「記憶の遺産」が問う現在 ─―プリーモ・レーヴィと原民喜の言葉を手がかりとして─―

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「記憶の遺産」が問う現在

─―プリーモ・レーヴィ原民喜言葉手がかりとして─―

 

NHKチーフ・ディレクター

鎌倉 英也

1.はじめに

 本報告では、NHK特集番組『記憶の遺産――アウシュヴィッツ・ヒロシマからのメッセージ』(72分作品)の短縮ダイジェスト版の視聴を通して、第二次世界大戦が生んだ二つのジェノサイドの現場が、どのように「世界遺産」に登録されたのか、それらが「記憶の遺産」と呼ばれていることの意味は何かを考察する。さらに、アウシュヴィッツ収容所の生存者であったユダヤ系イタリア人作家 プリーモ・レーヴィと広島被爆者として生きた原民喜の二人が遺した言葉を参照しながら、彼ら「平和のための証人」が、私たちが生きる「現在」においてどのような問いと警告を発しているか、検討してゆく。

 

2.「記憶の遺産」とは何か

 ユネスコが選定する「世界遺産」は、従来、「人類史上で類を見ない傑作」や「文化的建造物」に重点が置かれていたが、登録基準に追加された項目(第6項)「顕著な普遍的価値を有する出来事、生きた伝統、思想(中略)と直接または実質的関連がある」により、「世界遺産」として新たに、アウシュヴィッツ(1979年登録)、広島(1996年登録)が加えられた。これらは通常「負の遺産」と呼ばれているが、ユネスコ世界遺産センター(パリ)の担当官らは「記憶の遺産」という言葉を用いている。――「そこは人類の文化が否定された場所だが、保存し続けようとする人間の行為そのものは確実に文化の一部である」(登録審査機関ICOMOS副議長クシストフ・パブオフスキ)/「両者は記憶し続けようとする人間の意志が刻まれた場所であり、登録対象となったのは人類の悪行ではなく、その人類の記憶に対する意志そのものである」(登録審査委員アンジェイ・トマシュフスキ)。

 登録審査においてアウシュヴィッツと広島は対照的な過程をたどった。前者が加害国ドイツの賛意を得て登録されたのに対し、広島はアメリカと中国の反対を受けて紛糾した。――「大戦は原爆の使用によって終わらせることができた。原爆投下の瞬間ではなく歴史的文脈で捉えるべきだ」(アメリカ代表)/「日本による戦争の甚大な被害者はアジアの人々である。日本の一部にはこの歴史的事実を否定する者がいる。広島の登録は彼らによって利用される可能性がある」(中国代表)

 

3.プリーモ・レーヴィと原民喜――戦後に自殺した「記憶」の証人

 プリーモ・レーヴィ――1943年パルチザン闘争中、潜伏先のアオスタ渓谷で捕らえられアウシュヴィッツに移送。即座のガス室送りは免れたが、約1年間に及ぶ強制労働を課せられた。アウシュヴィッツ解放後、帰郷したトリノで収容所の体験を綴った『これが人間か』を執筆。証言者として戦後を生きるが、解放から42年後の1987年、自宅アパートの4階から身を投げて死亡した。

 原民喜――1945年広島にて被爆。その体験を戦後、『夏の花』『鎮魂歌』などの文学として次々と発表する。彼もまた、被爆から6年後の1951年、東京の中央線吉祥寺駅と西荻窪駅間の線路に身を横たえて自殺した。

 ともにジェノサイドから生還した証言者であり、戦後に自殺を遂げた二人は、以下のような対照的なタイトルの詩を遺している。


 『これが人間か』プリーモ・レーヴィ   

     暖かな家で 何ごともなく生きているきみたちよ 家に帰れば 熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ

 これが人間か、考えてほしい 泥にまみれて働き 平和を知らず パンのかけらを争い 他人がうなずくだけで死に追いやられるものが

 これが女か、考えてほしい 髪は刈られ、名はなく すべてを忘れ 目は虚ろ、体の芯は 冬の蛙のように冷えきっているものが

 考えてほしい、こうした事実があったことを これは命令だ 心に刻んでいてほしい

 家にいても、外に出ていても 目覚めていても、寝ていても そして子供たちに話してやってほしい

 さもなくば、家は壊れ 病が体を麻痺させ 子供たちは顔をそむけるだろう

 








 『コレガ人間ナノデス』原民喜

     コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ 肉体ガ恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル

    オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ 爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ

    「助ケテ下サイ」 ト カ細イ 静カナ言葉

    コレガ コレガ人間ナノデス 人間ノ顔ナノデス

 

