日本平和学会2016年度秋季研究大会
ラウンドテーブル「多摩地域発 平和な社会づくりにむけた挑戦」(開催校企画)
やまぼうし『共に生き・働く場づくり』のアプローチ
――満蒙開拓団拓務訓練所から障害児者施設七生福祉園の歴史を踏まえて
認定NPO法人やまぼうし理事長、法政大学大学院修士課程
伊藤勲
キーワード: 満蒙開拓団、満州分村計画、東京報国農場(長春)、戦災孤児収容保護施設、障害児施設 生活改善模範村、隔離収容型施設の改革、府中療育センター闘争、おちかわ屋の創業、やまぼうしの創設 地域社会における障害者の社会的包摂と労働統合、津久井やまゆり園事件
1.満蒙開拓団と七生福祉園の歴史が問いかけていること
明星大学が現在の日野市程久保に開設されたのは1964年でした。この程久保の地には、1939年に満蒙開拓団拓務訓練所(東京都経済局所管)が開設され、敗戦後の1945年には満州からの引き揚げ者の「東京都帰農訓練所」に改称されました。そして、1947年の児童福祉法の制定を受けて、1949年に戦災孤児を中心とした養護施設「都立七生児童学園」に移行したのです。さらに、1952年には精神薄弱児施設となり、1963年には精神薄弱者更生施設「七生福祉園」が併設され、1968年に両施設が統合され今日に至っています。
小生が都立七生福祉園に勤務したのは1970年でした。戦後25年経過していたにも関わらず、当時の七生福祉園は拓務訓練所時代の建物を「分教場」(みなし教育)として使用され、かつての養豚・養鶏の農場も障害者の「更生・自立」の場として活用していました。拓務訓練所開設から77年を経て、戦時中の知的障害者の戦争体験と満蒙開拓団に共通する「棄民政策」と戦後の障害者施策に見られる「優生思想」「劣等処遇」、そして今日の「能力主義的差別」「社会的排除」にどう立ち向かうのかが問われています。「津久井やまゆり園事件」の投げかけている闇は、深く重いが、改めて『どのような共生型社会を構築するのか』アプローチを重ねていきたいと考えています。
2.「戦争と福祉」は表・裏~「恩恵としての福祉」の根底にあるもの
日野市は、2013年に市制施行50周年を迎えたのを機に、「日野市の半世紀~移りゆくまちの過去と今 そして未来」の記念誌をまとめています。その中で、1930年にはじまる昭和恐慌で米・繭の価格暴落と経済不況の深刻化により、七生村の人口の半分を満州に移す分村計画を立て、多くの若者が、満蒙開拓団拓務訓練所を経て大陸に送り込まれていきました。拓務訓練所は敗戦後GHQの命令で閉鎖され、帰農訓練所となりました。七生村は、引き揚げ者を中心にして「生活改善の模範村」として注目されました。七生福祉園は、戦災孤児の収容所、知的障害児の収容保護施設と時代とともに社会的役割を変遷してきましたが、ある意味国策に振り回されてきた歴史といえます。(→資料1参照)
また、1943年6月には当時の皇后が多摩稜を参拝された後に、拓務訓練所を行幸し、訓練生を激励したとの記録があります。この時期、軍人援護行政と表裏一体となって機能していた軍人援護団体が国レベルの「恩賜財団軍人援護会」、市町村レベルの「銃後奉公会」に再編統合されていました。敗戦によって銃後奉公会は解散され、その後まもなく「共同募金会」ならびに「市町村社会福祉協議会」が発足したのです。戦後占領期に、軍人援護会は戦災援護会に合併の上、軍事目的を払拭した同胞援護会に改組されました、そして銃後奉公会は同胞援護会の支会・分会となったのでした。軍人援護団体は消滅したものの、傷痍軍人・戦没軍人遺族・出征軍人留守家族に対する援護は法外援護として同胞援護会に引き続けられてきました。同胞援護会は昭和27年5月28日、「社会福祉法人恩賜財団同胞援護会」として認可され、今日に至っています。設立当初は、引揚者や戦災者に対する生活相談、物資頒布事業や一時収容所、定着寮の運営など戦争で疲弊した都民の物心両面にわたる援護を中心に事業を展開してきました。社会福祉法人となってからは、時代の要請とともに,児童、母子、高齢者、障害者、生活困窮者等広範に亘る人々の福祉実現に向け事業を展開している日本の代表的な社会福祉法人ですが、「戦争と福祉」の表と裏を如実に体現してきている法人といえます。(→資料2参照)
3.戦後50年シンポジウム「戦争と知的障害者」の証言集から
