日本平和学会2015年度春季研究大会(広島大会)
報告レジュメ
「復興」で不可視化されるものー福島の現場から
ジャーナリスト
Japan Perspective News
福島大学地域政策研究科
藍原寛子
キーワード:東日本大震災、福島第一原発事故、復興、避難者、不可視化、復興計画、福島
1. はじめに-主語なき「復興」のなかで不可視化される被災者、避難者
東日本大震災と原発事故の被災地である福島県内で進む「復興」政策の影で、社会的脆弱性を持つ人々が切り捨てられている現状と、可視化されない/あるいは不可視化されている課題について考える。2015年5月現在、国・復興庁が示す「集中復興期間」5年の終期を目前に、被災各市町村では、最終的な復興計画の策定・見直し作業に入っている。富岡町のように、住民による公開の場でのタウンミーティング(復興計画委員会)や意見聴取を行っている自治体もあるが、参加者からは不満の声も聞こえてくる[1]。
東京電力福島第一原子力発電所から10キロに位置し、かつて東北電力の「浪江・小高原発」計画で町を二分する議論を経て、建設を先送りした浪江町。2015年度、県町村会長に就任した馬場有町長は丸4年を迎えた3月、交流と文化保存活動をする町民の「プロジェクト浪江」発足の会でこうあいさつした。
「私どもの町に『復興』はない。まずは上下水道などの『復旧』で、それはマイナスからのスタートだ。だが、町に戻らないという町民も年々割合が増えている。だから私は、『復興』ではなく、『創建』を目指したい。『不撓不屈』、『決してあきらめない』、その気持ちでみなさんとともに頑張ってまいりたい」(2015年3月22日)
東日本大震災で国が示した「創造的復興」。福島県庁の本庁舎の正面壁には、「ふくしまからはじめよう Future from Fukushima」という横断幕が下がり、未来を切り拓く明るいスローガンがはためく。福島県はJRとタイアップした観光誘客キャンペーン「ディスティネーション・キャンペーン」を6月末まで実施した。行政府が語る「復興」そして「明るく、華やかな」出来事と同時に、馬場町長の言葉にみられるように、その「復興」との距離感を語る言葉が存在しているのが現在の福島である。
福島大学の橋本摂子 は2011年、自身も調査に加わった「双葉八町村災害復興実態調査」で、住民に対する協力依頼文に「双葉郡全体の復興に向けた課題を把握すること」と記されたことで、「最初から『復興』ありきで企画された調査」が地元被災者を対象に行われたとし、「その後、国・県・自治体・公共団体・NPOなどで福島『復興』の一大スローガンが掲げられ、大学も同調、あらゆる催事の題目に『復興』という文字が入るようになってから、私は徐々にその言葉への違和感を持ち始めるようになった」[2]という。そして調査票を見ているときに「調査する側とされる側との温度差に対する微かな危機感」を感じたと振り返る。そのうえで、「行政のいう「復興」は避難で離散した人が元の居住地に戻り、人口流出を防ぐために被ばく線量を許容域まで下げること、あるいは除染の可否はともかくかつての賑わいを取り戻す、元の生活がもたらされる生活水準に戻ることと解釈されることがあるが、(中略)原発なしで原発によって支えられていた頃の生活水準に戻せとは、明らかに筋の通らない要求」であり、それらの復興の「矛盾を理解し苦悩する人びとは、『復興』からは距離を置き、ただ口を閉ざすのみである」と述べる。行政と住民の間、また住民同士でも異なる「復興」という言葉を巡る分断が起きている。福島に住んでいれば、毎日のように、新聞やメディアから聞こえてくる「復興」の文言。その中で切り捨てられ、不可視化されていこうとしている重要なもの、その価値をどう捉えたらいいのか。具体的な事例を提起し、今後の課題を探る。
2. 「復興」とは何か-過去の復興は「復興災害」をももたらしてきた[3]
東日本大震災復興基本法で国は、その基本理念の中で「被害を受けた施設を原形に復旧すること等の単なる災害復旧にとどまらない活力ある日本の再生を視野に入れた抜本的な対策及び一人一人の人間が災害を乗り越えて豊かな人生を送ることができるようにする」ことが復興政策であるとしている。
