日本平和学会2017年度春季研究大会
報告レジュメ
理工系大学における『大学改革』といわゆる『軍事研究』
─北海道の地域貢献型大学から考える─
室蘭工業大学
松本 ますみ
キーワード:大学改革、軍事研究、学問の自由、技術と社会、地域貢献、産学官金
1.はじめに
本報告では、国立大学の法人化以来進む大学改革が、理工系大学でどのように進んでいるのかについて考える。大学改革に関しては、政府や財界からの要望が強い。それは、従来の教養と人間性の涵養というよりはむしろ、次の時代に国力を増進させる人材の促成的養成が産業界の喫緊の課題となっていることと連動している。日本の理系高等教育はかつて冷戦の時代に米国主導で補強されたという歴史を持つが(中山1995)、冷戦終結後も理工系重視の国家方針は連続してきた。少子高齢化の現在、「産学官金」が連携して日本の経済産業界を技術面で牽引できる「人材」を少ない若者の中から選抜し養成したいという方針が文科省からも出ている。
その中で、理工系大学で起こっている顕著な現象を5つ挙げる。第一に、2015年から防衛省の予算で開始された「安全保障技術研究推進制度」への応募という踏み絵である。これは、研究者をデュアルユースの名目の下に経済的に動員していこうとする競争的資金である。第二に、学長を中心とした教育研究評議会によるトップダウンの意志決定過程の確立である。第三に、極端な業績主義、任期制教員の増加、研究者間競争の激化である。第4に、2016年からの国立大学の3類型化と地域貢献型大学の地域との連携の強化の掛け声である。第5にリベラルアーツ科目の軽視、専門科目と英語の重視である。これら5つの観点は、互いに連動/矛盾しつつも、多くの場合ステークホルダー(学生、研究者、市民)と意見を交わすことなく大学改革の目玉となって進行している。現在進行形の大学改革は、果たして学問の自由、市民の自由を保障し、人々の幸福に貢献し、社会問題解決の糸口になりうるのであろうか?
2. 「安全保障技術研究推進制度」と研究者の動揺
2015年に導入された「安全保障技術研究推進制度」は今年度110億円の予算がついた。科研費総額の約4.8%の金額である。日本学術会議はこれに対して、軍事研究を行わない方針を確認した。しかし、各大学に応募の禁止を訴えるものではない。この制度の一番の問題は、デュアルユースという点である。特に、工学系は、もともと戦時下に増強され軍事研究と親和性がある。現在も学生に人気がある航空宇宙部門や情報処理は、もともとアメリカが莫大な費用を投入して確立し発展した部門である。それなりに研究には設備維持等費用がかかる学問分野でもある。一方、日本の国立大学の予算の現状は、2004年の法人化以来毎年1%の運営費交付金減となり、その一方で科研費をはじめとする競争的資金で再分配するという方針に転換が進んできた。
科研費は現在新規採択率が全体で26%ほどである。科研費採択されなければ研究続行ができない状況がある。「安全保障技術研究制度」の代表的な問題点は以下のとおりであろう。①成果発表の自由がPOによって制限される可能性がある。公開されなければ研究者としての生命は絶たれる。②秘密保護法に抵触する可能性がある。③学生の国籍によって研究室の出入りが制限される。④関わった学生の将来の進路を狭める。⑤依頼主である防衛施設庁の要求に沿った研究を行う傾向がある(池内、小寺2016)。
科研費には、このような制限は一切ない。特に、③に関しては、大学の国際化・グローバル化の傾向、と真っ向から対立するものである。また、いずれも学問の自由、大学の自治とはまったく相容れない。④は学生の職業選択の自由を制限する可能性がある。税金から捻出される競争的資金であれば学問の成果は市民に還元されるべきである。しかし、一定の防衛分野の企業に独占される可能性があり、ひいては市民の平和的生存権を脅かすものとなりうる。また、膨大な税金と時間をかけて育成された研究者の社会に対する裏切りともなりうる。
道内では、北見工業大学に続いて帯広畜産大学、室蘭工業大学の執行部が応募見送りの方針を出した。いずれも学内の研究者有志や教職員組合、市民、メディアが声を上げることで実現した。しかし、根本的な問題解決ではない。非軍事研究を自由にできる環境を整えるための予算措置を粘り強く要求していく必要がある。
3.学長を中心とするトップダウンの意志決定過程
2015年に学校教育法が変えられ、教授会の権限が剥奪され、諮問機関のようになった。教育研究評議会がすべてを決定するが、実質は、学長のリーダーシップという掛け声のもと、数人の執行部が予算、人事、カリキュラム、組織編成等重要な決定を下すようになった。学長は意向投票で決められるが、その他の執行部は任命制で、誰がそこに入るかはやはり数人の執行部が決定する。これにより、重要な決定事項はほとんど学内メールで評議会終了後に教員に報告されることになり、大学教授会の自治はほぼ失われた。
情報公開と議論という民主的なプロセスがなくなることで、学内にさまざまな疑心暗鬼や憶測がはびこる。さらには、研究室内の民主的運営の雰囲気すらも失われる可能性がある。
3.極端な業績主義、任期制教員の増加、研究者間競争の激化
