73.民族差別・他民族蔑視とアジア太平洋戦争はどのような関係にあったのでしょうか。

 「アジア解放の聖戦」――これはアジア・太平洋戦争の時に強調されたスローガンです。南方へ軍隊をすすめようとした日本は、欧米の植民地支配に苦しむアジアを「解放」すると宣伝しました。

 真珠湾攻撃のニュースは、中国侵略以来、国内に漂っていた重苦しい空気を吹き飛ばし、連戦連勝のニュースに子どもたちは「勝ち戦病」になったと言います。欧米への劣等感から解き放たれ、「解放」してやるアジアへの優越意識が人びとの間に醸成されていきました。吉川英治、高村光太郎、武者小路実篤なども「聖戦」を讃える文章を書いています。軍歌(暁に祈る)にも「あげる興亜のこの凱歌〜」との歌詞があります。

 「アジア解放」という時、自国の植民地支配をどのように考えていたのでしょうか。日本は実際には、台湾や朝鮮を解放するどころか、住民を軍隊に動員しています。軍人・軍属になった台湾人と朝鮮人は政府発表だけでも44万9,524人いました。中には特攻隊で戦死したり、戦争犯罪人として刑死した朝鮮人、台湾人もいました。

 植民地出身者は連合国の軍隊にもいました。日本が戦ったのは英印軍(イギリスとインド人)、米比軍(アメリカ人とフィリピン人)でした。日本の南進の目的だった石油資源をもつインドネシアでは、蘭印軍(オランダ人とインドネシア人)を中心にした極東地域連合軍(ABDA軍the joint American-British-Dutch-Australian Army)と戦いました。

 日本軍は当初、占領した東南アジアで、スローガンを信じた住民から歓迎されました。しかし、住民の心はコメなどを強制供出させたり、防衛のために住民をかり出したりする中で、次第に日本軍から離れていきました。インドネシアには今でも「ロームシャ」(労務者)という言葉が残っています。アジアのモノとヒトを日本の戦争に動員しようという占領に対して、フィリピンやインドネシアでは反日運動、抗日運動が起きました。しかし、「宣伝」に躍った日本国内では、こうした実態をほとんど知らされないまま敗戦を迎えました。

 アジア・太平洋戦争は、帝国の本国兵と植民地兵で編成された軍隊が、アジアを戦場に

闘った戦争です。当然、アジアの人びとの中に死傷者がでました。戦後、国によっても異なりますが、アメリカ、イギリスでは年金や一時金が支給される一方で、日本は朝鮮人や台湾人を支給の対象にしませんでした。日本国籍がなくなったという理由からです。2000年に特別立法で一時金として「弔慰金」を支給したこともありますが「時限立法」でした。日本の戦争に動員され援護体制から排除され差別されてきた旧植民地の人びとは、現在も補償を要求しています。(内海愛子)

 

参考文献

アメリカ合衆国戦時民間人再定住・抑留に関する委員会編 読売新聞社外報部訳 『拒否された個人の正義―日系米人強制収容の記録』三省堂、 1983年。

War without Mercy: Race and Power in the Pacific War, (Faber and Faber, 1986) 斎藤元一訳『容赦なき戦争――太平洋戦争における人種差別』(平凡社〈平凡社ライブラリー〉, 2001年)

内海愛子『戦後補償から考える日本とアジア』山川出版社、2012年改訂版。