道支援に対する権利には、生命、住居、食料、水、健康、情報、及び避難に対する権利など、災害時に被災者を保護する上で考慮されうるすべての権利を含む。また、災害発生後から初期復興、復興の過程にかけても、被災者の人道支援に対する権利と同様、健康に対する権利や住居に対する権利など、被災者を保護する上で考慮されるすべての権利が関連する。被災者のこれらの権利の保障に関わる人権条約としては、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(以下、社会権規約)」、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」、「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」、「子どもの権利に関する条約」、「障害のある人の権利に関する条約」をはじめとする主要な国際人権条約が関連する。
一方、被災国は、上記で述べた人権条約に規定された被災者の権利を保障するために、人権条約上の被災国の義務と国際協力の義務等に基づき、支援国や国連などの支援機関からの人道支援の受け入れることで、自国の災害対応能力を補完し、管轄下にある被災者を一刻も早く保護しなければならない。その際、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしに、被災者の権利を尊重し確保する義務がある。すなわち、被災国は、無差別・平等に関する国家の義務に基づき、立法措置やその他のすべての適当な措置を用い、かつ経済上及び技術上の援助及び国際協力を通じて、管轄下にある被災者を救援する実効的な積極的措置をとる義務がある(社会権規約2条1項及び2項)。なお、災害発生時はもとより、災害発生後の初期復興から復興の過程においても、被災者の権利を保障するために、それぞれの状況に応じて、実効的かつ積極的な措置をとることが被災国には求められている。
3.原子力災害の被災者の保護をめぐる動き
原子力災害の被災者の保護をめぐっては、広島・長崎への原爆投下が1つの契機となっており、日本国内では71年経った今も原爆症認定にかかる訴訟が続いている。しかし、その取り返しのつかない被害の大きさと放射線の脅威が広く認識されたにもかかわらず、国際人権基準に基づいて被災者を保護するという国際的に大きな機運は当時生まれなかった。
一方、1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原発事故は、原子力災害被災者を権利の主体として捉え直し、国連の社会権規約委員会や自由権規約委員会などの各人権条約の条約機関で議論され始める契機となった。ただし、その範囲と内容は限定的であり、各人権条約機関の政府報告審査や解釈の指針を示す一般的意見において、健康や環境に関わる部分で言及する程度であった。チェルノブイリ原発事故によって国際社会で加速したのは、むしろ、関係諸国などへの事故発生の通報、緊急対応にかかる支援、原子力の安全性、国家間の損害賠償などの分野での条約策定の動きであった。これらはいずれも国家間の協力義務に基づいたものであり重要であるが、原子力技術の「平和利用」という視点が強く、被災者の権利保障に基づいたものではなかった。
原子力災害被災者の保護が国連などの国際機関で国際人権基準の視点から本格的に議論されるようになったのは福島第一原発事故後である。その代表的なものが国連グローバー勧告である。
4.被災者の健康に対する権利と国連グローバー勧告
(1)国連グローバー勧告の概要
国連グローバー勧告とは、福島第一原発事故後に伴う住民の健康に対する権利に関して、健康に対する権利に関する国連人権理事会特別報告者アナンド・グローバー氏が、2012年11月15日から11月26日にわたって実態調査を行い、その調査結果に基づいて、健康に対する権利を中心とした国際人権基準の視点から作成した国際文書である。同文書は、日本での実態調査と日本の反論を踏まえ、グローバー氏によって第23会期国連人権理事会(2013年5月27日〜6月14日)に提出され、国連人権理事会の文書として採択された。
グローバー氏は、報告書の中で、健康に対する権利に関する国際人権基準に基づいて、公衆の被ばく線量限度を年間1ミリシーベルト以下とするという明確な基準を示すとともに、日本政府に対して抜本的な対応の転換と、被災者の権利を実効的に確保するための積極的措置を求めている。同報告書は、IからIVの本文と勧告で構成される。その内容は、政府、地方自治体、及び東京電力による初期避難時の緊急対応の問題、不十分な健康管理調査、子どもたちの甲状腺がんリスク、低線量被ばくの過小評価への懸念、原発労働者の健康リスク、情報提供にかかる不作為など多岐にわたる。
(2)国連グローバー勧告の内容
国連グローバー勧告は、被災者の健康に対する権利と被災国の義務の観点から、福島第一原発事故の被災者の健康へのリスクと被害について、詳細に分析した初めての国連文書である。特に、公衆の被ばく線量限度に関する政策及び情報に関する勧告の78項(a)で指摘しているように、被災者の健康に対する権利に基づいて、リスク対経済効果の立場ではなく、最新の科学的な証拠に基づいた政府の対応の抜本的転換を求めるとともに、公衆被ばく線量限度を年間1ミリシーベルト以下とすべきという明確な基準を示した点は、国連グローバー勧告の意義であると言える。
