松潘空襲をめぐる記憶の継承

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松潘空襲(1941年6月23日)をめぐる「記憶の継承」

                   内田知行(UCHIDA Tomoyuki) 大東文化大学

 

はじめに

 本報告は、日中戦争の中期にあたる1941年6月23日に松潘で起きた日本軍空襲の史実と「記憶の継承」について考えてみる。松潘は四川省西北の山岳地帯の谷間にある小県城である。郊外区を含んだ当時の人口は2.7万人で、今も漢族、回族(イスラム教徒)、藏族(チベット族)や羌族(チャン族)が居住する、多民族多文化の小都市である。松潘では、この空襲で少なくとも約400人の死者、約1000人の負傷者がでたという。

 本報告では、「記憶の継承」という問題を考えてみる。筆者はこの数年、重慶・四川省にたいする日本軍の空襲被害者の裁判に歴史研究者の立場からボランティアとして関わってきた。空襲被害者=原告は、概ね戦時首都であった重慶市、現在の四川省省都成都市、同じく四川省の地方都市である楽山市、自貢市および松潘県に居住して原告団を構成している。これまでに数回、裁判を指導する原告側弁護士とともにこれらの都市を訪問する機会を得た。これらの経験をふまえて「記憶の継承」(被害の語り継ぎ)について考えてみる。

 

 本報告は、以下の手順で行なわれる。

第一  松潘空襲はどのように記録されてきたのか

1  日本人は松潘空襲をどのように記録しているか

2  中国人は松潘空襲をどのように記録しているか

第二  松潘空襲による死者数の推定作業とそのための現存史料について

第三  「李継淵=漢奸」説の発生と消滅について

第四  被害者の救助活動と「袍哥」(哥老会)の役割について

1  「善後処理委員会」の設立

2  「松潘慈善会」(同善社)の空襲時被害者救助活動

3  「松潘慈善会」(「同善社」)と「大同公社」(「袍哥」)

4  回族による被害者救助活動

第五  漳腊飛行場の軍事的役割をめぐる日本軍の評価について

1  金鉱の街・漳腊郷

2  漳腊[臘]飛行場は民用飛行場

第六  ソ連対華援助物資の輸送ルートにおける松潘の位置について

1  航空燃料を駄運したヤクの隊列について

2  ソ連対華援助物資輸送の「裏街道」としての漳腊・松潘ルート

 

まとめ

 (一) 松潘空襲の記録が、日本側・中国側ではどのように記録されてきたのか、という問題を考察した。空襲の意図と目標については、筆者は「誤認説」(松潘を漳腊に誤認して爆撃したという説)ではなくて、「計画的空襲説」の変種としての「空爆目標変更説」をとる。それは、空襲の前後に実行された計3回の「松潘偵察」飛行にもとづく。1941年6月12日、23日、8月31日の偵察飛行から推測されることは、松潘攻撃の主要な動機は「松潘飛行場」(漳腊飛行場)攻撃であった、ということである。もしも飛行場が有効に使われていたならば、飛行場が最初の空襲目標になっただけではなく、松潘県城攻撃も1度ではすまなかったのではないか、と推測する。

 (二) 2種類の現存史料を吟味して、松潘空襲による死者数を推定した。筆者は2種類の史料に記載されている被害者(死亡者)姓名をクロスチェックし、重複する姓名の人数を控除して、今日の時点におけるミニマムな死亡者実数を347人と算出した。また、県城全体の推定死者数を722人と算出した。

 (三) 空襲にともなって流布された有名なデマともいうべき「李継淵=漢奸」伝説について検討した。この「伝説」は、人びとの「記憶の継承」が再生され相互チェックをうけて、2010年以降に「記憶の記録化」が進められるまでの長期にわたって流布され続けた。専門家の参加があったならば、「記憶の修正、それにもとづく記憶の記録化」がもっと早くに実現したであろう、というのが筆者の見解である。

 (四) 被害者の救助活動をめぐる記憶の記録化が困難であった理由について考察した。「松潘慈善会」(同善社)が積極的に空襲被害者の救援に従事したが、「同善社」と「大同公社」(袍哥組織)とは表裏一体の組織であり、実際は人的なネットワークを有する「大同公社」が大きな力を発揮したことを示した。当地の研究者による唯一の著作ともいうべき張翔里編(2012)には、「袍哥」による救助活動の史実は記述されていない。これは、「袍哥」が共和国建国後において反動的民間団体として認定されたからであろう。そして、それがまた、客観的な「記憶の再生」「記憶の記録化」を困難ならしめた大きな障碍になっている、と思われる。

 (五) 漳腊飛行場の軍事的役割をめぐる日本軍の評価について考察した。抗戦当時、漳腊飛行場は軍用飛行場としては利用されていなかった。しかし、空襲前後の1941年6月12日と8月31日に日本軍機が飛行場を偵察飛行したことからみて、日本軍は1941年当時の漳腊飛行場の軍事的役割を過大評価していたのではないか、と推定した。

 (六) ソ連対華援助物資の輸送ルートにおける松潘の位置について考察した。1941年当時に県城から県南部まで川船が運航していたかどうかは不詳であるが、岷江にそった駄運の道を利用することは当時も可能だった。甘粛から四川への幹線ルートは、1941年にソ連の対華援助活動のピークを迎えていたから、「裏街道」を利用した援助物資の振り分け輸送は必要だった。日本軍機が漳腊・松潘を偵察し、同地を空襲する意図をもっていたのは、以上の可能性を想定していたからではないか、と筆者は推定した。