歴史が書きかえられるとき ──二国家解決の幻想とイスラエル左派の瓦解

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日本平和学会 2015 年度春季研究大会 報告レジュメ

               歴史が書きかえられるとき
          ──二国家解決の幻想とイスラエル左派の瓦解――

日本学術振興会 RPD 金城 美幸

キーワード:パレスチナ/イスラエル紛争、民族、国家、オスロ合意、歴史記述、歴史の修正

1.はじめに

長きにわたるパレスチナ/イスラエル紛争において、1993 年に締結されたオスロ合意1および 以降の和平プロセス(~2000 年)は一つの歴史的画期を成す。この点は、以下に述べるような オスロ合意に関して相対立する 2 つの点から立場においても、そのように理解されている。一 方の立場は、和平交渉の当事者やそれを積極的に推し進めようとするアクターに共通して見られ る立場である。和平交渉の当事者たちは、オスロ合意では両社会の代表が「土地と平和の交換」 を原則とする「二国家解決」に合意したとし、これを和平に至る唯一の道と見なしている。もう 一方の立場とは、オスロ合意そのものをシオニズム運動の延長線上におき、これをパレスチナ社 会を崩壊させるプログラムとみて、以降の和平プロセスからの離脱を唱える。

2013 年、オスロ合意は締結から 20 周年を迎えた。これに際して現地のイスラエルと被占領 地パレスチナでは多くの学術集会が開催され、オスロ合意を再考する機運が生まれていた。現在、 その成果が刊行されつつあるなかで、パレスチナ人知識人からは上に述べた第 2 の立場からの 批判が多くの共感を得つつある。

本報告の議論の要旨は 3 点である。第 1 に、こうした近年のパレスチナ人研究者から発され たオスロ合意への批判をふまえ、オスロ合意を「反・二国家解決」として説明する。第 2 に、 本質的には「反・二国家解決」であるはずのオスロ合意を「二国家解決」として説明するイスラ エル政府の言説によって、「民族」「国家」「主権」など、政治状況を把握するための基礎概念が 換骨奪胎されていった過程を確認する。第 3 に、オスロ合意の帰結としてイスラエル社会に登 場した新たな言説が、イスラエルの「左派」サークルの筆頭と見なされてきた歴史家たちの言説 にも影響を落し、結果、交渉が決裂した 2000 年以降、パレスチナ人に関する歴史が書きかえら れていった一連の過程を検討する。

1 1993 年、イスラエル首相イツハク・ラビンとパレスチナ解放機構(以下、PLO)ヤーセル・ アラファート議長との間で締結された和平合意。この合意においてイスラエルと PLO は「相互 承認」を行い、1967 年以降イスラエルが占領してきたヨルダン川西岸地区、ガザ地区の一部に おける 5 年間パレスチナ暫定自治と、最終地位交渉の開催を決定した。

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2.先行研究より――「反・二国家解決」としてのオスロ合意

オスロ和平プロセスが「二国家解決案」に基づくという点については、イスラエルと PLO の 交渉当事者たちの間で一定の了解があり、国際社会もそのようにオスロ・プロセスを理解してき た。この「二国家解決案」としてのオスロ・プロセスの理解では、両社会の指導者たちの統治能 力、すなわち和平反対派の抑圧・排除によって二国家の設立が可能とみている。それゆえ、この 立場では和平の失敗は相手方の指導部の「約束不履行」や「不誠実な態度」に起因するものと見 なされ、オスロ・プロセスの枠組み自体は問いに付されない。

これに対して、パレスチナ人からはオスロ・プロセスそのものの枠組みへの批判が合意締結の 当初より投げかけられていた。その筆頭が在米パレスチナ人エドワード・サイード(Said 2001) である。ただし日本でも紹介の多い彼の議論のベクトルは、イスラエルの建国イデオロギーであ ったシオニズムの克服とその歴史的不正義の回復という点に向けられ、あくまでもシオニズムの 延長線上にある問題の一つとしてオスロ・プロセスをみている。それゆえ、オスロ・プロセスが パレスチナ人の政治社会環境を一転させるような転換とは必ずしも位置づけられてはいない。他 方、サイード亡きあとコロンビア大学に着任した在米パレスチナ人歴史家ラシード・ハーリディ ー(Khalidi 2013)は、オスロ・プロセスが「二国家解決案」として理解されることによる認識上 の弊害を鋭く捉え、その後の和平言説における「言語の腐敗」の問題を詳述した。