ところが、過去の歴史をたどれば、「一人一人」に当てず、「災害を乗り越えて豊かな人生」を送るよりも、その復興政策自体による災害が発生している。山下祐介は、『復興は以前の状態よりもよりよい状態になるいを含んでいる。しかしながら(中略)ここでいう「復興」は必ずしも「被災者の復興」を含むものではないように感じられる』[4]と述べる。池田清によれば、過去の復興政策は以下のような「復興災害」をもたらしてきた[5]。
Ø 関東大震災:「開発・成長型復興」で「復興災害」⇒軍閥増長、失業・倒産増加、昭和恐慌
Ø 戦後:「開発・成長型復興」で「人間復興」より都市計画、広島は都市改造、沖縄は「捨て石」に「本土との格差是正」「自立的経済発展」達成されず
Ø 阪神淡路大震災:「ゼネコンの大型プロジェクトで住民の貧困化進行、被災自治体の財政危機
また、宮入興一は東日本大震災は、すでに軍事、政治、経済で「災害資本主義(ショックドクトリン)」化が始まっており、それらは「災害ミリタニズム」、「災害ファシズム」、「災害ネオリベラリズム(災害新自由主義)」であると批判している[6]。
2011年4月に初会合を開き、11月に提言をまとめた東日本大震災復興構想会議(2011) [7]は、被災地からの委員を交え7項目にわたる「原則」をまとめた。そこでは、いのちへの追悼と鎮魂を起点とし、教訓を次世代に残すことを第1原則に掲げた[8]が、民主から自公政権へ交代した後、この被災地の声を反映させた原則は骨抜きになっているのが現状だ。
3. 「いのちへの追悼と鎮魂」と経済・観光
原発事故から丸4年が過ぎた今、被災地には外部から多数の人々が訪れている。
「決して忘れないで下さい。以前にこの場所で暮らしていた人がいます」。
訪問者への呼び掛けで始まるふくしま観光復興支援センターのホームページ「被災地の現地を訪問される方へ」[9]は、原発から20キロ圏内の各地に設置された献花台への献花や焼香、除染の様子を見に来る際の注意事項をまとめている。このなかでは「被災者の心情を配慮し、復興の妨げとなる言動は慎んで下さい」と、外部者に注意喚起している。一方で最後には「買い物支援のお願い」として、「被災地でお買い物していただくと、それが地元経済の活性化に繋がります。地元産品のお土産購入や食事をしていただき、一日も早い復興へのご支援をお願い致します」と求める。外部者は地元住民にとって迷惑なことはしてほしくはない。それは住民として当然な要求ではあるが、次にしてほしいと求めたこと、それは「買い物」(経済的支援)であり、その理由は復興につながるからだと同センターは述べている。
2015年5月現在、原発から20キロ圏内では多数の人がいまだ避難しており、土産物が買える店舗や食事は20圏外が多く、被災者への直接支援になっているのかは不明だ。経済指標の改善も補助金や復興予算、大規模な除染事業と多数の労働者の流入によるところが大きくなっている。
いま、「復興」とは、東日本大震災復興構想会議が述べたような「いのちへの追悼と鎮魂」を大原則とした住民や被災者視点の「復興」ではなく、追悼や鎮魂といった重い内面の感情を経済価値へと容易に置き換える非常に便利なフィルターになっているのではないだろうか。
2015年4月から6月末まで福島県とJR東日本がタイアップして、福島県内に観光誘客を図る「東北ディスティネーション・キャンペーン」が展開された。6月1日から福島県は県内の宿泊施設を利用する旅行者に、最大で1人あたり5,000円を補助する「福が満開、福のしま。」の旅行券・クーポンを発売。宮城、岩手も追随し、春夏秋の行楽シーズンに観光客を呼び込み、経済を活性化させたい考えだ。しかし同キャンペーンのパンフレットには、未だに多数の避難者が県内外にいて、新幹線の車窓から避難住宅のプレハブ仮設や除染後の廃棄物を集めた黒い「フレコンバッグ」が見える理由も、未だに残る放射能や山林・農地の放射能汚染、除染後の放射性廃棄物の問題、被ばくを避ける方法、食品のモニタリングの現状なども一切触れられてはいない。福島県は震災後、県の観光パンフレットを刷新したが、このうち、外国語バージョン(英語、簡体字、広東語、ハングル語)では佐藤雄平知事(当時)の挨拶で支援へのお礼が述べられているのみで、放射能汚染マップどころか、掲載された福島県の地図には福島第一原発の位置すら記されていない。本来、行政は、今起きていること、特に安全や健康に関することを広く県内外に広めていく責務がある。ところがそうした責務を果たすことなく、同時に、観光と地元経済活性化と復興の名のもとに誘客を図っている。復興は「観光-経済支援-復興」というつながりで、いのちへの追悼や鎮魂を不可視化していくフィルターになっているのだ。
