日本の安全保障について論じる際に、しばしば「抑止力」という言葉が使われます。たとえば安倍内閣は、集団的自衛権の行使容認を含む安保法制の意義について、中国や北朝鮮を念頭に置きつつ、「日米同盟が完全に機能すると示すことで抑止力が高まり、日本が攻撃を受ける可能性は一層なくなる」と論じています。また、日本政府は沖縄に駐留する米国の海兵隊について、日本及び極東の平和と安全を維持するために必要な抑止力になっていると主張し、これを普天間飛行場県内移設の理由として挙げてきました。
このように国家の安全保障に関連して使われる「抑止(deterrence)」という概念は、一般的に言えば、威嚇によって自国の平和と安全を脅かす行為、具体的には自国に対する武力攻撃を他の国家・非国家主体にさせないようにすることを意味します。そして「抑止力(deterrent)」は、そのような行為を抑止相手が行った場合に、抑止相手に懲罰を与えたり、その目標の達成を阻んだりする報復力、具体的には自国及び同盟相手国の軍事力を指します。抑止の本質は、報復の威嚇によって抑止相手の認識に働きかけ、恐怖や不安を抱かせることで、その目的を達成しようとする点にあるといえます。国家安全保障のための抑止政策とは、報復力に基づく威嚇政策にほかなりません。
では、報復力によって威嚇すれば、常に抑止に成功するかといえば、事はそう単純ではありません。抑止国と抑止相手の間で抑止が成立するために必要な条件があります。それは、①抑止国が威嚇を実行する能力(報復力)を持つこと、②抑止国が報復の意志を抑止相手に明示すること、③抑止相手が抑止国の報復の意志を認識し、理性的に行動することです。したがって、いかに強大な抑止力を抑止国が有していても、報復の意志が抑止相手に認識されない場合や、威嚇に対して抑止相手が理性的に対応しない場合、抑止に失敗することがあり得ます。抑止力を強化したからといって、抑止国が武力攻撃を受ける可能性が低下するとは一概には言えません。
それどころか、抑止力の強化によって抑止国の安全が損なわれる可能性もあります。そもそも抑止政策は、抑止国と抑止相手の相互不信を前提にした威嚇政策です。それゆえに抑止国と抑止相手は、いわゆる「安全保障のディレンマ(security dilemma)」に陥りやすい関係にあるともいえます。「安全保障のディレンマ」は、国家は自国の安全保障を追求せざるを得ないが、自国の安全のためにとった政策や行動が、他国に不安を与え、その国がとった政策や行動が、自国の安全に対する不安を生むというディレンマから逃れられないことを指摘する概念であり、抑止国が抑止力を強化することで、抑止国に対する抑止相手の不信感を強め、抑止相手の対応によって、かえって抑止国の安全が損なわれる可能性があることを教えてくれます。
日本の安全保障の観点から安保法制について議論する際、安保法制がいかなる意味で抑止力の強化につながるのか、それは日本の平和と安全にとって望ましい結果をもたらすか、それ以外に日本がとりうる方策はないか、といった問題について慎重かつ冷静に検討する必要があります。(黒崎 輝)
参考文献
植木千可子『平和のための戦争論』筑摩書房、2015年。
遠藤誠治、遠藤乾編『安全保障とは何か』岩波書店、2014年。
遠藤誠治編『日米安保と自衛隊』岩波書店、2015年。