大学改革とともに推し進められてきたのが、教員の評価である。論文の被引用回数が取りざたされ、特にWeb of Scienceが導入されて、論文の質と量が厳しく問われるようになった。国際競争力をつけるという名目である。文系で多い査読なし日本語論文は点数化されない。国内学会の報告も点数が低い。科研費を取得した教員の評価は極端に高い。また、大型科研の導入をもくろんで、部局ごとに業績で点数をつけて連帯責任で学科等経費(学内研究費)を傾斜配分するということも行われている。いずれも研究大学としての矜持を保とうとする努力の結果とも考えられるが、その一方で任期制教員も増え、一定期間での論文の多寡や質で任期なしに移行するかどうかが決定される。年俸制教員も、この論文の評価で年俸が決められるの。特に若手研究者は「病気にもなれない」「出産もできない」という追い詰められた情況に追い込まれている。また、「評価の絶対的基準が可視化できない」とされる教育の面での貢献は相対的に評価が低い傾向がある。これらは、学問の自由や個人の自己決定権を損ねる事柄であるといえる。
4.国立大学の3類型化、地域貢献型大学の産官学金との連携の強化
さらには、2016年には国立大学は3つに分けられ、地方国立大学のほとんどは地域貢献型大学と位置づけられることになった。いわゆるミッションの再定義の延長上である。これにより、多くの地方大学はミニ東大としての役割を強制終了させられ、地域のリーダーを育てる実務家養成機関としての役割を担うことになった。地域とのさらなる提携は喜ばしいことであることに見えるが、理工系大学では、その提携相手は多く民間企業となり、委託研究や研究費拠出に対する見返りを求めてくる。問題なのは、企業あっての地域でなく、市民あっての地域であるというものごとの本質を忘却して大学が動きがちであるということである。既成企業、特にものづくり系企業が地域活性化のキーであるという考え方は高度成長期の古いパラダイムに則っているが、それから脱却できない。さらには、研究成果はWeb of Scienceに掲載されるような英語論文上での発表が求められ、それだけが教員の業績としてカウントされる。結果、地域のほとんどの市民は大学の研究から強制的に乖離させられるということになる。また、研究者もマクロの視点から地域の問題(たとえば少子高齢化、格差の拡大、地方予算の縮小等)を俯瞰することが難しくなる。
学生の就職先も地域の企業や官庁で増やすという数値目標を掲げざるを得ない。これでは、学生の職業選択の自由、移動の自由を狭めることともなる。なによりも、人間を偏差値で輪切りにし、地方大学出身者は地方で働くように大学が運命付けるということは学生の潜在的可能性を狭め、自己決定権を著しく損ねる結果となる。
5.リベラルアーツ科目の軽視、専門科目と英語の重視
地方理工系単科大学の特徴として、全学共通教育部門が手薄いことが挙げられる。これはその沿革からして科学技術による国力の増強ということを共通目標としていたからで、人格の陶冶という教育目標は学内では軽視される傾向があったからである。戦後の何度かの理系学部定員増の国策のもとでも、技術教育に関係が薄いと考えられた共通教育(教養系、特に人文社会科学系)の教員の増員は図られなかった(室蘭工業大学創立記念事業会編 1990)。結果、共通教育は大教室でのマスプロ授業となり、学習効果も薄まるという悪循環が見られた。
文系の書籍を読まなくても単位が取れるというシステム、インターネットの普及の中でリテラシー能力の低下により、思考の自由の喪失、ひいては自由な市民の消滅の恐れもある(石原2017)。そんな中で、文科省の方針の下、ICT教育の重視とデータサイエンティスト養成、地域科目の増強がさけばれる中、リベラルアーツ科目が大量にカリキュラムから消されるという「改革」が起きている。一方でグローバル化に対処し学部レベルでも英語で行う専門授業の導入が計られている。母語が読めない/母語で議論ができない学生が獲得言語である英語を使いグローバル社会で行きぬくことは難しいであろう。しかし、このようなちぐはぐなことが現場では起きている。
まとめ
以上みたように、教育基本法の「改正」以降、着々と進んできた教育改革は、大学という学問の自治の場にまで手を出すようになった。経済効率化、データ化、人の序列化、人と組織の馴致化の先に、資金面の困難を抱える研究者を誘う安全保障技術研究推進制度が登場している。現在、日本学術会議の方針に従おうとする良心的な研究者や大学が多いことは希望である。しかし、この防波堤はいつ破られるかどうかわからない。要するに、平和学が訴えるような積極的平和を希求する市民でなく、心とからだの軍事化を即時準備できる「人材」の養成が現在そして将来において「産官金」から大学に求められている現実を直視しなければならないであろう。
一回堤防が崩れると、あとは止め処もなくなる、というのが人類の戦争への道の経験である。産学官金の提携の美名のもとで、軍事研究には厳しく目を光らすことが研究者と市民に求められている。軍事増強の影で大幅に教育と社会福祉予算が削られているのは米国である。その米国が軍産複合体の利益を図り世界各地で戦争を遂行している。国民の税金で運営されている大学の現状をチェックし、本来的によりよい市民社会建設にむけて還元される研究が行われているか、学問の自由とは何かを問い続けることが必要だろう。
参考文献
池内了、小寺隆幸(2016)『兵器と大学』岩波ブックレット
池内了(2016)『科学者と戦争』岩波新書
中山茂(1995)『科学技術の戦後史』岩波新書
「国立大学改革について」(文部科学省 平成25年12月)
「安全保障技術研究推進制度」(防衛施設庁 ホームページ 平成29年)
石原俊(2017)『群島と大学――冷戦ガラパゴスを越えて』共和国
「「大学の数理・データサイエンス教育強化方策について」の公表について」(文部科学省 平成28年12月21日)
「平成27年度 国立大学改革強化推進補助金選定事業について」(文部科学省)
室蘭工業大学創立記念事業会編(1990)『室蘭工業大学100年』室蘭工業大学創立記念事業会
作道好男・江藤武人編(1976)『室蘭工業大学史』財界評論新社