健康に対する権利については、女性差別撤廃条約11条1項(f)、同12条、及び同14条2(b)や、人種差別撤廃条約5条(e)(iv)、子どもの権利条約24条、障害者権利条約25条に規定があり、これらの人権条約の締約国である日本は被災者の健康に対する権利を保障するために実効的な積極的措置をとる義務がある。国連グローバー勧告では、福島第一原発事故の住民や避難者の健康被害の文脈で、健康に対する権利に関する被害国の多面的義務の内容を明示し、日本政府に対して抜本的な政策の転換を求めた。
国家の多面的義務の観点からみると、国連グローバー勧告は、健康に対する権利に関して、尊重義務、保護義務、及び充足義務それぞれの観点から分析を加えている。その際、主な論点は次の7点である。すなわち、a. 原子力災害対応システムの形成と履行、b. 被災者の健康モニタリング、c. 公衆の被ばく線量限度に関する政策及び情報、d. 除染、e 規制枠組み内における透明性と説明責任、f. 賠償と救済、及びg. 原子力政策と原子力規制枠組みに関する意思決定過程への社会的弱者と被災地域の参加である。また、子どもや高齢者、障害のある人、妊婦などの社会的に弱い立場に置かれている人たちに特に配慮すべき点も合わせて指摘している。
尊重義務とは、健康に対する権利を被災国である日本が自ら侵害しないことを求めるものであるが、グローバー氏が報告書の中で日本政府に対して抜本的な政策の転換を求めていることから明らかなように、作為・不作為のどちらの観点からも日本は尊重義務に違反していると言わざるを得ない。また、保護義務については、グローバー氏は、健康に対する権利の侵害を受けた場合に、被害者が適切な救済を受けることができるようにすべきであると指摘した上で、被災者への補償及び賠償手続きが十分に機能していない点や、「東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に関する法律(以下、原発事故・子ども支援者支援法)」(2012年6月成立)に基づいた具体的な実施措置が採択されていない点に懸念を示している。そして、原発事故・子ども支援者支援法に基づいた実施枠組みの策定や、被災者による東京電力に対する損害賠償の請求が遅延なく解決されるように確保することなど、補償や賠償の確保によって、被災者個人の権利回復のための実効的な積極的措置の実施を日本政府に求めている。
一方、充足義務は、法的・制度的整備、立法・行政措置、及びサービス提供などの給付措置を含む対応を求めるものである。グローバー氏は、報告書で、今回の福島第一原発事故によって、土、水、食料、及び環境が放射能によって汚染された点を指摘し、被災者の健康に対する権利の享受のためには、a. 安全で栄養価の高い食料や安全な飲料水のアクセスの確保、b. 健康な環境や住居の提供、c. 関連する情報の提供、d. 質の高い医療施設や物資、医療サービスの利用可能性とアクセスの確保などを挙げ、それらの誠実な実施を日本政府に求めている。
ただし、国連グローバー勧告では、特に日本政府を名宛人として、福島第一原発事故の被災者の健康対する権利の保障するために実効的な積極的措置をとるように求めている点に注意が必要である。この点は国連グローバー勧告の特徴の1つであると言える。すなわち、人権条約は、締約国に対して立法、行政、司法などの措置をとるように求め、主に政府のみに対応を求めていない。しかし、国連グローバー勧告では、福島第一原発事故の被災者の健康に対する権利の保障において重要な役割を果たす政府の対応を中心に分析を行い、本文の後の勧告では、日本政府を名宛人として、その政策の転換を求めている。
参考文献
Walter Kälin et al. eds. (2010), Incorporating the Guiding Principles on Internal Displacement into Domestic Law: Issues and Challenges, The American Society of International Law and The Brookings Institution.
Erica Harper (2009), International Law and Standards Applicable in Natural Disaster Situations, International Development Law Organization.zw
徳永恵美香(2016年)「福島第一原子力発電所事故と国際人権-被災者の健康に対する権利と国連グローバー勧告」『難民研究ジャーナル』第6号.
阿部浩己(2013年)「原子力災害と人権」『世界法年報』32号.
植木俊哉(2011年)「東日本大震災と福島原発事故をめぐる国際法上の問題点」『ジュリスト』1427号.
墓田桂(2011年)「『国内強制移動に関する指導原則』の意義と東日本大震災への適用可能性」」『法律時報』83巻7号.