日本平和学会2017年度春季研究大会
報告レジュメ
分断を接合する技術
チカーナ/チカーノの諸表現における二重性・混沌性・緩慢性の考察
東京大学大学院
新津厚子
atsumaruko723[at]gmail.com
キーワード:《ラスクアチスモ》、チカーナ/チカーノ、農民劇団(El Teatro Campesino)、メキシコ、二重性
1. はじめに
本報告では現在の米国において最大のエスニック・マイノリティであるメキシコ系米国人(以下チカーナ/チカーノ)の諸表現に焦点を当てることで、社会の「境界」に生きる人々が平和的に他者との関係性を形成するための感性について検討する。具体的には、諸作品に対する批評を含め、チカーナ/チカーノの美的感性《ラスクアチスモ》に関する考察を行い、そこから明らかになる二重性・混沌性・緩慢性の様相とその価値を論じる。
2. チカーナ/チカーノとは
チカーナ/チカーノ(Chicana/o)とは、政治的な自律心と、1960年以降の公民権運動を尊重する歴史意識を持つメキシコ系アメリカ人のアイデンティティである。チカーナは女性、チカーノは男性を指す。公民権運動(チカーノ史では単に「運動」(El movimiento)と表記)以前は、主として「二級市民」「貧乏移民」を指す差別用語であったが、「運動」時にはチカーナ/チカーノたちによって用語の意味転換と正当化が図られた。2010年現在、米国人口3億865万人に対し、チカーナ/チカーノになりうる潜在性を持つメキシコ系アメリカ人の人口は3,179万人 (全体の9.7%)(US census 2010)であり、米国最大のマイノリティとなっている。実際には、かつては他称としての差別用語であったこともあり、第三者からチカーナ/チカーノと名指されることも、チカーナ/チカーノと名乗ることにも違和感を抱くメキシコ系が多い。イーストロサンゼルスのバリオの公共性や連帯、「運動」の歴史を踏まえた上での文化的自称として、音楽や詩、絵画などのチカーノ・アートにおいて肯定的にチカーナ/チカーノと名乗られることはある。
3. チカーナ/チカーノのコミカルな境界の美的感性《ラスクアチスモ》
本報告では、それらチカーノ・アートにも通底するコミカルな境界の美的感性に着目する。チカーノ・アートの中枢を担う美的感性は、チカーノ文化研究者のトマス・イバラ=フラウストを中心に《ラスクアチスモ》(Rasquachismo)という名で定義され批評されている。イバラ=フラウストは、この《ラスクアチスモ》という美的感性について1988年、展覧会とシンポジウムを開き、ラテンアメリカおよびラティノ美術史家のシフラ・ゴールドマン、人類学者のジョン・アギラルとともにこの感性に関する批評文を書いた。この企画は、コミュニティの人々にチカーノ・アートの理解を深める機会を作ることが目的であった。この《ラスクアチスモ》は、メキシコ社会においても米国社会においても違和感を抱かざるを得ないチカーノたちの矛盾や異質さを的確に捉えている。この矛盾や異質さは常に差別の対象になりうるが、この美的感性では、それらを笑いや個性へとつなげ、自律的な文化の確立と自らを語る芸術・技術の形成を試みている。発表者はこの感性を、二重性・混沌性・緩慢性を重視したコミカルな境界の美的感性として批評している。この感性は強者の論理と、二元論による分断を乗り越える試みとしても主張できる。
4. トマス・イバラ=フラウストによる《ラスクアチスモ》論
イバラ=フラウストがあげる《ラスクアチスモ》作品は幾つかあり、1974年には農民劇団El Teatro CampesinoでLa Carpa de Los Rasquachisという演目が上演されている。この演目は、ダニエル・ベネガスによって1928年に書かれたピカレスク小説『ドン・チポーテの冒険』が基層になっているようである。イバラ=フラウストは1989年に出版された展覧会カタログにおいて以下のように《ラスクアチスモ》について論じている。
人は決してラスクアチェではない。それは常に、承認されるような鑑賞力や礼節を定める者の外側にいる者として判断される、より低い地位(Lower Status)の誰かである。〔…〕ラスクアチスモは、思想でもスタイルではなく、それ以上にある態度や審美眼のようなものである。第一に、概してラスクアチスモは、ある負け犬の視点―下からの見解、資源のなさや順応性を基盤としたある態度であるとともに、いまだスタンスやスタイルについても意識している。第二に、ラスクアチスモは「持たざる者」の世界観を含意するとともに、例えばラスクアチェの車やレストランなどのような物体や場所、そして社会的なふるまい(ある人物がラスクアチェにもなりうるし、ラスクアチェ的に振る舞うというような)に例証されるような質も含めている。第三に、メキシコの地に固有な諸伝統がラスクアチスモの基盤を形成しているが、そこにはメキシコ系アメリカ人の中にある二文化併用の感性が含まれている。
メキシコと米国双方においてラスクアチスモは野蛮で悪趣味(being cursi) な感性の含意を持っている。支配力を持つ人々から生まれたそのような見方ははっきりと示され、それらの美的規範は標準で普遍的であるとして押し付けられる。社会階層は、ラスクアチェであることを示す明らかな境界である、(ラスクアチェの)それは労働者階級の感性(ひとつの生きた現実)で、それはほんの最近、専門階級の美的番組として理解されるようになった(例:映画Born in East L.A)ラスクチェは、軽率で、混淆であり、想像力の乏しい、静かで、「より純粋な」伝統のなかで癒しを求めるような、エリート地位の人々に戦慄を送るようなものである。
Tómas Ybarra-Frausto.1989, “Chicano Aesthetics: Rasquachismo, Arizona: MARS, p.5.