4. 「被ばく管理」の名の下で進む「人間の管理」と「情報統制」:「研究」「安全」のもと、不可視化される人権
2015年1月13日、地元紙・福島民報の1面に、個人被ばく線量自動管理システムが政府により計画されているという記事が掲載された。「福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想」といい、「住民の健康支援や研究に生かす」ため、住民にGPS付きの個人線量計を持たせ、「住民がどこで、どのぐらいの放射線を浴びたかが正確に分かる」システムとして、春から実験的に稼働するという。「滞在場所を本人に聞き取る手間」なく、「住民の負担は少なく」、「従来以上の効果」が得られるという。
だが、このシステムの問題点は、個人の行動範囲と被ばく情報を政府が同時に自動的に大量に収集し、政府が管理することが、法制化なく、国民や住民の議論や同意なしに進められようとしている点にある。これに対し、山本一太内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策、科学技術政策、宇宙政策)、澤田哲生(東京工業大学原子炉工学研究所エネルギー工学部門助教)は「安全だから、安全を確認するためにやるんです。いいことではないか」[10]と述べ、政府見解を補強した。
橋本氏[11]は、政府見解は「安全論」で、有害なエビデンスが見つかるまでは「影響がない」という仮説を立て、棄却されるまでそれを真とする「帰無仮説」を適用した科学的見知であるが、一方で、安全だという確証がない以上、危険であるという前提で動き、将来の被害を未然に防ぐよう努力すべきという見解の「予防論」があるとするが、「妥協点があるはずもなく、両者の衝突は宗教論争に近い」と述べる。その背景には、専門家集団が統一見解を出せず、政府方針も二転三転し、被ばくリスク判断が個人に任され、根拠不在のまま下されるリスク認識の「ずれ」が住民の分断を招いた、という。もし政府が計画する個人被ばく線量自動管理システムが実行されれば、一個人が測定という作業を担う際に被ばくのリスクを含めた判断をその人自身に任せることとなるだけで、個人の負担は増し、さらなる分断が広がることが懸念される。
(福島民報 2015年1月13日の記事より)
5. 避難者の不可視化-対象不明、支援不足のまま、「復興」完了で切り捨てへ
東日本大震災により、それまで住んでいた地域を離れて多数の人が避難した。これらの人々は、自主避難者、強制避難者、母子避難者、広域避難者、区域外避難者、区域内避難者など、行政やメディアなどで様々な呼ばれ方をしてきた。また、震災直後に避難した人が避難先の市町村窓口で登録する「全国避難者情報システム」の数字と、避難元の各市町村、さらには復興庁が発表する数字には、それぞれ食い違いがあり、そもそも、行政の中で「避難者」の定義、つまり「避難者は誰か」があいまいになっている問題が挙げられている。避難者が正確に把握されていないということは、行政上、支援等法律適用対象が未確定であるといってもいい。
川端達夫総務大臣は、2012(平成24)年08月27日の参議院東日本大震災復興特別委員会で「このシステム自体は、被災者が書いていただいたものを元々住んでおられたところにお送りするというシステムでありますので、そのデータ自体が、まとめてデータベースとして国が管理しているというものではございません」とし、「避難者に関する情報を市町村が持っているということは事実[12]でありますので、それをどう活用するかは、この支援を、どういうものをどういう支援でやるかという施策に基づいてのときにしっかりと議論をして検討をしていきたいというふうに思っております」と答弁している。現在は復興庁が各市町村からの数字の積み上げを集計・発表しているが、避難者の定義や元データの調査方法について国が規定していないため、受け入れ自治体の中に、受け入れている避難者数を調査していなかった自治体[13]や、集計方法が変更され、受け入れ避難者数が急増した自治体[14]もある。