3.「二国家解決案」としての読み替え――民族、主権、国家概念の限定

報告者は上のハーリディーの議論を展開して、シオニズム運動の対パレスチナ人政策の歴史 的変遷の中にオスロ合意を位置付けて再考し、オスロ合意を「反・二国家解決案」として定式化 することを試みてきた(金城 2015)。そこでは以下の問いを立てている。本来は「反・二国家 解決」であるはずの枠組みが、なぜ「二国家解決」として読み替えられたのか。そのからくりと は、和平プロセスを通して「民族」、「国家」、「主権」といった政治的地位を説明する基礎概念が 歪曲され、その承認をパレスチナ人の「正統な代表」たる PLO に迫ってきたためであった。

シオニズム運動以来、イスラエル政府の公式見解では先住者は「パレスチナに住むアラブ人」 であり、「パレスチナ人」という民族的主体性は否定されてきた。PLO についても「テロリスト 組織」と認定しイスラエル市民には接触を禁じてきた。この点からすれば、PLO を「パレスチ ナ民族の正統な代表」と認めたオスロ合意は極めて画期的である。ただし、それはイスラエルに

、、、

よる「パレスチナ民族」という定義の押し付けだったと言えよう。オスロ合意の枠組みを認める 、、

限りは、「パレスチナ民族」の構成員としてそのプロセスに参加できる。結果、このオスロ合意 の枠組みを認めない個人・集団は、「テロリスト」として弾圧・封殺の対象となった。

オスロ合意の内実についての理解を曇らせたのは、何よりもオスロ・プロセスにおいて実践さ れた「引き算論法」とも呼べる論法である。オスロ・プロセスでは過去の和平交渉においてパレ スチナ人交渉団が要求し、イスラエル側が明確に否定してきた事柄がいまや承認された。それは 例えば西岸・ガザへの管轄権である。だが、オスロ・プロセスではこうした承認項目にエルサレ ム・入植地・境界線といった最終地位課題を棚上げにするという限定条件をつけることで、その

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内実を崩壊させたのである。
この引き算論法を明確に確認できるのは、
1995 年のラビン首相(労働党)暗殺後のイスラエ

ルの世論の危機的対立のなか、労働党がリクードとの間で結んだ「民族的合意」である。そこで

の宣言には、「パレスチナ人との交渉を続け、パレスチナ的実体の設立を許可する必要があるが、 、、、、

その地位と主権についての限定条件は当事者間の交渉で決定される」とある。つまり、限定的主 、

権という倒錯的状況を意図的に作り出すことに超党的な了解があったのである。 この民族的合意で述べられた以下の文言では、「国家」概念についてもその意味の切り崩しが 見て取れる。「パレスチナ的実体がもし上記の限定に従うなら、民族自決が承認される。ある見 解ではこの実体は拡大された自治体(enlarged autonomy)と見なされ、別の見解では国家と見 なされる。」つまりリクードが「国家」と呼ぶのに反対した実体を、労働党は「国家」と呼ばせ

ようとしていたのである。

4.和平交渉の決裂と歴史の書き換え

2000 年のキャンプ・デーヴィッド・サミットにおける交渉の決裂後、米国の交渉アドバイザ ーだったデニス・ロスやイスラエルのエフード・バラク首相など米国とイスラエルの交渉当事者 たちは、アラファートに対する非難を行った。曰く、米国が「ガザ地区」の 100%、「西岸地区」 の 91%の返還という「寛大な提案」を行い、イスラエルもこれを承認したにもかかわらず、ア ラファートはこれを一蹴した、と。しかし、この「寛大な提案」神話とは、引き算論法(「西岸」 地区概念の矮小化、入植地・バイパスの残存、境界地帯の支配継続等)によって本来的な国家機 能を備えたパレスチナ政治実体の設立を不可能とする枠組みなのである。

