植民地主義と憲法━━侵略と国際協調主義
報告者所属 国際基督教大学名誉教授/明治大学法学部元教授
報告者氏名 笹川紀勝
1.はじめに
本報告は、憲法の国際協調主義の立場から主題を論じる。その際、侵略の歴史的事実を踏まえて他国と対等な関係を構築する憲法論は、美濃部達吉から多くを学ぶことが出来る。
2.侵略
朝鮮侵略は1873年の征韓論に始まると思われているが、侵略の志向は江戸時代末期から明治維新にかけてすでにあった。
(1)「交隣の誼」とパワー・ポリティックス
⒜1866年フランス艦隊が朝鮮江華府を攻撃して失敗し、江戸湾に帰来した。朝鮮の冬至使行は「講信修好」300年「隣誼を敦くす」る慣例に従い、洋船の攻撃の危険が日本にもあると警戒を促すと対馬藩を通して幕府に知らせてきた。将軍慶喜はフランス公使に、朝鮮は「旧来之国」だから和議を取扱いと述べた。しかし、公使は北京政府と交渉中だから日本の調停を期待しないといった。ところが、幕府は外国奉行の朝鮮派遣を決めて対馬藩から朝鮮東莱府に伝達させた。朝鮮政府は接待は認めつつ、凶作・悪疫流行などを理由に使節の受け入れは拒絶した。ところが、幕府はすでにアメリカ合衆国の同意を得ているから使節派遣を中止するわけにいかないとして11月中に出発すると対馬藩に知らせた。しかし、朝鮮は辞退したにもかかわらず強制されることを不可解とした。日本では明治維新となり使節派遣の話は立ち消えた。
⒝当時、交隣の誼の精神に連なる勝海舟の「海外に信を失わず」があったと同時にそういう精神を排除していくパワー・ポリティックスの国際法論も登場してくる。
明治新政府の誕生の書契は朝鮮から伝統的なやり方ではないとして受理されなかった。ところで、1872年、書契捧納が出来なければ家役罷免となる危機感から、釜山にある倭館の対州藩館守は、倭館より出る禁を侵して東莱府使に直接会おうとする事件が起きた。東莱府使は面会を許さなかったが、「交隣」の約条を守ろうとした。1年後、外務省は倭館を接収して「大日本公館」と称したが、外観は対州藩所管を装った。ところで、東京商人三越手代3名が外務省の許可を得て倭館に来た。彼らは東莱で商売をしようとしたが、東莱府はこの商売を密貿易とみなして、掲示をもって僣商を禁止した。ところが、日本側では掲示文は「侮日」として征韓論勃興のきっかけとなる。外交の主体が江戸幕府から明治政府に変わったことにつれて、朝鮮への態度が変化している。控え目な交隣の誼の態度から侵略の態度への変化である。力の行使は、相手をみくびる優越思想に由来するに違いない。
⒞1871年琉球漁民69人が台湾南端に漂着し、現地民の襲撃略奪によって54人が殺害された。日清修好条規(1871年7月)第2条によれば互いに「友誼を敦くすへし」としながら、1874年台湾出兵が先行し、後から大久保利通全権が清国と賠償交渉に入った。大久保は同行したフランス人ボワソナードの指導を受け「無主地」の議論をもって清朝の大臣らと商議した。大臣らは国際法の知識は知らないがいろいろ問題を提起して容易に納得しない。それどころか、高圧的な大久保を追い詰めて帰国すると大久保にいわせる。彼らはどうぞという。イギリス公使ウエードは調停に出て来た。妥協が成立し大久保は50万両(日本円で77万円)を得た。だが、台湾出兵の総出費は771万円余りで、岩倉具視は失敗であったと天皇に謝罪したといわれる。
ところで、大久保は、1873年岩倉欧米視察団のプロイセン訪問の際にビスマルクの演説を聞いて感銘を受けた。ビスマルクは、世界の国家は強弱相凌ぎ、公法は己に利あれば守り、不利なら軍隊をもって翻すと述べた。まさに、大久保が学んだ国際法の特徴はパワー・ポリティックスにあった。そのために、彼は清朝との交渉でパワー・ポリティックスを実践したといわざるを得ない。
⒟こうして見ると、明治初期に、ときの支配者は、伝統的なアジアの国際法を発展させるよりもパワー・ポリティックスすなわち権力による支配を身に付けたのだろう。かくして、日本は、不平等条約改定交渉に乗り出すとき、植民地支配と侵略を肯定する帝国主義的な欧米の国家体制・憲法を学んだと考える。その線にそって明治憲法が生まれた。
(2)伝統的国際法と帝国主義国家
伝統的国際法では、帝国主義国家といえども、意思の自由のために国家代表者への強制・詐欺錯誤による条約締結を無効として認めなかった。そのために、19世紀後半以降帝国主義列強はアフリカの諸部族と条約を結んだ。
⒜明治政府は韓国皇帝と大臣に強制して1905年日韓協約/条約・勒約(韓国保護条約)を締結した。戦後の日本政府と歴史学者・国際法学者はその条約を有効と評価したが、報告者は国際共同研究によって無効を論証した。