ではなぜ、避難者が正確に把握されないのであろうか。
① 「全国避難者情報システム」について知らない
② いずれ避難元の自宅に戻る可能性がある
③ すでに転入の意志がある
④ わざわざ自分の居場所を行政に知らせる必要はない
⑤ 届け出ても何のメリットもない
ただ、行政が数字として正確に把握していないことで、行政支援の点からは不可視化され、支援ネグレクトを許容してしまっている。
その問題が裏目に出たのが、2015年5月の区域外避難者(自主避難者)に提供されていた避難住宅無償化の打ち切り方針だ。福島県避難者意向調査[17]では、全体の48.7%が「応急仮設住宅の入居期間の延長」を求めている。京都府に避難した人も最も不安なこととして「住まいのこと」(93件)が最多[18]となっており、住居の確保は避難者にとって重要な課題でありながら、真っ先に切り捨てられる事態に陥っている。
いわき市から都内に避難した鴨下祐也さん(ひなん生活を守る会)や支援者の奥森祥陽さん(うつくしま☆ふくしまin京都)ら約10人が5月16日、福島県庁を訪れ、避難者支援課に避難用住宅の無償提供の長期延長を求める4万4千978筆の署名簿と要望書を提出した。鴨下さんは「もしも福島に帰れるものなら帰りたいが、除染も進んでいないなか、放射性物質に汚染された避難元には帰れないという避難者が多い。長期の無償提供を」と訴え、奥森さんも「避難者の生命がかかっている問題だ。打ち切りは絶対にしないでほしい」と叫んだ[19]。
避難者への避難用住宅の無償提供を定める災害救助法では、都道府県知事が国との協議の上、救助支援が適用される避難元対象地域を定めることができる。これまでに県は1年単位で無償提供延長(現在は平成28年3月まで)を決めており、福島県によると今後の方針は「国(内閣府、復興庁)と協議中」だとしている。国、県の協議内容について資料請求した山本太郎参院議員に対し、内閣府は黒塗りの書面で出してきたことが4月22日の東日本大震災復興及び原子力問題特別委員会の同議員の質疑で明らかになっており、まさに「秘密会」の中で、避難者の命運が議論されている状態が続いているのだ。
災害救助法に詳しい山川幸生弁護士[20]は、避難区域以外から避難した「『自主避難者』には、自主的判断で勝手に避難した」という意味が含まれており、実態が伴わない場合があるため、「自主避難者」とは呼ばず、「(避難)区域外避難」と使っていると前置きし、「避難元地域を定めて避難住宅提供などをする災害救助法と、避難区域を定める原子力災害対策特別措置法(原災法)はリンクしておらず、避難区域が解除された後も、災害救助法によってこの区域から避難した人への支援は継続できる。区域外避難者は、避難元の地域が放射線値が高く、それで避難している方々。元の居住地が避難区域の中であろうと外であろうと、行政の対応は同じであるべきだ」と指摘する。
さらに避難する権利、避難を継続する権利について「事故の責任は国にあり、国の責任で被災者の支援をやっていくべきだ。国連のグローバー勧告が指摘したように、被災者の健康がないがしろにされている問題がある。国際人権規約・社会権規約や、憲法13条に規定された人格権からも、当然認められるべき権利で、国もそれらの権利を制限することはできない」という。
現在の避難者については国際法上、国境を超えずに国内にとどまって避難し、災難から逃れる「国内避難民」[21]と捉える見方もある。内閣府はホームページ[22]で「国内避難民は避難先でも同じ国の国民であり続けます。そのため、支援の責任は根本的に、主権国家である当該国政府にあります。(中略)当該国政府自体が、国内避難民を生み出す行動をしている、または国内避難民への支援をしようとしないというケースもあります。(中略)いずれにしても、国内避難民支援は、難民支援と異なり、まず当該国政府の問題とみなされること、そして中・長期的には当該国政府が「国内避難民」という自国民への支援の責任を確実に果たしていくことが求められます」。避難を継続したい人への住宅無償提供の打ち切りは、まさに「政府自体が、国内避難民を生み出す行動」で、「国内避難民への支援をしようとしないというケース」にあたるだろう。