これらふたつの詩を出発点に、彼らの遺した言葉を手がかりとしながら、「記憶」を引き継ぐべき私たちの戦後に何が起きてきたのか探る。彼らはなぜ、一度は生還した「生者たちが暮らす世界」に絶望し、脱出してきたはずの「死者たちが待つ世界」に戻っていったのだろうか。彼らは「現在」に何を見ていたのだろうか。

 

4.「戦後」の日常の中に潜む「予兆」

 広島での被爆から5年後、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、11月にはトルーマン米大統領によって朝鮮半島に広島・長崎に続く第三の原爆投下の検討が発表される。この時期までには、3月に発表された核兵器絶対禁止を求める「ストックホルム・アピール」に全世界から5億人の署名が寄せられていた一方、アメリカでは上院議員が「アジア中の青年の命より一人のアメリカ人青年の命の方が大切だ」と発言していた。原民喜は、朝鮮戦争前年の1949年、既に予兆ともいうべき文章を書いている。


 何年間僕が眠らないでいるのか。……あの頃から僕は人間の声の何事もない音色のなかにも、ふと断末魔の音色がきこえた。面白そうに笑いあっている人間の声の下から、ジーンと胸を潰すものがひびいて来た。何ごともない普通の人間の顔の単純な姿のなかにも、すぐ死の痙攣や生の割れ目が見えだして来た。いたるところに、あらゆる瞬間にそれはあった。人間の一人一人の核心のなかに灼きつけられていた。人間の一人一人からいつでも無数の危機や魂の惨劇が飛出しそうになった。それらはあった。それらはあった。それらはあった。それらはあった。それらはきびしく僕に立ちむかって来た。僕はそのために圧潰されそうになっているのだ。――『鎮魂歌』

 

 






一方、戦後、アウシュヴィッツ記録文学作家として数々の著作を発表してきたプリーモ・レーヴィをとりまく状況も、戦争から時間的距離が遠ざかるに従って刻々と変化した。新たに始まった東西冷戦の世界を見つめながら、彼は次のような言葉を残している。


 私たちは耳を傾けてもらわなければならない。個人的な経験の枠を越えて、私たちは総体として、ある根本的で、予期できなかった出来事の証

人なのである。まさに予期できなかったから、誰も予見できなかったから、根本的なのである。(中略) これは一度起きた出来事であるから、また起

こる可能性がある。これが私たちが言いたいことの核心である。――『溺れるものと救われるもの』

 人間性が脅かされる危険性は、まだ個人個人にも団体にも残っている。私たちの世界は、何世紀も前から一向に変わっていない。人間は基本

となるべき経験に対して無知なままだ。予想もつかないことに対応するだけの経験の積み重ねがない。東西冷戦ブロックの世界均衡などあてにならない。彼らがお決まりの合意を行ったところで、第三世界からは無視されることだろう。残るのは「抑止力」という議論だ。しかし、これはまったく役に立たない。恐怖からは何も生まれない。新しい「核」という恐怖も既に私たちの前に出現している。――イタリアRAIテレビによるインタビュー

 

 







日々の時間や空間の裂け目から覗く死が、すぐ隣にぽっかりと口を開けて待ち構えているという実感を伴う両者の警戒感は驚く

ほど一致しており、彼らにとってそれは「根本的」なもので幻想ではない。直接言語であり、暗喩や比喩でもない。語ろうとしているのは「過去」ではなく、「現在」である。

 

5.「対話」の不在

原民喜の「轢死」は被爆から6年後だが、プリーモ・レーヴィの「墜落死」は解放から42年が過ぎていた。一見、「6年後」と「42年後」には大きな違いがある。しかし、それぞれの自殺直前の状況を見ると、彼らが追い詰められた状況に一致点があらわれてくる。

原民喜は、上京後に間借りした部屋で、「へえッ、あなたはいつまで生きていられると思うのです。あなたの生命なんか、あともう二、三年もない癖に」という家主の「細君」の言葉に怯え、人が自分を「生き残り、生き残り」と罵り、「何かわるい病気を背負っているものを見るような眼つきで」「死にわめく人間の姿をしか見てくれなかった」ことに打ちのめされながら、「まるで囚人のような気持」で戦後を生きた。以下は、自殺の3年前に書かれた、自らの死をシュミレーションするかのような文章である。


 今突進してくる急行列車めがけて投身自殺を試みる。自殺は成功した。だが、死んだ筈の彼は、ふと気がつくと、一向に情況は変わっていないのだ。両手片足の捩げた男、血まみれの裸女、全身糜爛(びらん)の怪物、内臓の裂けて喰みだす子供、無数の亡者、無数の死体がすぐ彼の側を犇(ひし)めきあい、ぞろぞろと押されて進んで行く。ざわざわとした人声のなかから、「もう墓地なんかありはしないよ」と鋭い悲しげな声が聴きとれる。どこへ、それでは何処へ?……どこへ行ったって、もう君たちの憩える場所はないのだ。――『火の踵』

