5.戦後日米関係の中で沖縄は何だったのでしょうか。

第二次世界大戦時、沖縄戦での米軍の死者数は約12,000人に上り、これは対日戦で最大の犠牲となりました。米軍はこの代償として沖縄を占領、軍事拠点にしました。普天間飛行場はこの時期に造られています。

終戦後、GHQによる日本の非軍事化政策でも沖縄は重要な役割を担っていました。マッカーサーは沖縄を「自然の国境」と見定め、憲法9条により非武装化された日本の軍事的安全保障を補うのが沖縄だと考えました。昭和天皇も米軍による沖縄の長期占領を望んでいました。つまり、憲法9条と沖縄の軍事要塞化はコインの表裏の関係にあったわけです。

1950年中頃、朝鮮戦争の休戦に伴い、米軍は極東における軍隊の再配置を迫られます。日本では砂川闘争など反基地運動が展開されていました。そこで沖縄に新基地を建設し、日本本土から海兵隊を移駐します。これにより日本と沖縄における米軍基地の比率は約9:1から5:5となります(後に日本本土の米軍基地は整理縮小され、現在の比率は1:3です)。この時期に辺野古のキャンプ・シュワブ(普天間飛行場代替基地建設予定地)が建設されました。

1960年代に入ると沖縄では日本復帰運動が高まります。その目的は平和憲法である日本国憲法に帰属することで、人権を回復し米軍基地を撤去することにありました。60年代後半、日米両政府は沖縄返還交渉に着手します。敗戦による荒廃から高度経済成長を成し遂げ先進国の仲間入りを果たした日本にとって、沖縄返還は次なるナショナル・プライド充足の手段でした。ベトナム戦争を抱えていた米国は、日本・沖縄から高まる返還要求に応えつつ、基地機能を維持することに注力しました。69年に沖縄返還が決定しますが、その裏では有事の際に沖縄への核兵器持込を認める密約が結ばれました。

沖縄返還後は、過度に集中した在沖米軍基地の整理縮小が日米間で協議されました。しかし、沖縄からの米軍撤退は日本の安全保障上不利益になると日本政府は考え、基地を維持するよう米国に要請しました。そして円高による駐留費用増加や対日貿易赤字により日本への不満が高まっていた米国は、日本へさらなる駐留経費の負担を要求、これが「思いやり予算」となります。

このように在日米軍基地はアメリカにとって比較的割安で維持できる海外基地であり、沖縄は日本防衛よりむしろグローバルな軍事戦略の要所となっています。他方で日本政府は、米国による日本の防衛を確保するため、米軍を沖縄に引き留め続ける必要があると考えてきました。戦後日米関係の中で、政治的思惑から軍事基地が集積した場所が沖縄だったということです。(小松 寛)

 

小松寛「戦後沖縄と平和憲法」島袋純・阿部浩己編著『沖縄が問う日本の安全保障』(岩波書店、2015年)

中島琢磨『高度成長と沖縄返還』(吉川弘文館、2012年)

野添文彬「沖縄米軍基地の整理縮小をめぐる日米協議1970-1974年」『国際安全保障』(第41巻第2号、2013年)

野添文彬「「思いやり予算」と日米関係1977-1978年」『沖縄法学』(第43号、2014年)