6. おわりに-「下からの復興」[23]を考える
「遠くから見たらがれきでも、あれはアルバムであり、家の一部であり、生活の一部だったものなんですね」[24]。河北新報編集委員、寺島英弥氏は、津波が去ったあとの故郷の福島県浜通りの海岸沿いを取材し、その風景を撮影しながらそう感じたという。近付けば近付くほど、生活や人の姿が具体的に見えてくる「距離感」が実感できたという。
原発から50キロの距離で、風向きによりホットスポットになった飯舘村。現在、大規模除染が進められ、村の至るところに除染廃棄物を詰めた黒いフレキシブル・コンテナバッグ(フレコンバッグ)が山積みになっている。海渡雄一弁護士は、長年畑や水田の土壌改良に取り組んできた村の農業者の女性にこう言われた。「あのフレコンバッグの中には、私たちの宝が詰まっているんです」[25]。自治体にとっては除染が進むことが「除染」の一つの指標とされているが、村民にとっては「除染」がまた別の意味を持つものとなっている。
こうした地元の住民の声は、地元では至るところで聞くことができる。仮置き場が満杯になったために、黒いフレコンバッグを自宅の庭に埋めなければならず、「廃棄物の隣」で暮らす人々の葛藤の声。隣家の高齢者が自家用に作っている作物を放射能モニタリング検査なしで日々食べていることを知り、食品測定をアドバイスするべきか迷う人。行政側の「復興」が進んだと言われても、日常の中で生じる葛藤や戸惑いはあり続けているのが現状だ。
これは明確に、行政が考える復興=「上からの復興」と、住民が考える復興=「下からの復興」がそれぞれにあるということの象徴ではないだろうか。少なくとも、前出のがれきやフレコンバッグのように、ある人にとっては無価値なものであっても、別の人にとっては高い価値を持つというもののように。そこには、被災者や避難者としての当事者性が大きなかぎになるのではないだろうか。
東日本大震災復興構想会議の提言は、当事者性を入れた提言であった。「今を生きる私たち全てがこの大災害を自らのことと受け止め、国民全体の連帯と分かち合いによって復興を推進する」[26]と。
2015年5月、国は被災自治体の復興事業の削減を県に通知した。今後、ますます、国や都道府県、市町村など「復興」という名称のついた事業、つまり「上からの復興」は事業件数としても、予算規模としても激減していくであろう。しかし予算や期間で区切られることなく、被災者や避難者による「下からの復興」は継続していく。これまで不可視化されてきた問題がより深刻な形として顕在化してくる可能性もあり、長期的な取り組みが必要になってくるだろう。
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[1] 『人間なき復興-原発避難と国民の「不理解」をめぐって』山下祐介ら、明石書店、2013年、214ページ
[2] 『不正を理解すること-原発事故と「復興」をめぐる一考察-』現代社会学理論研究8 2014年
[3] 『災害資本主義と「復興災害」』池田清、水曜社、2014年
[4] 1に同じ.32ページ
[5] 3に同じ.
[6] 『復興の大義』農文協編、2011年 P24、25
[7] 内閣官房 東日本大震災復興構想会議「復興への提言~悲惨のなかの希望~」2011年6月25日http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/fukkouhenoteigen.pdf
[8] 「復興への提言~悲惨のなかの希望」の「原則1」で述べられている
[10] テレビ朝日「朝まで生テレビ」2014年2月、筆者も出演しこのシステムの問題を提起したことに対する両氏の発言
[11] 2に同じ.
