日本平和学会2016年度秋季研究集会
報告レジュメ
入国管理のセキュリティ化の日本的特徴
東京外国語大学 世界言語社会教育センター
柏崎 正憲
キーワード: 入国管理、外国人政策、セキュリティ化、帝国日本
はじめに
冷戦後、セキュリティの観念が曖昧化し再定義を迫られるようになった一方で、移民を安全保障や治安の問題へと露骨に結びつける傾向が多くの国々で生じた。これに対応して、国際関係論や国際社会学の分野においてはセキュリティ化という概念が提唱され、移民のセキュリティ化についても研究成果が蓄積されている。ところで日本においても、1990年代以降、入国管理や外国人政策におけるセキュリティの言説の浸透が観察されるが、しかし次のような留意すべき違いもある。西洋諸国において移民のセキュリティ化は、狭義の治安のみならず、市民社会の統合、社会保障の維持、公的な価値観やナショナル・アイデンティティの保全といった、さまざまな次元に及ぶ「脅威」や「リスク」へと移民を結びつける傾向をともなっており、まさに包括的な「不安の政治」(politics of insecurity, cf. Huysmans 2006)の様相を呈している。その一方で、たしかに日本においても、入国管理政策における治安管理の理念の浸透が見られるものの、しかし西洋諸国のように全面的なセキュリティ化の展開には至っていない。このことが、日本の入国管理政策の特徴を示唆しているとすれば、その意味をどのように解するべきだろうか。
1.セキュリティの観念
セキュリティ化とは、ブザンらの理論的枠組(Buzan, Wæver and de Wilde 1998)に依拠するならば、ある政策上のイシューが通常の政治課題から緊急事態へと転化することを、また、ある課題をそのような差し迫った脅威として提示することを意味する。外交や軍事には限らず、経済、言語、文化、国内政治といったさまざまな次元の課題が、セキュリティ化の対象となりうる。このような理論的枠組によってブザンらは、伝統的な安全保障の観念が冷戦後に動揺し変化したことを問題にしている。しかしながら、冷戦の終結だけがセキュリティの観念に自明性を与えていた特権的な文脈ではない。日本の場合には東西冷戦の終結よりも、大日本帝国の敗戦にともなう体制転換期において、セキュリティの観念のもっとも大きな変化が起きたのではないか。これが本報告の仮説である。
2.1990年以降の入国管理におけるセキュリティの論理
国際移動の容易化・活発化および日本の経済大国化に促された新来外国人(いわゆるニューカマー)の増大を背景として、日本の入国管理体制は、1989年の「出入国管理および難民認定法」改定(翌年に施行)以降の断続的な再編過程のなかで、外国人への管理を強化してきた。この再編は、明石(2010)の研究によれば、入国管理当局の職業的関心の一方的な貫徹ではなく、省庁間および政官財の間における外国人労働者の受入をめぐる妥協を反映するものであり、その結果として、移民政策の公式の否認と、研修制度(1993年より技能実習制度)や日系人の定住というかたちによる非公式の外国人労働者の受入が、1990年代以降の基本路線となった。これに並行して進んだ、警察との連携による非正規滞在および就労への取締強化は、移民受入の否定という政策上の建前を維持するための試みと言える。
これを入国管理におけるセキュリティ言説の浸透として捉えることは可能かもしれない。1997年、1999年および2001年の法改定による管理強化(罰則新設、強制退去対象者の拡大、上陸拒否事由の整備など)、および2000年の第二次「出入国管理基本計画」をつうじて、たしかに非正規滞在者を治安上の潜在的リスクとして扱う姿勢がますます前面に押し出されている。さらに2000年代に入ると、2004年、2005年および2006年の法改定により、テロリズムや越境犯罪にたいする国際的監視への協力体制(入国審査における指紋採取と写真撮影、人身取引被害者への対応、等)も整備されていった。こうした度重なる法改定に、セキュリティの論理が入国管理政策にますます深く浸透していく過程を辿ることはできる。とはいえ、1990年代後半の法改定も、すでに1989年以降はじまっていたニューカマーへの取締強化の補完と言えるし、越境犯罪やテロへの対策を名目とした管理強化についても、国際的な趨勢への対応という感が強い。つまり、これらの法改定を、日本の入国管理体制そのものがセキュリティ上の差し迫った脅威に直面したことへの対応として捉えるのは難しいのである。むしろ潜在的脅威として外国人を疑い深く監視するまなざしは、度重なる法改正にもかかわらず、終始一貫しているように見えるし、それは統計上の数字に示される非正規滞在のたゆみない現象に表れている。
