日本平和学会2016年度春季研究大会
報告レジュメ
対「イスラーム国」戦争を巡る「誰が愛国者か」の議論
――イラクにおける宗派対立――
千葉大学
法政経学部
酒井 啓子
キーワード:イラク、「イスラーム国」、宗派主義、アラブ民族主義、排除
1.はじめに
中東は現在、激しい「宗派対立」の波に覆われている。2016年一月のサウディアラビアによるイランとの断交は、その「宗派対立」が国家間対立として具現化した例といえよう。同時に、「イスラーム国」によるシリア、イラクの一部地域の制圧と、それを巡る武力紛争もまた、他宗派に対する激しい暴力的攻撃の連続を表している。
中東における宗派を巡る対立は、従来もしばしば政治紛争の背景に置かれてきたが、それが前景に出現し、「宗派対立」として明示化されたのは、近年になってのことである。直接的な出発点となったのはイラク戦争(2003年)であるが、とりわけ「イスラーム国」(IS)のイラクへの領域拡大(2014年6月)以降に顕在化している「宗派対立」の最大の特徴は、「タクフィール(異教徒視)主義」という、ヘイトともいえる他者攻撃である。
本報告の問題意識は、なぜ近年の「宗派対立」がこのようなヘイト的宗派主義に転換したのか、にある。
そもそも、イラク戦争で「宗派対立」認識が出現した、とみなす議論においては、戦後の宗派意識の覚醒は、どのように説明されてきたのか。まず第一に主張されるのが、(1) イラク戦争に際して米英が宗派別の政治権力配分システムを導入した、という点である。つまり、ここで初めて、宗派をエスニシティ視して、戦後の統治システムにエスニック・コンシャスな分権的発想が取り入れられた。そのことが、宗派意識と政治抗争を結び付け、権力対立としての宗派対立が出現した。
さらに、イラク戦争後に宗派対立が惹起された原因として、(2) 旧政権排除・弾圧の対象がスンナ派地域住民に集中したことで、同地域社会、すなわちスンナ派社会の間に剥奪感が蔓延したことがある。
こうしたイラク戦争後からIS登場までの「宗派対立」は、しかしながら政策によって解消可能なものであった。というのは、(1) の場合は利益・権力を、宗派を含めたエスニシティごとの配分によって、対立関係を調整可能だからである。そして(2)の場合は、「イラク国民として平等」との国民意識の定着を徹底化するとともに、国民の間に存在する社会経済的格差を政策によって解消することで、克服可能だからである。
しかし、今中東が直面しているヘイト的宗派主義は、上記の(1)でも(2)でもない、相手の殲滅を目的とする、調整不能な「宗派対立」である。問題は、なぜイラクで「調整可能」だったはずの「宗派対立」が調整不能な殲滅目的の宗派対立に転換したのか、そしてそれはどの時点でのことなのか、である。
2. 宗派主義の登場: 2004年イラク統一同盟の成立とサドル潮流の合流
イラクにおいて、ヘイト的宗派主義が最も如実に噴出したのが、2つの期間においてである。一つ目は2006-7年のイラク内戦期の宗派対立であり、2014年6月以降のISによるイラクのスンナ派地域の制圧による宗派対立の激化である。第一の内戦期は、2005年の制憲議会選挙、憲法制定の国民投票、第一回国民議会投票、の結果を経て、2006年5月に、シーア派の統一会派である「イラク統一同盟」を与党としてイラク人による正式政権が成立した。そのことが、宗派意識に基づく政治ブロックの成立として、その後のシーア派政治家による戦後政治における権力独占を招いた、としばしば指摘されるが、ここでシーア派ブロックの成立にとって重要な要素となったのが、サドル潮流(tayyar al-Sadr)であった。
サドル潮流は、前政権に殺害されたシーア派宗教権威を父とするムクタダ・サドルを指導者として、シーア派の貧困層、青年層に支持を受け、戦後のイラクで圧倒的な国内的支持基盤を誇る政治勢力である。他のシーア派イスラーム主義政党の多くがイラン、イギリス、シリアなどでの亡命生活から帰国してイラク国内での政治活動を開始・ないし再開したのに対して、前政権時代から国内で反体制活動を展開してきた、ごくわずかな勢力の一つである。そのため、2004年夏までは、彼らの政敵は専ら他のシーア派政治組織の亡命組であった。また、国内組としてのスタンスから徹底した反米主義を貫いたため、そのことでもイラク戦争を利用して戦後のイラク政治で影響力を確保した亡命組と対立したと同時に、同様に反米抵抗運動を繰り広げるスンナ派諸勢力とも共闘姿勢を示した。すなわち、サドル潮流の政治的志向性は、宗派を基軸としたものではなく、反米ナショナリストという脱宗教・宗派的なものだったのである。