[12]住民基本台帳法では、市町村長等の責務として「常に、住民基本台帳を整備し、住民に関する正確な記録が行われるように努めるとともに、住民に関する記録の管理が適正に行われるように必要な措置を講ずるよう努めなければならない」と住民の居住の実態把握と記録の管理を定めている.
[13] 『ママレボ』2014August, Vol.008、 6ページ:避難した人数をホームページで公表しているのは宮城県のみだという。また福島県は情報開示条例により数字を提示するがその数字は実数ではないとした。茨城県は避難者数を集計していない.
[14] 2014年7月30日毎日新聞朝刊社会面「東日本大震災:福島第1原発事故 避難2400人把握せず 埼玉県集計、国の基準なく漏れ」
[15] 秋田県「平成26年度県内避難者アンケート調査結果」平成26年7月参考.http://www.pref.akita.lg.jp/www/contents/1339382674110/files/H2607-akitahinantyousa.pdf
[16] 『ママレボ』2014August, Vol.008、 7ページ
[17] 福島県避難者支援課長、2015年4月27日 http://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/113135.pdf
[18] 京都府災害支援対策本部 2012年10月発表 http://www.pref.kyoto.jp/saigaishien/documents/1350433951958.pdf
[19] 『週刊金曜日』 5月29日号 「避難者に路上生活の不安も」
[20] 19に同じ. 2015年5月21日 筆者電話インタビュー.
[21]国際移住機関(IOM)は、移民について「通常の居住地以外の国に移動し、少なくとも12カ月間その国に居住する人」と定義する。日本は「移民」について、ある程度長期にわたって定住する外国人を指し、留学生、シリア難民、ルワンダ難民など冷戦後の世界で激増し、いまだ大きな問題である国境の内側で起きる避難民なども含む。ILA(International Law Association国際法協会、1873設立の国際民間団体)は2000年、ロンドンで「国内避難民に関する国際法原則宣言(ILA宣言)」を採択。同宣言 第1条第1項「国内避難民とは、特に武力紛争、広域化した暴力の事態、人権侵害または自然災害もしくは人的災害の影響の結果として、または、そうした影響を避けるために、住居もしくは常居住地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた人もしくは人の集団であって、国際的に承認された国境を越えていないものをいう」とした。国連難民高等弁務官事務所国連難民高等弁務官事務所日本事務所は(2013年6月3日参照)は「国内避難民には、明確な法的定義が存在しません。状態を表す定義(descriptive definition)として、紛争や政治的な迫害、そして災害等によって『非自発的な移動を強いられている』人々で、『自国の中に居る人』が、国内避難民と呼ばれます」としている。http://www.unhcr.or.jp/html/right_and_duty.html
[22] 内閣府 第51回 難民と国内避難民 @PKOなう! http://www.pko.go.jp/pko_j/organization/researcher/atpkonow/article051.html
[23]筆者は2008年から09年にかけ、フィリピンに1年間滞在し、「臓器村」と言われる臓器売りのドナー(臓器提供者)が生活する複数の貧困地域を訪ね、生活困窮や人権問題と臓器売買を医療倫理の点から調査した。その際、アジアの途上国では、臓器を買う側の欧米先進国が臓器売買を問題視している点を「上からの生命倫理」とし、アジアの途上国が先進国の植民地になったことなどから継続する貧困問題や差別、汚職など、住民や当事者実態からの多重的な問題把握と解決アプローチを進めようという「下からの生命倫理(Bioethics Below)」(レオナルド・デ・カストロ教授、フィリピン大学、生命倫理)を学んだ。ここでいう「下からの復興」は、そうした住民や被災者の生活実態から、被災地の現場に軸足を置いた復興を考えるという意味で用いた。
[24] 2015年5月17日「日放労 第4回現地学習会 震災から公共放送を考える」で寺島英弥河北新報社編集委員の発言.
[25] 2015年5月24日「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」設立総会で海渡雄一弁護士が飯舘村民の言葉として紹介.
[26] 4に同じ 内閣官房 東日本大震災復興構想会議「復興への提言~悲惨のなかの希望~」2011年6月25日