戦時中多くの東京の障害者は、学童疎開の対象外とされていました。1995年8月に七生福祉園の都職労民生局支部七生福祉園分会は、七生福祉園の歴史(満蒙開拓団時代を含む)と「知的障害者と戦争」の戦後50年のシンポを開催しました。この中で、七生福祉園利用者と滝野川学園の利用者の方の貴重な戦争体験の証言が収録されています。
Sさん(当時12歳)の証言です。「空襲の時、どうやって逃げたの?」「お家全部焼けちゃった。バアバアバアすごかったよ。火の粉で、空が真っ赤にみえるの」「防空壕に入らなかった?」「途中から入ったの。お母さんが赤ちゃんが生まれるから。お産婆さんいなかったの。赤ちゃん泣かせなかったの、あの時泣かすと上から爆弾何か落ちてくるから」「「仕事はいてないなかった?」「してなっかた。お前仕事もしないで,ボケてんじゃないかよって。喧嘩した。戦争の後、仕事ないからら、お手伝いさんやらせてくださいと頼みにいった」「戦争が終わったのはいつだかわからないけど、前に終わっていたんだって」。
Kさん(当時14歳)の証言です。「戦争のことは何かおぼえていますか?」「昭和16年からの大東亜戦争のことです。戦争の終わる春の空襲で家が焼けました。その時は、兄弟全部で10人いて、そのうち年下の妹と弟は長野へ学校疎開していました。その日は、お母さんは長野の弟と妹たちの様子を見に行き、父は川崎の工場の泊りでした。家が丸焼けになりました。中野駅前の組合病院へ近所のお姉さんに連れられて行った時の事。手の指・足の先・お尻まで濃でグチョグチョになりました.さつまいもならさつまいもばかり食べていました。お母さんが摘み草にいってハコベを摘んできて。それを御粥にいれて,お塩で味付けしてました」。(→資料3参照)
戦争に役に立たない障害として「ごくつぶし」扱いされた戦時下の障害者は、精神病に長期入院させられていた精神障害者の多くとともに、「餓死」に追い込まれていた史実にも目をむける必要があります。「第二次大戦下では、食糧難で入院患者に食べさせる食糧がなく、空き地を耕して作物を創り自給自足の状況であった。その結果、多くの患者は餓死した。(松沢病院だけでも)年間352人が餓死した」。(→資料4参照)
4.府中療育センターの障害者当事者運動と自然食品の店「おちかわ屋」創業の意味
1970年に当時東洋一の障害者施設といわれた重度重症者施設で、障害当事者による告発・糾弾の闘いが開始されました。それは、入所時に「死体解剖承諾書」を強要されていることをはじめとした、全面的な医療管理体制に抗議するハンガーストラキや都庁前の長期テント闘争として展開されました。その闘いの結果、七生福祉園の奥の都有地に全国初の療護施設「多摩更生園」(多摩療護園)が開設され、後に自治会運動で全国初の施設オンブズマン制度が誕生しました。又、1981年の国際障害者年を機に、府中問題の解決のために、東京都は日野療護園を開設しました、私は開設担当業務を担いました。当時としては画期的な,全室個室化、日課規制の全廃等を実現しました。しかし、府中療育センターから移転してきた当事者は、「自分たちの仕事をしたい!」との要求を出してきました。
当事者の熱い想いを受け、自然食品の「車いすでの行商」、「スレッチャーを改造した屋台販売」時代を経て、1985年には空き店舗を賃借した自前のお店「おちかわ屋」を開業しました。彼ら彼女らは、「単なる規制管理からの解放」には満足しませんでした。社会的に生きる場を与えられるのではなく、自らの力で創造していく気概に溢れていました。(→資料5参照)
5.「障壁のない地域社会日野を創る会」と「ワークショップおちかわ屋」の取り組み
おちかわ屋は、その後、在宅障害者の参加が増え、ボランティアだけでは支え切れなくなり、1990年に任意団体を創設し「小規模作業所」に移行しました。しかし、それは「より良き施設づくり」を目指したものではありませんでした。「障害者を排除して成り立っている地域社会を、共に生き・働く地域に変えること」を基本目標に掲げていました。百草園駅のスロープ設置運動をはじめ様々なワークショップを重ね、1995年には、多くの市民との協働で「市民版ひのまちづくりマスタープラン」をまとめ上げることができました。その際、私は「第2章 人よまちに出でよ――このまちの主人公たち」を担当しました。その中で「当事者主体の社会サービスの構築に向けての課題と提案」を行いました。以下は、提案の骨子です。
1)市民自治型福祉への転換
