日本平和学会 2017年度 秋季研究集会
部会2 パックス・エコノミカを超えるために―脱成長論の思想と実践
ガンディーの脱成長論:コンヴィヴィアリティを軸として(報告レジュメ)
石井一也(香川大学)
キーワード:ガンディー、イリイチ、チャルカー、コンヴィヴィアリティ
1.はじめに
人類が、近代以降おびただしい環境破壊と資源の枯渇をともなって進めてきた経済発展は、21世紀に入っていっそうグローバルな規模で拡大しつつある。本報告では、こうした時代を念頭に、モーハンダース・K. ガンディーによる近代文明批判およびチャルカー運動に象徴される脱成長論の概要を示し、その今日的意義を考える。その際、イヴァン・イリイチによるコンヴィヴィアリティという概念を軸として議論を構成する。
2.イリイチの「コンヴィヴィアリティ」
イヴァン・イリイチは、1973年に「コンヴィヴィアリティ」(conviviality; 自立共生)を「人間どうしの、あるいは人間と環境(他の生物と非生物)との諸関係のなかで、各人が自立的でありながら他者を尊重し、相互に助け合う倫理」と定義した。それは、「喜びにあふれた節制と人を解放する禁欲の倫理」を含むもので、「産業の生産性」に対置される。田辺明生は、その地理的範囲を最大化して「地球大のコンヴィヴィアリティ」の可能性を追求しているが、私は、それにくわえてやや大胆に時間軸を拡張して「現代世代と将来世代とのコンヴィヴィアリティ」を考えたい。
“con”は「共に」、”vivere”は「生きる」を意味するから、コンヴィヴィアリティは、本来共時的概念である。にもかかわらず異なる世代間のコンヴィヴィアリティを追求する必要があると考えるのは、人類の現代世代は、自分たちの間においてだけではなく、将来世代とも資源を分かち合って生きてゆくことが求められるからである。
ガンディーの非暴力不服従運動は、イギリス人を「友人」としてインドから送り出すことを目的としたもので、インド人とイギリス人との間にコンヴィヴィアリティを追求しようとするものでった。しかし同時に、国内において、建設的プログラムを通じてヒンドゥー=ムスリムの融和、不可触民差別の廃止、そして手紡ぎ・手織りなどの事業を進めた。それらは、いわば宗派間、社会階層間、そして経済的階級間にコンヴィヴィアリティを構築しようとする試みであったということができる。
3.近代文明批判
そもそもガンディーは、「インドを踏みにじっているのは、イギリス人の踵ではなく、近代文明のそれである」と考えて、機械による経済発展が、西洋諸国による非西欧社会への帝国主義支配とその後の世界戦争へと連なる経緯を否定的にみていた。「機械は近代文明の象徴で、大きな罪を代表している」として、インドの工業化には反対であった。彼にとっての「真の意味での文明」とは、必要物の拡大ではなく、その慎重なそして自発的な削減によるものであった。
ちなみに西欧の経済学は、アダム・スミス以降、利己心を賞揚し、資本蓄積と分業を通じて国富が増大することを歓迎していた。それは、デイヴィッド・リカードゥの自由貿易論を経て、ジョン・S. ミルやE. G. ウェークフィールドの時代になると資本輸出・移民・開発を三位一体とする帝国主義論へと連なってゆく。「一国が他国を支配することを許す経済学は非道徳である」とのガンディーの発言は、帝国主義の支配を受けた側からの告発であったといえるだろう。
ガンディーは、同時にマルクス主義にたいしても批判的であった。ボルシェビズムが、国家が私有財産を没収し、集団的所有のもとに置く様子をみて、「私は小銃を突きつけて人間の心から悪を除去できるということを信じない」との立場をとった。インドにおいては、ジャワーハルラール・ネルーが、「村落は知的にも文化的にも後退しており、そうした環境からは何の進歩も生まれない」と考え、社会主義の路線に沿う大規模工業化を主張していた。その立場は、インド民族を「下劣で不活動的」とみ、「イギリスの干渉」による「半野蛮的、反開明的」インド村落の解体を「アジア最大の、そして唯一の社会革命」と規定したカール・マルクスのインド観に実に通じるものがある。しかし、ガンディーは、「インドの事情は独特なもの」、「他国の歴史を参考にする必要はない」と考え、手紡ぎ・手織りなど村落工業の復活を主張した。
4.チャルカー:脱成長社会の生産技術
チャルカー(手紡ぎ車)を復活・普及させるための運動は、カーディー(手織綿布)の製作工程をすべて手作業とし、労働の機会を広く分配して貧者救済を目指すものであった。この運動は、1920年代から40年代にかけて大々的に展開し、外国製綿布を首尾よく排除することに成功したが、同時に市場を席巻していたインド民族資本による機械製綿布との対抗関係において困難な道のりをたどった。手紡ぎ・手織りは、一般に低生産性、低賃金、低品質の観点から否定的に評価されてきたが、にもかかわらず、ガンディーがこれに拘ったのはなぜか。機械の63分の1の一人当たり生産性しかない手紡ぎ・手織りは、逆に機械の63倍の雇用吸収力があることを、彼は知っていたのである。
