植民地主義はどのような意味で不正義なのか
──植民地主義とグローバルな不正義──
横浜国立大学非常勤講師
上原賢司
1. イントロダクション
本報告はグローバルな正義論と植民地主義との関係性について考察する。人類の歴史として、「植民地支配は何かしらの意味で道徳的な不正である」という判断は、多くの人びとによって共有されているだろう。現実においても、植民地支配からの脱却、独立のための運動は、20世紀の歴史を特徴づける重要な要素の一つであったといえる。そして植民地主義、ならびにポスト植民地主義をめぐっては、今なお残る課題を析出すべく、多くの研究が蓄積され続けている。
それに対して、「正義に適った理想的な世界とは何か」といった規範的な問いを探求してきたグローバルな正義論は、多くの人びとにとって自明とは言えない不正義のありようを明示すべく、理論構築を続けてきたとみなすことができる。グローバルな正義論を論じてきた論者からすれば、今ある世界のあるべき正義構想の検討に研究リソースを集中すべきであって、まぎれもない不正義である植民地主義をあらためて論題に据える必要性は薄かったのかもしれない。
しかしながら近年、そうした研究状況は変化してきている。特に、グローバルな正義論の研究者や、以前からの領有権の正統性をめぐる研究をしてきた論者たちによって、「植民地主義の何が不正義であるのか」という問いへの分析的な応答が試みられている。また、植民地主義とも密接に関連する歴史的不正義についても、グローバルな正義論と並ぶ現代の政治理論の中心的な論点の一つとして盛んに論じられ続けている。
本報告では、そうした近年の植民地主義をめぐる政治理論の知見をてがかりとして、次の問いを検討する。「グローバルな正義構想の案出にあたって、植民地主義という要素は何らかの意義を与えるものなのだろうか。与えるとすれば、それはどのようなものなのだろうか」。報告者の見るところ、近年のグローバルな正義論の研究者による植民地主義への主張は、植民地主義という今の現実世界に連なる事象を、グローバルな正義論の中に適切に組み込めていないように思える。植民地主義に着目することで、グローバルな正義論の理解そのものが変容しうる、という点を本報告では指摘していきたい。
2. 植民地主義・政治的関係・コスモポリタンな理想──L・イピによる規範分析
はじめに、コスモポリタンなグローバルな正義構想を主張しているL・イピによる、植民地主義の不正義をめぐる主張(Ypi 2013)と、それに対する(イピと同様にグローバルな正義論を中心に論じてきた)L・ヴァレンティーニの批判(Valentini 2015)を検討する。イピは、植民地主義に特有の不正義を、植民者が被植民者に対して不平等で支配的な政治的関係の構築を強いている、という点に見出す議論を展開している。それに対してヴァレンティーニは、そうした政治的関係は植民地主義に特有のものではないと反論し、植民地主義の不正義とはあくまで、その他の事態の(国内社会でも多く散見される、暴力や差別、搾取や抑圧といった)不正義の一形態でしかない、と論じている。
本節では、彼女らの議論がいずれも、過去から今に続く植民地主義と、今から未来に向けてのグローバルな正義との関連性を見落としてしまっている点を批判していく。イピは、コスモポリタニズムの理想を先取りし、その応用として植民地主義の不正義を導出する議論を展開している。しかしその場合、被植民地国の独立を後押しする理念である、集団的自己決定の理念の意義を十分にくみ取ることができない。ヴァレンティーニもまた、植民地主義の不正の普遍性を強調するあまり、異なるユニットとみなされる政治集団間の不正義であったという点を過小評価してしまっている。彼女らの議論を批判する形で、本節において、旧植民地国に住まう人びとへの今の正義として、植民地主義とグローバルな正義とをつなぐ必要性があることを示していきたい。
3. 集団的自己決定と植民地主義
ここでは、集団的自己決定の意義を強調することで植民地主義の不正義を理解しようとする議論を取り上げていく。特に、歴史的不正義への責任の明確化という必要性に訴えかけることで、ナショナルな集団の道徳的意義を擁護するD・ミラーの議論(Miller 2007)と、脱植民地化が正義に適っているという道徳的直観を説明するために、集団的自己決定という理念に訴えかけているA・スティルツの議論(Stilz 2015)を検討する。
本節では、植民地主義を論じるにあたっての集団的アイデンティティの必要性について改めて検討するとともに、それが植民地主義という不正義の十全な説明となりうるかどうかを明らかにする。ここでは彼女らの議論が次の難点を抱えてしまう点を示していく。集団的自己決定という理念の尊重は、それが達成(回復)された時点で不正義は解決した、という理解を招いてしまう。しかしそれは、たとえ歴史的不正義への一つの応答となっていたとしても、グローバルな不正義──各集団が自己決定を行う背景的な環境の不公正さ──をかえって不可視化してしまうことになる。これらもやはり、植民地主義とグローバルな正義論とをつなぐ理論作業が必要となることを示していると考えられる。
4. 植民地主義という不正義と今のグローバルな不正義
最後に、以上の議論の批判的検討を受けて、植民地主義とグローバルな正義論とをつなぐための一つの見解を提示し、その意義を説明していく。本節では次の主張を提示、擁護したい。「植民地支配という歴史的不正義は、今の世界を特別なグローバルな不正義として理解すべき、強力な理由を提供している」。
「特別なグローバルな不正義」とは、過去の歴史の積み重ねとしてのグローバルな正義構想としては、第一に、各国の集団的自己決定の尊重は不正義根絶の十分条件とはならない、ということを意味する。第二に、世界中の人びとの最低限の基本的ニーズの充足といった、無関係な人びとの間でも妥当することを想定するグローバルな正義原理も、植民地主義という歴史を背負った私たちの世界の正義構想としては不十分である、ということを意味する。
「強力な理由」とは、植民地主義を深刻な不正義の一つとみなすのならば、まさにその考慮ゆえに、現今のグローバルな不正義もまた深刻かつ是正されるべきものとみなされるべきである、ということを意味する。
本節では以上の主張を、制度的正義に関するT・ポッゲ(Pogge 1995)やI・ヤングの議論(Yong 2011)、そして歴史的不正義に対するJ・ウォルドロンの議論(Waldron 1992)を援用しつつ、論じていく。それによって、グローバルな正義論における植民地主義という不正義の特有さを明らかにしていきたい。
参考文献
Miller, David. (2007) National Responsibility and Global Justice, Oxford, Oxford University Press. (富沢克・伊藤泰彦・長谷川一年・施光恒・竹島博之訳、2011年、『国際正義とは何か──グローバル化とネーションとしての責任』、風行社。)
Pogge, Thomas. (1995) “Three Problems with Contractarian-Consequentialist Ways of Assessing Social Institutions”, Social Philosophy & Policy, 12, 2, 241-266.
Stilz, Anna. (2015) “Decolonization and Self-determination”, Social Philosophy & Policy, 32, 1, 1–24.
Valentini, Laura. (2015) “On the Distinctive Procedural Wrong of Colonialism”, Philosophy & Public Affairs, 43, 4, 312–331.
Waldron, Jeremy. (1992) “Superseding Historic Injustice”, Ethics, 103, 1, 4–28.
Young, Iris Marion. (2011) Responsibility for Justice, New York, Oxford University Press. (岡野八代・池田直子訳、2014年、『正義への責任』、岩波書店。)
Ypi, Lea. (2013) “What’s Wrong with Colonialism”, Philosophy & Public Affairs, 41, 2, 158–191.