①高齢者・障害者・児童を福祉サービスの対象としてだけ対応するのではなく、多様な生活ニーズを持つ生活主体として尊重することが基本である。これからの福祉は、これまでの行政の社会的弱者に治する保護主義的体系から脱却し、市民が自らの人間的尊厳の回復と社会的・文化的暮らしを創造していく営みに対する社会的援助活動として位置づけていくことが大切である。
②「市民の参加と連帯」の活動は、行政に対する補完的活動としてではなく、市民の自治的・自立的活動としてその主体性を尊重するとともに、行政と市民活動との新たな協働関係を創りあげること。
③供給者主導型の福祉サービスから、利用者主体型の社会サービスへの転換を図る時期にきている。生活・保健医療・住宅等の行政サービスに対する自己決定権・自己決定権が保障されるような社会サービスの供給システムを実現していくことが基本目標になる。
2)まちづくりの一環としての福祉
①高齢期を迎えても、どんなに重い障害を持っていても、福祉的施設整備に限定するのではなく、自然や人間の豊かさ・やさしさが実感できるまちづくりを基本とする。
②住宅・公共交通・教育・就労等の施策がばらばらのメニューではなく、ひとりひとりの市民の必要ととするトータルな社会的援助が的確に提供されるようにすることが大切である。
③孤立しがちな市民が多様な人間関係を創り出していけるような市民活動拠点を地区毎に整備する。それは、全市的に同一のタイプのものである必要はなく、それぞれの地区の自然環境や生活条件の特性を生かした個性的な活動空間〈市民農園やリサイクルショップ、市民サロン、工房・アトリエ等)であることが期待される。そのための用地確保や活動費助成が行われれば、市内の障害者作業所の拡充・整備もこうした市民活動の拠点づくりの一環として位置づけることで開かれた活動空間となるはずだ。(→資料6参照)
この提案は、「脱施設福祉」の視点の明確化と「共生型地域社会」の創造を目指したものでした。
6.NPO法人「やまぼうし」の創設と小規模分散型の事業拠点の構築
――事業型NPO法人を地域社会における障害者の社会的包摂と労働統合の場に
2001年に「障壁のない地域社会日野を創る会」はNPO法人やまぼうしとして発展的に解消しました。それは、障害当事者を含む市民主導で「市民版まちづくりマスタープラン」を具現化することを目的としていました。やまぼうしは、現在16事業所を日野市周辺エリアに展開し、多様な暮らしと仕事場を作り出しています。障害者の就労支援事業の分野では、「まちも、会社も、障害者も元気日野」を合言葉に、就労支援センター・就労移行支援・就労継続A型・B型事業を重層的に展開し、障害を持つ人と持たない人の「協働」をベースにした、多様な働き方の実現に取り組んきています。さらに、重度の方の生活介護事業所でも、「農あるまちづくり」の一環としての里山保全・有機野菜の栽培と販売事業に取り組んできて来ました。(→資料7参照)
これらは、「よりよき施設づくり」とは対極の「地域社会における障害者の社会的包摂と労働統合の実現」をミッションとしています。また、それらのローカルネットワーク事業をベースに、2007年からは食材の生産・加工・流通の六次産業の推進を軸とした広域ネットワークの「スローワールド事業」の構築にチャレンジしてきています。
これらは、「津久井やまゆり園事件」が突き出している「恩恵的・保護主義的福祉の持つ排外主義・能力主義的差別」を超克する道であると考えています。明星大・法政大・首都大での大学内のやまぼうしのコミュユテイ・カフェもそれぞれ独自性を輝かせています。しかし、ハイブリット型のソーシャルビジネス創造の課題は山積し、前途は多難です。(→資料8参照)
■参考資料
資料1: 日野市郷土資料館『日野市の半世紀――移りゆくまちの過去と今 そして未来』2014年
資料2: 社会福祉研究所『戦前・戦中期の障害者福祉対策』1990年
資料3: 資料集「シンポ 知的障害者と戦争」自治労都庁職支部七生福祉園分会
資料4: 藤野ヤヨイ「我が国における精神障害者処遇の歴史的変遷」『新潟青陵大学紀要』5、2005年
資料5:「街の八百屋を目指した認定NPO法人やまぼうし40年の軌跡」やまぼうしスタッフ研修会資料集
資料6: 日野・まちづくりマスタープランを創る会『市民版日野・まちづくりマスタープラン』1995年
資料7: 助成先レポート「共に働き、共に生きるまち。その実現へ次々と戦略を打つ」『ヤマト福祉財団NEWS』No37
資料8:「浅川流域で 人が自然と豊かに暮らせるまちを」『自治体ソリューション』2015年12月号