上記で挙げられている『イーストロサンゼルスで生まれて』Born in East L.A.(1987)は、チーチ・マリーン演じるイーストロサンゼルス育ちのRudy Roblesが身分証明書を持たずにいとこのJavierを工場に迎えにいったところ、多くのメキシコからの「不法入国者」を雇っていたその工場で移民局の検査に遭遇し国外追放されるというコメディ映画である。困難な状況でもティファナで友人を作り、チカーノ英語を教えながら、様々な「境界」を乗り越えていく様子が描かれており、イバラ=フラウストによると《ラスクアチスモ》作品の一つになる。ブルース・スプリングスティーンによる曲、Born in the U.S.A(1984)のパロディであると考えられる。
5. 農民演劇(El Teatro Campesino)からみる《ラスクアチスモ》観
チカーノ劇作家ルイス・バルデスによって1965年に設立された農民演劇(El Teatro Campesino)では、1974年から既にLa Carpa de Los Rasquachisという演目が上演されている。この演目では、コミカルなユーモアとともに、単身チカーノの闘争、苛立ち、究極の勝利が描かれている。ストーリーは、主人公Jesus Palado Rasquachiが、短期季節労働者であるブラセロとして母と兄弟をメキシコに置いて富豪になる夢を胸に米国に渡るが、至るところに罠や裏切りがあるというものである。主人公は農場主、請負人、バーのオーナー、ソーシャルワーカー、葬儀屋の手中において、痛ましくコミカルな人物像になっていく。《ラスクアチスモ》的世界観の描写であり、イバラ=フラウストが初期《ラスクアチスモ》作品にあげている『ドン・チポーテの冒険』がモデルではないかと報告者は予想している。
6. 二重性・混沌性・緩慢性
ここでは特に《ラスクアチスモ》における三つの特徴的な性質について焦点をあてる。
(1)二重性
《ラスクアチスモ》においては、異なる二つ以上の要素や存在が必要である。例としては、メキシコ/米国、ハイ・アート/ロー・アート、自己/他者、男性/女性などがあげられる。このうちのどちらか片方にのみ属し、もう片方の視点や立場を忘れることは《ラスクアチスモ》ではない。ある集団や空間の内部にいながら外部にいるという周縁的視点を持ち続け、双方において違和感を抱き続けるのが《ラスクアチスモ》である。
(2)混沌性
秩序だった分類や区分に当てはめることができない、動的で可変的なニュアンスや混沌とした姿勢こそが《ラスクアチスモ》である。その例としては、余った材料をなんでも混ぜて作るカピロターダという菓子があげられている(Goldman 1989)。わかりにくさと捉えにくさ、加えて新たな価値の創造を助長する重要な要素である。
(3)緩慢性(low and slow/suave)
この点は早さをよしとする競争社会に対する抵抗として理解することができる。チカーノたちを代表するローライダー車という車高の低い改良中古車は、「低く、ゆっくりとlow and slow」乗ることが良いとされている。またチカーノ音楽には「やわらかい/優しいsuave」と表現されるような、ゆるい音調が重視されることが多い。この点からは、チカーナ/チカーノたちが、諸表現において「高い/早い/固い/冷たい」といった「強さ」を想定させるような態度とあえて正反対の姿勢を取ろうとしていることがわかる。
7. 分断を接合する技術
これまでの報告者の調査によると、コミカルな境界の美的感性《ラスクアチスモ》は、メキシコと米国の間におかれるメキシコ系アメリカ人の状況、メキシコ系アメリカ人たちの二重・混沌・緩慢な態度や姿勢を、固定的な制度や規範とは異なる、動的な状態で理解するためのチカーナ/チカーノたちの企図であると言える。この態度や姿勢は、対立関係や分断を誘発しがちな二元論を融解させ、異なるものを巧みにつなぎあわせることで、共生のための新たな視座や価値観を形成する可能性がある。固定的、静的、規範的、中央集権的理解のあり方に対する、「他者」の抵抗としても捉えることができる。
参考文献・URL
加藤薫[2002],『21世紀のアメリカ美術 チカノ・アート―抹消された“魂”の復活』 明石書店。
Dunitz, Robin.J.[1998],Street Gallery: Guide to over 1000 Los Angeles Murals. Revised Second Edition with 200 new murals, Los Angeles: RJD Enterprises.
Hemistic Institute Digital Video Library, “El Teatro Campesino Collection, La Carpa de Los Rasquachis” http://hidvl.nyu.edu/video/000539733.html (2016年6月29日取得)
Ybarra-Frausto, Tomás, Shifra. M. Goldman and John. L. Aguilar[1989], Chicano Aesthetics : Rasquachismo. Arizona: MARS.
Ybarra-Frausto,Tomás.[1991], “Rasquachismo: ‘A Chicano Sensibility’,” In Chicano Art, Resistance an Affirmation, 1965-1985. Richard Girswold del Castillo et al eds., Los Angeles: Wight Art Gallery, pp.155 -162.