日本平和学会2016年度秋季研究集会
報告レジュメ
沖縄にとって日本国憲法とは何か
−琉球共和社会憲法案という応答にも触れて−
早稲田大学
社会科学部 助教
小松 寛
キーワード:平和主義、米軍基地、沖縄返還、反復帰論、沖縄独立論
1.はじめに
沖縄にとって日本国憲法が有していた意味とは何であったのだろうか。第二次世界大戦後、沖縄は米軍の直接統治下におかれ、1947年に施行された日本国憲法の適用外地域であった。冷戦の顕在化により、米軍は強制的に基地建設を進め、沖縄は軍事要塞と化した。沖縄民衆は平和憲法と称された日本国憲法による庇護を求め、復帰運動が興隆する。この社会動向を背景に日米両政府は沖縄返還交渉を進め、1972年、沖縄は日本に返還される。しかし、沖縄側が求めていた憲法の平和主義による在沖米軍基地の撤去は実現しなかった。1980年代、沖縄の論壇では日本復帰への反省に立脚した、沖縄独自の憲法案が提示される。その代表例が川満信一による「琉球共和社会憲法C私(試)案」であろう。「憲法」という体裁をとりながらも「共和国」ではなく「共和社会」という名称が示すように、国家そのものを否定し、国家の止揚を目指したところにその特徴がある。
本報告ではまず、戦後沖縄の経験を通して、沖縄にとっての日本国憲法を検証する。次に復帰後に登場した沖縄独自の憲法案について考察し、その今日的意義を論じたい。未だ新米軍基地建設問題をめぐり日本政府と沖縄県の対立が続いている現状において、国家を超越することによる沖縄の自立を企図した憲法案に今再び向き合うことは決して無用ではないであろう。
2.平和憲法の不在
日本国憲法制定にあたり、戦争放棄を規定した第9条についてはGHQの意向が強く反映された。その意図は武力の不保持による世界平和の実現という理想論だけでは説明できない。政治的理由としては天皇の戦争責任を回避し、東京裁判で天皇を不起訴とすることにあった。また、日本の戦力不保持を可能とした軍事的要因は沖縄にあった。マッカーサーは沖縄を「天然の国境」と定め要塞化することによって、軍事力を有しない日本を外部の侵略から防衛できると考えた。つまり、日本の非軍事化と沖縄の軍事要塞化は平和憲法誕生の時から表裏一体の関係にあった。
沖縄における復帰運動において、当初から日本国憲法による平和主義がその主目的であったわけではない。1951年、日本復帰促進期成会掲げた沖縄が日本に復帰すべき理由は「琉球の歴史的、地理的、経済的、民族的、関係から速やかに日本に復帰する事が琉球人に繁栄と幸福をもたらす」からであった。また「全面講和や基地提供反対等の主張をせず此の運動を単に琉球の帰属問題に局限する」というように、平和主義への言及はおろか、基地問題を復帰運動の争点とすることさえも回避された
3.日本と沖縄の基地闘争
1950年代に入ると冷戦の激化を契機として、日本本土と沖縄、どちらにおいても米軍は基地拡大のために土地接収を進めた。日本本土では1952年、石川県内灘村における試射場設置反対闘争を口火に全国で反基地運動が展開される。また、1955年には立川飛行場拡張計画に対して反対運動が展開された。本運動では生活権の擁護を訴え、その理論的根拠として憲法が保障する生活権と財産権、そして健康で文化的な生活をおくるための権利が明記された。さらに総決起集会の決議には生活および農地のほか「日本の平和と独立」を守ることも追記された。日常の生活から日本の平和へ射程を広げた本運動は、基地拡張のための強行測量を中止に追い込み、最終的に立川飛行場拡張計画は頓挫した。
他方、沖縄でも既存軍用地の補償と土地接収という形で基地問題が露わになる。軍用地について米軍は当初、土地の一括払い(事実上の買い上げ)を計画したが、住民側は一括払い反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対という、いわゆる「軍用地四原則」を主張した。激しい抵抗運動にあった米軍は一括払いを撤回し、適正補償に応じた。しかし商業地区への経済的締め付けを行うことにより、島ぐるみにあった沖縄社会の分断を図った。結果、米軍当局による金銭的処遇と財産権・生活権への直接的侵害、このアメとムチにより憲法の庇護下になかった沖縄の基地闘争は瓦解した。
