アイヌ民族史の史実を探究して――十勝、石狩、千歳――

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 アイヌ民族史の史実を探究して――十勝、石狩、千歳――

                                                    井上勝生

1 北海道ウタリ協会(当時)が決議したアイヌ新法原案の「前文」は、「アイヌ民族自身によるアイヌ民族近現代史」の核心になる文章である。北海道旧土人保護法の、位置づけにかかわる部分が、重要である。

 

A アイヌ民族は給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調とした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。

B アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。

 

 「給与地にしばられ」、「民族の尊厳はふみにじられ」、「恥ずべき歴史的所産」、「屈辱的な民族差別法」。アイヌ民族自身の保護法に対する評価は、厳しく、痛烈である。

 一方、アカデミックな研究者による旧土人保護法の評価は、食いちがっていた。代表は、高倉新一郎。主著『アイヌ政策史』を見よう。保護法を、「ほぼ当時の要求に応じたもの」と肯定的に評価した。保護法の政策方針は妥当であるが、手段(具体的な実施)に問題があったと述べる。現在でもいわゆる有識者懇談会の「報告書」など、アカデミズムの主流的見解である。一方、アイヌ民族自身は、上の「前文」のように、法自体を「屈辱的な民族差別法」としており、食いちがっている。

 

2 民族史の一例を見ると、明治期に、十勝アイヌ民族が、共有財産取り戻しの運動(請願など)を展開していた。

 アイヌ民族は、十勝川河口部で組合漁業によって、今の億単位相当の財産を蓄積した。開拓使(薩摩閥)の財産管理は、杜撰で、流用、盗難もあって減額する。全道で、アイヌ民族共有財産管理問題は、紛糾を起こした。共有財産の相当部分(十勝では約6割)が北海道高官たちが参加する「御用会社」の株券にされる。御用会社は、ほとんどは消滅する。有名なのは、札幌製糖会社で、経営陣が株券偽造事件などを起こし、帝国議会でも「薩閥乱脈」と追究され、やがて倒産した。全道アイヌ民族に経済的な大被害を与える。この紛糾事件は、『アイヌ政策史』や『新北海道史』でも、とくに1節を設けて記述されている。

 十勝は経済的被害を受けた中心で、アイヌ民族全戸310戸が、民族「総会」を開いて、和人代理人(大津町民)を立てて請願運動を続けた。のち管理の新規約が作成され、その後、十勝中川郡では財産を取り戻して、「共有財産保管組合」が作られ、自治的組織ができる。

 財産保管組合は、整備された財産保管組合規約を作り、帳簿も公開。規約や帳簿、台帳など、今も地元に保存されている。中川郡アイヌ民族の地方税「戸数割」、病院代、薬価支払いなど、すべて「全員分、全額」を支払い、利益は同額を分配していた。注目すべきは、和人の書記「雇員」を、規定の給料を支払って雇っていたことである。土地問題など、民族運動を展開した。請願運動は、原文書の綴りが北大付属図書館に所蔵される。一部、中心部分を「資料紹介」した(参考文献)。

 アイヌ民族の民族運動は、アイヌ演説会、帝国議会陳情(1895年1月、日清戦争最中)と展開をつづけていた。アイヌ民族運動は、全道から本州へと広がりを見せていた。

 

3 ここで、1899年・明治32年、北海道旧土人保護法が制定される。共有財産管理の全権を長官がとる。アイヌ民族の貧困者に、種子、苗代、病院代、薬価、埋葬料などを支給する。アイヌ共有財産(アイヌ民族の財産)から支給したのである。

 先のように、保管組合では、貧困者限定ではない、全員、全額支給されていたのである。地方税(戸数割り)支払いは、保護法では、削除され、和人書記は、認められない。 

 保護法の長官専権管理になって、財産管理原簿は公開義務をなくされた。そのため管理経過は現在も不明である。これがアイヌ民族共有財産裁判の大きな原因である。官の管理でこそ問題が起きた。旧土人保護法は、アイヌ民族の自治的組織をつぶしたのである。

 

4 土地問題について、高倉新一郎『アイヌ政策史』の評価は、次のようである。

 「当時、最も妥当と考えられていた農業によって生活を確立維持させようとし、当時北海道農家一戸当の標準経営面積と考えられていた1万5千坪の土地を、土地を持たないアイヌに、簡易な手続と種々な特典を与えて付与し、また貧困で開墾および経営資本を持たない者には最小限度の農具・種子を給与し、かつ与えられた土地を家産として保持せしめんがために所有権の処分に制限を加えてこれを保護し、従来曖昧にされていた土地問題を解決し」たと、高く評価して説明した。

