日本平和学会2017年度春季研究大会@北海道大学
分科会「グローバルヒバクシャ」報告レジュメ
北海道の被爆者
北海道被爆者協会 事務局次長
北明 邦雄
北海道は広島・長崎から遠く離れた地でありながら、被爆者の数は他府県に比べて相対的に多い。現在321名(2017年3月末現在)の被爆者が暮らしている。長崎よりも広島で被爆したものが圧倒的に多い。なぜだろうか。
1. 北海道の被爆者
北海道の被爆者は大きく3つの類型に分かれる。
①ひとつは北海道の地から徴集・召集されまたは志願して入隊し、広島に駐屯し、直接被爆するか被爆直後の街中に入って入市被爆したパターンである。広島は軍都として発展し、各種部隊・軍事施設が置かれた。1945年には本土決戦に備えて広島城に中国軍管区司令部が設置された。陸軍船舶司令部(宇品)、通称暁部隊には北海道の兵士が多数いた。
②もうひとつは北海道開拓に入った被爆者である。戦後すぐ政府は戦災者や失業者、引揚者を開拓農民として全国に送り込んだ。北海道にはその2割を超える45,000戸以上の人びとが入植した。しかし未開の寒冷地に開墾の鍬を振り下ろし生活の基盤を築くには想像を絶する困難が伴った。この開拓民の中に多くの被爆者がいたことはあまり知られていない。
③3つには転勤、結婚等で北海道に移住した人々である。
2. 被爆体験-語りの特徴
北海道に在住する被爆者が他府県と比べて相対的に多いとしても、北海道の中で被爆者は圧倒的に少数者である。その中で自ら被爆者であることを名乗り語り部活動(自らの被爆体験を語ること)を行うことは容易なことではない。
北海道被爆者協会は1988年を最初にほぼ10年ごとに4冊の被爆体験集を発刊してきた。そこに載せられた体験記の検討を通して、いつ、どのようにして、何を被爆者は語り継いできたか、北海道での被爆体験の語りの特徴を考えてみたい。
3. 被爆二世プラスの会
5月28日、被爆二世プラスの会北海道が誕生した。被爆者の高齢化に伴って被爆体験の継承が差し迫った課題となっている。また被爆二世に特徴的な健康への不安や悩みにどう応えるかも大きな問題である。しかし被爆二世は運動の担い手として未だ十分形成されているとは言えない。そこで北海道では「被爆二世」「プラス」の会という形で組織を作ることとなった。「プラス」の意味は、いわゆる被爆二世(被爆者手帳を持っている被爆者の子)だけではなく、広義の被爆二世(原爆被害者の子)や被爆者・被爆二世に思いを寄せる人びと(被爆者と非被爆者を含む)を加えているからである。
この会は①被爆一世の被爆体験を学び継承することにつとめる。②被爆二世としての健康不安や要求を語りあい、行政に対応を要望する。③被爆の問題を、その他の被ばく問題ともかかわらせ、広い視点で考える。④「ふたたび被爆者を作らない」ために核兵器廃絶に向けて取り組む、ことなどを活動方針に掲げている。
被爆者(一世)は原爆被害体験があまりにも強烈であったために自らの体験をより広い文脈の中で語ることは不得手であった。しかし、二世プラスの会は、被爆の直接の当事者ではないために、かえって「グローバルヒバクシャ」を視野においた活動ができるのではないかと考えている。
証言者 プロフィール
松本郁子
1933年生れ。12歳の時、爆心から2km離れた広島市的場町で被爆。家は爆風で全壊状態、倒れた箪笥と仏壇のすき間に吹き飛ばされ奇跡的に助かった。母は勤労奉仕先で死亡した。復員してきた父と疎開していて助かった妹と一緒に福岡に移住した。被爆後下痢や皮下出血が続いた。結婚後も全身の倦怠感と極度の貧血に悩まされた。二児をもうけたがやがて離婚。その後仕事の関係で北海道へ。1990年に妹が白血病にかかり、2008年には自身副甲状腺腫瘍の手術を受けた。自らの被爆体験を人前で話すようになったのは被爆後60年も経ってからである。現在北海道被爆者協会副会長。
宮本須美子
1937年生れ。1945年に父が名古屋空襲で死亡、そのため母の両親の住む長崎市の戸町へ移った。父の故郷も長崎にあった。戸町は爆心から6km、原爆投下時は防空壕に避難していて無事だった。2日後に一家は被爆直後の長崎の街中を通り父の実家に疎開、ほどなくして5人とも倦怠感に襲われ、数か月後には母と妹に原爆症が出た。死臭漂う焼け野が原の市街地、橋のたもとで折り重なって亡くなっている人々、その悲惨な光景は今も忘れることができない。すでに母と姉はガンで他界、今年娘をリンパのガンで亡くした。被爆体験を語り始めたのはここ数年来のことである。現在北海道被爆者協会理事。