それが転換されるのが、2004年夏に発生したナジャフにおけるサドル潮流の武装勢力とイラク政府および駐イラク米軍の一触即発状態である。シーア派聖地のナジャフにおける影響力確保を巡り、伝統的宗教権威に挑戦するサドル潮流は、ナジャフに立てこもるようにしてそれを包囲する米・政府軍と対立したが、最終的に宗教権威であるアリー・アルスィスターニーの権威を尊重するという形で、サドル潮流は矛を収めた。その後、2005年1月に実施が予定された制憲議会選挙にむけて、政党ブロックの形成を模索するなか、ダアワ党やイラク・イスラーム最高指導評議会(ISCI、当時はSCIRI)は「シーア派」の分裂を防ぐべしとのスィスターニーの要請を受けて、シーア派イスラーム主義諸政党による選挙ブロック、イラク統一同盟を形成した。そこに、サドル潮流を組み込むことに成功したのである。
ここに、国内基盤を持つ反米ナショナリスト政党として超宗派的政治志向を持っていたサドル潮流は、「シーア派政党」の一部へと変質したのである。換言すれば、スンナ派の反米抵抗運動が超宗派的志向から取り残されて、スンナ派として暴力行動を含む抵抗運動を、独自に追求することとなった。
3.「イスラーム国」(IS)に対する対応を巡るヘイト的宗派主義の出現
スンナ派の戦後抵抗運動が対米反感、戦後のスンナ派地域に対する不公平感から展開されてきたことは、イラク戦争後の宗派対立を説明づける主要な論点を形成した。すなわち、戦後政権は米軍のイラク支配を容認して成立したものであり、その統治ツールとして導入されたのが宗派分断政策で、スンナ派住民の居住地域が旧体制派との責めを受けて迫害、辺境化された、との認識である。この認識は、イラク国内のスンナ派に支持基盤を確立した諸政党(イラク・イスラーム党やイラク対話戦線、ハドバ党など)の間でも共有されるとともに、主としてアラブ民族主義系のアラブ・メディアや知識人の間で、広く定着した。
その意味で、イラクにおける宗派主義台頭の第二の契機であるISの台頭とそれに対するイラク政府の対応(2014年から現在に至る)は、こうしたコンベンショナルな宗派対立認識から、さらに新たな次元での宗派対立の枠組みを生み出すこととなった。
2014年6月、ISがモースルを制圧し、その後サラッディーン県、アンバール県などイラク中西部のスンナ派住民地域に進撃した際、これに対峙するイラク軍のほとんどが十分な抵抗を見せず、ほぼ敗走の形で層崩れした。このことは、戦後イラクで形成されたイラク国軍の国民防衛の意識の低さを示したとともに、制圧されたスンナ派地域住民の、イラク国軍に対する信頼の欠如、ひいてはISに対する抵抗感のなさが指摘される契機となった。
すなわち、IS進撃当初は、上記の認識枠組みに基づき、ISは「戦後政権は米軍のイラク支配を容認して成立したものであり、その統治ツールとして導入されたのが宗派分断政策で、スンナ派住民の居住地域が旧体制派との責めを受けて迫害、辺境化された」ことに対する抵抗運動の一部として見なされがちであった。少なくとも、ISと一時期共闘していた旧バアス党系世俗組織に対する認識は、そのようなものであった。よって、多くのアラブ・メディアやトルコ・メディアは、ISの進撃をイラクのマーリキー政権の独裁化、スンナ派地域反乱に対する対応の失敗などに起因して発生した出来事、とみなした。
さらに、このイラク国軍の崩壊を前に、イラク政府およびシーア派宗教界は、国民に対IS義勇兵を募って対応したが、とりわけ宗教界が率先して国土防衛を呼びかけたことが、ナショナリズムというよりシーア派擁護的とみなされた。これに対しては、当座の反応としてはどちらかといえばそのシーア派という宗派性というより宗教性を問題視するものが多く、これもまた、従来のアラブ知識界における世俗的論壇を反映した批判といえる。ここでの対立点は、宗派というよりむしろ外国軍の支配に抵抗するアラブの「革命」運動と、その障害となる宗教勢力、という、古典的な近代化論をベースにしている。
ジャズィーラ報道が実施した世論調査で、回答の83%が(2014年のイラクで)「今起きていることは革命」である、としたという事実は、そのことを如実に表している。
加えて、ISの出現に米国の失策ないし「意図」を見る論点も少なくない。サウジ紙では「スンナ派を弾圧してシーア派を増長させたのは米国である」「米国はシーア派の民兵起用には寛容だがスンナ派民兵には厳しい」といった論評がしばしば主張された。
最後に顕著な点は、イランの関与とイラク現政権の「イランの手先」視である。「マーリキーはイラク国軍をイラン[カーシム・スライマーニ]が指揮する部隊に変えようとしている、イランがシーア派聖地を守っている」という2014年 6月時点でのエジプト紙の記述から明らかであるように、宗派という対立項よりむしろイラン対アラブといった伝統的なアラブ民族主義論調が持ち出す議論を前提に、マーリキー政権の対イラン依存を批判する姿勢が目立つ。