3.占領期における移民のセキュリティ化
日本において移民のセキュリティ化にもっともよく適合する過程は、占領期において生じたと見るのが、妥当ではないかと思われる。この時期に、日本国家は「望まれざる」移民としての旧植民地出身者、とくに在日朝鮮人を、国家体制にかかわる脅威として認識し、対処したからである。これに注目することで、戦後日本の入国管理体制が、まさにセキュリティ化の過程において、つまり、外国人の管理・統制能力を喪失することへの危機感とともに誕生したものであることを明らかにしうる。
(1)帝国内移民としての植民地出身者
まず確認しておくべきは、戦後の日本領土内に残ることになった旧植民地出身者(朝鮮人、台湾人)の法的地位についてである。1947年の外国人登録令による「みなし外国人」規定と、1952年のサンフランシスコ条約発効にともなう「国籍離脱」の措置によって、在日朝鮮人および台湾人の地位が「帝国臣民から外国人へ」と変更されたことが、日本国籍者としての権利剥奪として問題とされることがあるが、実際には帝国臣民だった頃にも、朝鮮人や台湾人の身分は戸籍によって内地出身者とは区別され、その渡航の権利も制限されていた。帝国期、失業のため内地に移動した朝鮮人は内務省および警察の厳しい監視下に置かれ、密航者や当局が治安上好ましくないと見なした者は朝鮮に送還された(外村2013)。したがって日本敗戦による植民地解放は、そのような劣位の存在として在日朝鮮人を扱うことの終わりをも意味するはずであり、それゆえに占領期の在日朝鮮人団体は外国人すなわち解放国民としての正当な待遇を当局に要求したのだった(鄭2013)。逆に日本国家による「みなし外国人」以降の処遇は、かつての帝国内移民の権利を以前と同様に制限したうえで、領土から極力追放する試みであった。
(2)治安政策としての帝国内移民の送還
もちろん占領期に日本領土の内外の移動を管理していたのはGHQ/SCAPであり、1951年の出入国管理令もまた米国移民法の専門家の関与により立案されたものである。しかしながらGHQ/SCAPは、占領期における朝鮮人の日本列島への移動の取締に協力し、出入国管理令においては官僚の広範な自由裁量権を認め、在日朝鮮人の法的地位の問題には不干渉の態度をとった(モーリス=スズキ2005)。こうした点で、戦後日本が国内の旧植民地出身者にたいする厳格な統制を敷くことを、GHQ/SCAPは大筋で助けたと言える。
日本の政府・官僚の旧植民地出身者にたいする態度は、敗戦後まもなく在日朝鮮人の労働争議や帰還の要求が強まったことを受け、なるべく早く送還を進める方向に固まった。それだけではなく、この送還そのものを政府は占領期日本の喫緊の治安政策として推進した。このような経緯の延長線上において、再渡航の取締、外国人登録令、出入国管理庁の設置にいたる過程を分析する。
参考文献
明石純一(2010)『入国管理政策 「1990年体制」の成立と展開』ナカニシヤ出版
大沼保昭(1993)『新版 単一民族社会の神話を超えて』東信堂
鄭栄桓(2013)『朝鮮独立への隘路 在日朝鮮人の解放五年史』名古屋大学出版会
外村大(2013)「日本帝国と朝鮮人の移動 議論と政策」、蘭信三編著『帝国以後の人の移動』勉誠出版
モーリス=スズキ、テッサ(2005)「戦後日本の出入国管理と外国人政策」、有末賢・関根政美編『戦後日本の社会と市民意識』慶應義塾大学出版会
Buzan, Barry, Ole Wæver and Jaap de Wilde (1998), Security: A New Framework for Analysis, Lynne Rienner.
Huysmans, Jef (2006), Politics of Insecurity: Fear, Migration and Asylum in the EU, Routledge.