 政策は、妥当だったが、現場の無理解のために、アイヌ民族政策がうまく機能しなかったとする。はたしてそうなのであろうか。

 土地政策については、地域研究として、山田伸一「十勝における土地下付」の実証研究が行われている。アイヌ民族は、保護法とともに、国有未開地処分法など一般規定での申請もできると議会では答弁されたのだが、しかし、一般規定での下付は、きわめてまれ、ほぼ皆無であることなどを、下付事例を悉皆調査して山田伸一は実証している。

 保護法では、一戸、「1万5千坪」を限って下付した。和人には、「北海道土地払下規則」では、一戸10万坪が下付される。アイヌ民族には、その15パーセントの下付であり、きわめて少ない。この1万5千坪、「5町歩」は、農家標準一戸当り標準面積、小農の経営自立の必要面積であった。

 旧土人保護法・条文、第1条を、あらためて注意して読もう。「北海道旧土人にして、農業に従事する者又は従事せむと欲する者には、一戸に付き、土地1万5千坪以内を限り無償下付することを得」(全文)。一方、土地払下規則の条文では、「一戸に付き、10万坪を限り」であり、また、土地売貸規則では、「一人10万坪を以て限りとし」と記述される。保護法第1条の文言は、「以内を限り」。「以内」、あるいは「限り」で十分なのだが、「二重の限定文言」を記す。その意味、文意をよく検証する必要がある。標準面積以内を限り、という文言は、標準面積より「必ず下に」限る、という意味である。アイヌ民族には、決して北海道小農の「標準面積(必要面積)」に達することをさせない。当時の『北海道殖民状況報文』などを読むと、官の現場の政策とよく符合している。和人移民には、すぐに5町歩を越える土地が支給されている。10町歩になると、使用人を雇う、あるいは、小作に出し始める。7町歩以上であれば、自作富農になることが可能で、良い土地にあたれば、和人移民は、たちまちにこういう経営ができた。

 また、保護法の、貧困救済条項 所有権制限(質権、抵当権、地上権、永小作権、地役権の設定の禁止)の政策意図を、高倉のように高く評価できるか。きわめて疑わしい。

 

5 北海道庁が作成し、1898年、保護法制定前年の状況を記した『北海道殖民状況報文』が注目される。保護法前夜のアイヌ民族の農業が報告されている。

 

A 十勝原野の利別川東岸の場合

目下シクシアイヌ、イタウクアイヌ、メウエンカアイヌ等は、各「プラオ」「ハロー」と馬匹とを有し、五町歩の既墾地を耕作し、明治30年秋期には、各々大豆50俵乃至70俵を売却せりと云ふ、其他の「アイヌ」も、一町五反歩乃至二町歩余の作付けをなし、開墾・耕種に熱心なる……

B 白人、幕別 両村のアイヌ民族

30余戸……皆農業に従事し、平均一戸1町歩余を墾鋤せり、就中アイヌ幸太郎アマイタキの両人は、プラオ、ハローを有し、既に5町歩内外の地を開墾し、其他2、3町歩を墾するもの少なからす、農作物は大小豆を主とす、

C タンネオタのコタンの場合(古来、アイヌ民族居住地が「保護地」にされた)。

同(明治)30年より専ら開墾に従事する者あり、目下、一町歩乃至二町歩の墾成地ある者、数戸あり、「プラオ」「ハロー」は、大津村「アイヌ」ソブトイより借り、輪換使用せり、其作る所は、黒大豆を主とし、黍、稗、玉蜀黍、蔬菜類、之れに次く、黒大豆は、皆之れを穀商に販売せり……

 

 保護法前夜、アイヌ民族は、プラウ、ハロー(洋式馬耕農機具)を所有し馬耕をしている。五町歩の耕作をし、「各々」それぞれが50俵から70俵の大豆売却。大豆は商品生産である。その他のアイヌ民族は、一町5反歩から2町の作付けをし、「開墾、耕種」に熱心。5町歩をすでに開墾し、さらに開墾が進みつつある。注目すべき記事である。白人では、アマイタキら民族運動の中心人物は、プラオ、ハローで5町歩内外を開墾、2、3町歩のもの少なくない。タンネオタも注意して読む必要がある。明治30年、1897年から開墾に従事。大津村のソブトイは、金融もしていた豊かなアイヌ民族である。アイヌ民族は、圧迫をうけていたのだが、「5町歩」標準規模を越える勢いを明らかに示している。