交渉決裂とその 2 か月後に勃発したアルアクサー・インティファーダ(第二次パレスチナ人 民衆蜂起)以降、イスラエル交渉当事者たちが作り上げた一連の「和平言説」は、イスラエル社 会の「左派系」知識人にも決定的な影響を与え、彼らの間に新たなパレスチナ人イメージが形成 された。それはイスラエルが和平(=二国家解決)のために譲歩しても受け入れず、逆に暴力を もって立ち上がるというパレスチナ人のイメージである。これは交渉決裂後のイスラエル世論の 単なる「後退」や「右傾化」ではない、新しい現象であった。なぜなら、オスロ・プロセスで承 認された「パレスチナ民族」は、以前の有象無象の「パレスチナ・ゲリラ」ではない、より実体 的な脅威集団(すなわちテロリスト集団)として把握されたためである。

こうしたイメージの変化の典型例が、イスラエルの「左派系」知識人の代表格だった歴史家ベ ニー・モリスの著作(Morris 2008)に見える歴史の書き換えである。バラク首相の「寛大な提案」 神話をなぞり、パレスチナ人への「失望」を表明したモリスは、イスラエル建国以前に遡り「パ レスチナ民族」の暴力を伴う「反ユダヤ主義」の「掘り起し」を行ったのである。こうした歴史 の修正作業を通して、モリスは徹底した二項対立的図式での世界観を打ち出していった。すなわ ち、「近代」と「野蛮」、「西洋=民主主義」と「イスラーム=原理主義」の前線としてのパレス チナ/イスラエル紛争の理解であった。

このように、表象次元における暴力を局限化したかに見える言説転換も、イスラエルの政治地

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図のなかで言えば単なる「右傾化」(リクード化)ではない。あくまでの「左派」労働党のオス ロ・プロセス期の「和平」観念の基底をなした分離思想の延長線上にある。

5.おわりに――植民地主義の帰結としての混迷

本報告ではオスロ合意から議論を起こしたが、パレスチナ/イスラエル問題の原因は帝国主義 諸国、わけても大英帝国による民族カテゴリー(「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」)のパレスチナへ の移植であった。この民族カテゴリーを巡る闘争が、シオニズムを固定化しパレスチナ・ナショ ナリズムを形成してきた。オスロ・プロセスもその歴史の一部である。

そして「パレスチナ民族」というカテゴリーをイスラエル側が初めて公式に承認したオスロ・ プロセスは、彼らの民族自決をむしろ恒久的に阻害するメカニズムだった。この内実が隠蔽され たことによってイスラエルのアカデミズムにおいて硬直化した議論が展開され、被占領地のパレ スチナ人への占領・抑圧が徹底される事態が続いている。

今日の中東地域での暴力を伴う形での国境線の流動化は、和平プロセスからの離脱を政治的に 困難たらしめている。イスラエルにおける知の硬直状況を打ち壊すという観点、そしてパレスチ ナ人の政治的選択肢を増やすという観点からも、和平プロセスへの抜本的批判の重要性が増して いる。

金城美幸 「反・二国家解決としてのオスロ・プロセスと新たな和平言説の誕生」今野泰三・鶴 見太郎・武田祥英編『オスロ合意から 20 年――パレスチナ/イスラエルの変容と課題』 NIHU イスラーム地域研究 TIAS 中東研究シリーズ第 9 巻、21-35 .

Morris, Benny. 2008. 1948: A History of the First Arab-Israeli War. London: Yale University Press.

Said, Edward. 2001. The End of the Peace Process: Oslo and After. New York: Pantheon Books.

Khalidi, Rashid. 2013. Broker of the Deceit: How the US Has Undermined Peace in the Middle East. Boston: Beacon Press Books.

参考文献

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