⒝琉球国併合への抵抗運動の歴史学的研究は詳細である。それに対して、国際法的関心では琉球処分時より少し前が興味深い。すなわち、1872年琉球王府が「慶賀使節」を送るように勧められ上京後歓待され明治天皇に拝謁した。その折琉球王は「冊封の詔」によって琉球藩王に任ぜられ、慶賀使節は明治政府に騙された。このときの詐欺と錯誤の関係が後1879年松田道之の琉球処分の前提となった。
したがって、明治国家は朝鮮と琉球に対して国際法上無効原因をもたらしていた。
3.ポツダム宣言の法的性質
(1)憲法制定と国際法
明治憲法は、日本国内の主要な争点から制定されたというより欧米諸国によって強制された不平等条約の改定問題の解決の中で制定された。そのために、欧米の受け入れるレベルで問題解決が探られた。したがって、すでに述べたように植民地支配や侵略を肯定するものが明治憲法の枠組みをなしていた。しかし、第二次世界大戦の頃には、連合国は終戦だけでなく明治憲法の枠組みにかかわる植民地朝鮮の解放や軍国主義の排除、民主主義による政治体制の構築なども戦争目的としたから、日本国憲法の制定では明治憲法制定時とは異なる状況が生まれていた。
報告者は、的を絞って現行の日本国憲法の枠組みに影響を与えたポツダム宣言を、国際法のかかわりから検討したい。
(2)押し付け憲法論
憲法改正論者は、憲法がアメリカの日本の無力化政策で押し付けられたが、占領下における法改正は国際法上無効だという。しかし、ポツダム宣言第2項は、連合国軍が、数倍の増強を図って日本への「最後的打撃を加ふるの態勢を整へた」といっていて、その上、広島長崎への原子爆弾投下とソ連の参戦によって、天皇制護持のためにはもう降伏しかないと天皇は終戦の決定をしたのである。ポツダム宣言受諾へと動かしたものはまさに敗者の現実である。
日本国憲法制定を決定していた事実は、勝者対敗者であった。
(3)国際法における勝者と敗者
勝者対敗者の関係を国際法はどのように構成するか。
⒜江藤淳はポツダム宣言によって無条件降伏したのでなく有条件降伏をしたと言い文学者の江藤と本田秋五の間で批判合戦が起きた。江藤は主に田岡説に依拠する。
ポツダム宣言の法的性質を国際法学者らはどのように理解しているか検討しよう。
①田岡良一の保障占領説 ②横田喜三郎の一方的意思表示説 ③高野雄一の実質上の条約説 ④田中二郎の相手国の受諾を条件とした単独行為説
①:保障占領にならう。田岡は占領を「協定」すなわち「合意」に基くと解する。勝者も敗者も互に協定に拘束されるから、日本はGHQの行動を批判できる。②③④:たしかに、マッカーサーは日本との関係は契約的基礎に基づかないという通達を受けているから①とは異なるが、②③は勝者と敗者とには相互に何らかの合意の局面があることを認めている。④は②③の中間説に見える。というのは、降伏文書は「対等の資格に於て締結せられた条約ではなく、連合国が一方的に決めた条項をそのまま受諾した」という単独行為の性質をもつからである。この点で安井郁がポツダム宣言受諾によって日本と連合国の関係は「通常の契約とは異なる特殊の合意」に基くといい、contrat d’adhésion(附合契約)に言及する。松下正寿も中間説に入るだろう。
こうして見ると、田岡に基く江藤のポツダム宣言の法的性質の理解は単純で批判される。
⒝しかし、勝者と敗者の関係の問題を江藤批判で片づけるわけにはいかない。この点で高野の説明は興味深い。というのは、高野は、ポツダム宣言や降伏文書が、勝者たる連合国が一方的に定めた条項からなり、敗者たる日本を一方的に義務づけていると認めながら、同時に同宣言は「国際法的合意」(同頁)であるというからである。この論点を別稿で次のようにいう。ポツダム宣言等は「確かに国内法でいう『契約』といったものではない。……国内法上強迫によって結ばれる契約は取消される、国際法上は実質的には勝者が敗者にディクテイトするような平和条約でも有効性を認めるのが古来の原則である」。それゆえに、ポツダム宣言の受諾などは「国際法上の一方的行為だとするのは誤りである。」
たしかにこの「古来の原則」に関する高野の解説はないが、それは、報告者が前述した(注5論文)伝統的国際法における勝者が敗者に降伏を強制する意思の自由の法理に相当するに違いない。グロチウスは、戦争宣言に基礎づけられた「正当な恐怖」をいう。それゆえに、敗者は意思の自由を持ち出せない。したがって、双方の戦争宣言に立って「正当な恐怖」と意思の自由の両立が図られる。そうであれば、グロチウスは、私人間でも国家間でも意思の自由に固執していると考える。
4.結びとして
ポツダム宣言受諾には伝統的国際法上強制の正当性があることになり、それに基くGHQの日本占領における目的達成にも正当性があることになる。いうまでもなく、日本国憲法は、かかる国際法を背景にもっていて、連合国が持っている人権論、国民主権論、民主主義論の文化的政治的遺産を継承している。8月革命説はこの背景をもっている。