このように拡張された米軍基地に移駐してきたのは、日本から撤退した海兵隊であった。結果、日本本土と沖縄の米軍基地の比率は9:1から5:5となった。
4.復帰運動における平和憲法とその批判
1960年、復帰運動の中心母体となる沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成された。その活動方針では「日本国憲法、日本の民主的な諸法律の沖縄への適用を実現するために努力する」と定め、沖縄への憲法適用をその目標のひとつに組み入れた。67年、琉球政府立法院は「沖縄の施政権返還に関する要請」を決議、平和主義による沖縄県民の解放という新しい視点を打ち出し、復帰運動の支柱として基本的人権を保障する必要性と平和主義に徹する重要性を沖縄の人々に実感させ、日本国憲法へ目を向けさせた。
69年、日米共同声明によって沖縄返還が決定するが、沖縄側が求めた基地撤去は盛り込まれず、沖縄住民は落胆した。現実の復帰に対する失望が広がる中で、復帰そのものへの異議を唱える主張が登場した。そのひとつは今日「反復帰論」として知られており、川満信一はその中心人物の一人である。日本復帰を問い直すため、国家という存在そのものも検討対象とされた。それを川満は「日米安保強化の要石として、七二年復帰が既設のレールとして敷きつめられることになった。強大な米軍事支配との直接的な摩擦に幻惑されて、国家問題をその主題から欠落させてきた沖縄は、その虚妄点をつかれ、一体、国家とはなんだ、という切実な問いかけに直面するのである」と言い表した(川満 1970)。
5. 復帰後の憲法案
日本復帰から9年が経過した1981年、『新沖縄文学』第48号では特集「琉球共和国へのかけ橋」が組まれた。企画趣旨は匿名座談会にて「復帰十年目をむかえる現在の状況の中で、単なる復帰十年の総括風のものをやっても意味があるとは思えない、そこで現在の否定的な状況に対置する一つのアンチテーゼとして、しからば“こうありたい”というような“願い”なり“思い”なりを膨らみのあるイメージの中で展開してみようというところから出発しています」と説明されている。
本号から編集長に就いた川満はここで「琉球共和社会憲法C私(試)案」を披露する。 その前文には「われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って「戦争放棄」「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法」と、それを遵守する国民に連帯を求め、最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあまりにも底浅く淡雪となって消えた。われわれはもうホトホトに愛想がつきた」とあり、「好戦国日本よ、好戦的日本国民と権力者共よ、好むところの道を行くがよい。もはやわれわれは人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない」と続く。ここには日本国憲法の平和主義への期待と失望が明快に記されており、それゆえに沖縄は日本から離脱せざるを得ないと謳われている。また、この憲法案について川満は「この座談会に出席したみなさんは、いわゆる未来社会において憲法とか、法律とか、あるいは国家とか、そういうものは必要なのかどうか、ということまで考えて欲しいのですよ」と問題提起を行っている。
本憲法案の特徴のひとつが、平和の希求ゆえに国家を棄捨する展望であろう。この点で国家としての独立を目指す沖縄独立論とは一線を画す。また、国家そのものを問い直すがゆえに、琉球の領域及びメンバーシップのあり方も根底から議論されている。この試みは日本国憲法の平和主義に依らない、沖縄独自の平和主義の確立と沖縄社会の創造を目指したものといえよう。本報告では今日的文脈において、本憲法案が有する意義を改めて論じてみたい。
参考文献
川満信一(1970)「沖縄における天皇制思想」谷川健一編『叢書わが沖縄第六巻 沖縄の思想』木耳社.
川満信一・仲里効編(2014)『琉球共和社会憲法の潜在力−群島・アジア・越境の思想』未来社.
小松寛(2015)「戦後沖縄と平和憲法」島袋純・阿部浩己編『沖縄が問う日本の安全保障』岩波書店.