興味高いのは、米国とイランを「外国からの介入」という点で同位置におき、米とイランによる結託が反スンナ派政策に見られる、との指摘が出現していることである。ここに、シーア派=外国(イラン、そして米国)と結託してアラブの一体性を掘り崩す者、という、一部のアラブ民族主義思想のなかにある排外的ナショナリズムの変型を見ることができよう。それは、一種1950年代以降、アラブ民族主義思想のなかに出現した「シュウビーヤshu`ubiya」という概念に極めて類似している。
シュウビーヤとは、「初期イスラーム共同体においてアラブ民族の優越的地位を認めない運動」である。アラブ民族主義政党であるバアス党は、50年代には「シュウビーヤ」を「アラビズムのなかの外国の影響」と定義して、当時最大の政敵であったイラク共産党を糾弾する用語として使用した。ここで再生された「シュウビーヤ」概念は、アラブ民族主義政党の政敵追い落としを目的とした「政敵」を名指しするための用語だった。バアス党は、70年代半ばになると、シュウビーヤ批判の対象をそれまでの共産党から非アラブたる「ペルシア民族」に切り替え、人種主義的な様相を強めたが、ここでシーア派のなかのペルシア系住民が、「非アラブ」としてアラブのなかに巣食い、イラクのアラブ性を堀崩すとの主張を展開したのである。
そのようにみれば、現在の宗派対立は、「宗派」という側面からは新しい現象であるが、それが一種のアラブ民族主義政治思想の変型であり、「シュウビーヤ」批判で見られたような、政治的イデオロギーの対立を宗派・民族対立に落とし込もうとする工作であるといえよう。
しかしながら、IS進撃後の「宗派対立」の構造のなかに、新たな局面を見て取ることができる。その一つは、宗派対立の本質主義的歴史認識が剥き出しの形で噴出することである。たとえば、ISに制圧されていたティクリートが、イラク軍(その多くが「人民動員機構」と名付けられたシーア派義勇兵)によって解放されたとき(2015年5月)、トルコ紙は「オスマン[帝国]の都市がイランの支配下に入った」「トルコはその国境をイラン人兵士に譲歩した」など、歴史的な史実を引いて行動を正当化する視点が見られる。
第二は、激しい侮蔑、ヘイト的表現が蔓延するようになったことである。上述した世俗的アラブ民族主義知識人のロジックは、剥き出しの他宗派蔑視を避けた、ナショナリズムの文脈のなかで組み立てられたものであった。しかし、2014年以降の宗派意識には、他宗派から自宗派が受けた暴力の残酷性を過度に強調するなど、激しい表現が多用されるようになっている。特にそうした表現の過激化は、ツイッターやフェースブックなど、汎アラブ的に広範囲に展開できる意見表明の場のなかで交わされる、ハッシュタグなどのフレーズにおいて如実である。2014年以降、#ShiaMilitiaDiditや#IraqiSunniClaim、#Sunni_immolated_and_cut_with_swordなどのハッシュタグが頻繁に流布したのは、その一例である。
第三に指摘できることは、他宗派社会の社会的集団行動に強い「宗派性」を見て、そのシンボルに対する不快感が露骨に表されることである。たとえば、2015年五月にイラク政府がイラク西部の都市ラマーディへの奪回作戦を繰り返しつつも実現できなかった時期、そこに起用された人民動員機構が「宗派主義的スローガン」を多用したことで、スンナ派住民の強い反発を受けた。
このように、IS進撃以降、イラクにおける宗派意識に関しては、超宗派的政治調整や論理の組立替が行い得ないような形の非難の応酬が続くようになった、ということがいえる。それはイラク・ネイションをどちらの宗派が「代表」するか、という国民統合のシンボルの問題へと変質したのである。
参考文献
酒井啓子 [2015]「イラクの宗派問題――その国内要因と国外要因」、大串和雄編『21世紀の政治と暴力-グローバル化、民主主義、アイデンティティ』、19-45頁、晃洋書房.
----- [2001]「イラク・アラブ民族主義思想における宗派主義とそれへの批判」酒井編『民族主義とイスラーム』研究叢書No.514、アジア経済研究所、pp.33-68
al-Safwani, S. [1954] Hadhihi al-shu‘ubiya; buhuth wa rudud fil-qadaya al-qawmiya, nadi al-Ba‘th al-‘arabi, Baghdad: Nadi al-Ba‘th al-‘Arabi
保坂修司 [2014]「イスラーム国とアルカーイダ」吉岡明子・山尾 大(編)『「イスラーム国」の脅威とイラク』,岩波書店pp. 203-246