 そこに保護法「第1条」、土地5町歩「以内を限り」、下付するという規定。「以内を限り」、二重の制限文言が適用された。「5町歩を出ようとする、アイヌ民族の動向」を、押さえつけ、抑圧する役割をした。

 サケ漁は、石狩では、明治26年、壊滅的減少に陥る。十勝のサケ漁も、明治29年、「大幅な減少」(長期的減少の始まり)を見せた。サケ漁業は、移民の大乱獲が展開し、資源壊滅は、明治20年代後半期に、全道で、きわめて急激に現れた。漁業に雇用されるなどしていたアイヌ民族も、農業へ向かうべく追い詰められ、農業へ急速に方向を転じた。漁業・狩猟民族と言っていられない状況が生まれたのである。。

 ひとたび農業民へ転ずれば、アイヌ民族は、その能力を発揮したのである。その状況が、上の『北海道殖民状況報文』に記されている。旧土人保護法、制定・施行の前夜である。

 

6 開墾は、金融を必須としていた。保護法の土地担保禁止は、金融を閉塞させ、民族全滅法になるという批判が「北海道毎日新聞」に掲載された(「土人保護法案に就いて」)。

 

A 農業にても或る地所を抵当として金融を為し、その資本をもって他の開墾その他の事業に従事する等の事は、彼らの常態にして、彼ら中これらの負債なきものは、ほとんど皆無といって可なり、

B すべての財産に関する件は、まったく長官の認可を得ざれば、如何とも為す能わずとせば、今日まで種々の方法によりて行いつつありし金融は、まったく衰滅に帰せざるべからず、

C 該法案をそのまま直ちに実施せば、旧土人保護法は、変じて旧土人全滅法たる……

 

 担保のないアイヌ民族に対する金利は高かった。当時の官の調査で、年利1割8分から2割4分(「負債の利率は概ね高く」『旧土人に関する調査』大正11年)。しかも、従来からの所有地にも、抵当権などを禁止された。売買できない土地にされた。不当な制限である。開墾資金も用意できない。当時は水害が頻発していた。まして金融が必要であった。売買できない(土地を離れられない)、担保にもできない。永小作は禁止されているから、期限付き小作に出して凌ぐしかない。小作に出すアイヌ民族が出るのは当然であろう。

 新法案の前掲「前文」、「給与地にしばられて」というアイヌ民族自身の評価は、的を射ている。北海道旧土人保護法、「アイヌ民族(旧土人 原文)全滅法」という評価は、実は、的確である。 

 その保護法以後のアイヌ民族を「保護民」と呼ぶ、この骨がらみの差別は、まことに厳しい。前掲「前文」は、「民族の尊厳はふみにじられた」と述べている。

 エカシ貝澤正は、『アイヌ 我が人生』に収録された文章の各所で、保護法や保護民扱いを、痛罵、痛憤している。「屈辱的な民族差別法」というアイヌ民族自身の位置づけを、正面からとらえる必要がある。保護法以後は、アイヌ民族が述べているように、強力な抑圧と差別のもとに置かれた。保護法以前のアイヌ民族の活力を大きく抑圧した。

 高倉新一郎らのアカデミズム、北海道旧土人保護法を、「保護する」、「当を得た法」、「妥当な法」としてきた、その歴史的意味を広く、また深く考察する必要がある(未定稿)。

 

参考文献

 井上勝生(2017)「内村鑑三と石狩川サケ漁、アイヌ民族」『北海道大学大学文書館年報』12。

 井上勝生(2016)「資料紹介、十勝アイヌ民族の十勝川共有漁場自営・共有財産取り戻し運動史料」『北海道大学大学文書館年報』11。

 井上勝生(2013)『明治日本の植民地支配―北海道から朝鮮へ―』岩波現代全書。など

 山田伸一(2011)『近代北海道とアイヌ民族』北海道大学出版会。

 裁判の記録編集委員会(2009)『百年のチャランケ アイヌ民族共有財産裁判の記録』緑風出版。