ガンディー自身も、インドが必要とするすべての綿布をチャルカーで賄えば、5000万人の貧者を養えると計算していた。しかし、綿布工場がたかだか40万人の雇用で多額の富を独占していたのが、現実であった。この時、ガンディーは、私有財産や工場の没収などマルクス主義の路線はとらず、カーディーがたとえ高価であっても紡ぎ工や織工の生業を支えることを同胞に求めた。それは、あたかも私たちが「稼ぎのない親や子供を養うことを恵みと考える」のと同様であるとの考えにもとづいていた。ここに彼は、同胞間のコンヴィヴィアリティの構築を目指していたとみることができる。
5.ガンディー思想の系譜
村落を基盤としてインド社会を再構築しようと考えていたガンディーの思想は、ひとつにはエルンスト・F. シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』(1973年)の思想に受け継がれてゆく。シューマッハーは、同書のなかで、大規模な生産技術に対置して、「誰にでも手の届く小規模の技術」としての「中間技術」(intermediate technology)の概念を提唱した。彼は、ガンディーの「世界の貧困は、大量生産(mass-production)にではなく大衆による生産(production by mass)によってのみ救われる」とのガンディーの言葉を引いている。このとき私たちは、「中間技術」論の源流を実にガンディーのチャルカーの発想に辿ることができるのである。
シューマッハーの思想は、その後、もう一つの経済サミット(TOES)と呼ばれるグループの知的・実践的活動に受け継がれてゆく。ポール・エキンズは、彼らの論考を集めて『生命系の経済学』(1986年)を編纂したが、そのなかでハーマン・デリーは、エントロピーの概念にもとづいて「定常経済学」を提唱し、ヨハン・ガルトゥングは「経済自立の理論」において分業への依存を減じて外部経済を手元に留保すべきことを訴えた。また、スーザン・ジョージは、IMFを批判し、ワンガリ・マータイは、ケニアのグリーンベルト運動を紹介した。さらに、ヴォルフガング・ザックスは、第三世界が世界市場から絶縁することに必要性を訴えている。
そのザックスが1992年に編纂した『開発辞典』(The Development Dictionary)において、C. D. ラミスは、「世界の貧者の問題」を「世界の富者の問題」として捉え、イヴァン・イリイチは、開発の40年の間にいかに「必要」(Needs)が作り出されていったかについて論じた。ヴァンダナ・シヴァは、科学技術の進展とともに自然観が喪失してゆく経緯を語り、セルジュ・ラトゥーシュは、開発神話の普遍化とともになされた「生活水準」の数量化に警鐘を鳴らした。また、アシス・ナンディーが、近代の「国民国家」の概念を批判的に論じている。
このうち、V. シヴァは、ガンディーのチャルカーを高く評価しつつ、生物多様性の保持を目的として伝統的種子を保存する運動を展開している。また、S. ラトゥーシュは、脱開発とシンプル・リヴィングを提唱し、C. D. ラミスは、『ガンジーの危険な平和憲法案』(2009年)を著した。くわえて、サティシュ・クマールは、イギリスにおいてシューマッハー・カレッジを創設し、ガンディーおよびシューマッハーの思考に沿った実践的教育を行なっている。
さらには、サルヴォーダヤ運動の指導者であるA. K. アリヤラトネや、タイの仏教思想家スラック・シワラクなども、ガンディーやシューマッハーの影響を大いに受けている。日本においても、辻信一らによるナマケモノ倶楽部が、コットン・レボリューションと呼ばれる活動を通じて手紡ぎ・手織りを現代に蘇らせる。他方、片山佳代子は、ガンディーの言説を日本語に翻訳しつつ、手紡ぎ・手織りの講習を日本各地で行っている。
おわりに
こうしてみると、ガンディー思想は、当時のインド独立運動の文脈を時間的・空間的にはるかに超えて、今日の世界になお力強く息づいている。私たちが、「産業の生産性」をひたすら追求してきた「近代」の時代的精神を越えて、人間どうしのコンヴィヴィアリティを考えようとするとき、ガンディーの次の言葉は、きわめて重要な意味をもつ。「地球は、すべての人々の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての人々の貪欲を満たすほどのものは提供しない」。
21世紀は、「グローバル化」の名のもとにますます多くの人々が枯渇性資源をいっそう激しく奪い合うのか、将来世代のことも考えて、より簡素な生活に満足を見出すのかの選択をせまられる時代であり、この点に現代世代と将来世代のコンヴィヴィアリティがかかっている。そしてまた、地球という限られた空間において、現代世代内におけるコンヴィヴィアリティを実現するためには、グローバル社会における貧者の自立が、富者の「必要物」の削減とともに行われる必要がある。いずれにしても、人間の身の丈の経済へと大きく旋回する以外に「近代」の矛盾を打開する道はない。
アダム・スミス以降の経済学は、おおむね成長経済(右肩上がりの経済)において人々を養う方策を考えてきたが、ガンディー思想にもとづく新しい経済学は、おそらく縮小経済(右肩下がりの経済)においてこの課題に取り組もうとするであろう。しかしその課題は、成長経済をこれまで支えてきた利己心、資本蓄積、市場メカニズム、国家主導の開発など、一連の「近代」の諸価値の対極に向かいながら、同時に「近代」において未曽有の規模に増大した地球人口を養うというきわめて困難な作業を意味する。
参考文献
石井一也[2014]『身の丈の経済論―ガンディー思想とその系譜』法政大学出版局。