 

 




  ここで描写されるのは原民喜自身の死後の姿であり、死に切れなかった死者の姿である。

 もし、人間が、生者と死者という境界で分けられるとするならば、自分の周囲を圧倒的な数の死者が取り巻く状況を体験した者にとって、言葉が通じる人々を生者の側に見出すことは困難を極めた。「生き残り」の「独言(モノローグ)」ではなく、死者と生者の「対話(ダイアローグ)」として証言を刻もうとしていた原民喜にとって、深刻な孤独と絶望の闇は、生者の世界における「対話」相手の不在だった。生者の世界で進行しつつある事態は、死者との「対話」を遮断しようとする意思の現れに思えたのではないか。

プリーモ・レーヴィにもまた、著作『これが人間か』の中に、次のような記述がある。


 そこには妹と、だれだか分からないが、私の友人と、ほかに人がたくさんいる。みな私の話を聞いている。(中略) 激しい飢え、虱の検査、私の鼻をなぐって、鼻血を洗いに行かせたカポーのことなどを、あますところなく語る。自分の家にいて、親しい人々に囲まれ、話すことがたくさんあるのは、何とも形容し難い、強烈で、肉体的な喜びだ。だがだれも話を聞いていないのに気づかないわけにはいかない。それどころか、まったく無関心なのだ。私など存在しないかのように、自分たちだけで他のことをがやがやとしゃべっている。妹は私を見て、立ち上がり、何も言わずに出てゆく。

すると心の中にひどく心細い悲しみが湧いてくる。幼い時に味わった、ほとんど記憶に残らないような悲しみだ。それは外部の事情や現実を意識する以前の、純粋状態での悲しみだ。子供が訳もなく泣き出してしまう時の悲しみだ。――『これが人間か』

 







これは実は自宅に生還した後に書かれた家族との食卓風景の描写ではない。プリーモ・レーヴィが、アウシュヴィッツに囚われていた間に「一度ならず、何度も」見た「夢」なのだ。彼は考える。「なぜこんなことが起こるのだろう?なぜ毎日の苦しみが、夢の中で、こうも規則的に、話しても聞いてもらえないという、いつも繰り返される光景に翻訳されるのだろうか?」。

 

この「だれも話を聞いていない」ことへの「悲しみ」は、自殺直前の彼を取り巻く現実の中でも起きた。まずは、自殺5年前の1982年に起きたイスラエルによる「レバノン侵攻」である。プリーモ・レーヴィは、『イスラエル軍のレバノン撤退を求めるアピール』に署名し、かつて被害者となったユダヤ人が、今度は自らの「民族主義」と「国家主義」に陥り、加害者に転じることを激しく糾弾した。しかし、イスラエルの「攻撃的なナショナリズム」を批判した彼は、同胞ユダヤ人からも「刺すような手紙」を受け取り、非難され、孤立した。

さらに、自殺前年の1986年には、当時の西ドイツで「歴史家論争」と呼ばれる議論が起きた。それは、ナチスの「犯罪」を「人類の歴史上つねに生じるもので特別ではない」という主張が蔓延し始めたことを示していた。正確に記すならば、それは既に水面下で進行していたが、「国民」としての愛国心を取り戻し「国民の歴史」に誇りを持つべきだ、という歴史修正主義者の主張が堂々と論壇に登場し、それに積極的に呼応して喝采する勢力や、それを看過し黙認する土壌が社会に拡大しつつあることが露わになり始めたのである。プリーモ・レーヴィはこの年、「私たちには、若者と話すことがますます困難になっている。私たちはそれを義務であると同時に、危険としてもとらえている。時代錯誤として見られる危険、話を聞いてもらえない危険である」と書き残している。

 

6.「生き残り」としての境界

 生者と死者、いったい自分はどちら側にいるのか。最晩年の原民喜を苛んだのは、「生き残り」としての自分の立場だったといえる。「生き残り」とは、彼にとって生者の側に身を置くこともできず、死者の側からも取り残され、所属先を見失った存在だった。死者と生者の深い断絶を埋めること以外に、どこにも自分のような「生き残り」が住む世界を見出すことができなかった彼は、社会の「戦後」の中で、自らの「死後」を生きるため、死者の声を生者の住む世界に運ぶことを「使命」としていた。

生者と死者の境界を往復しながら、死者の記憶を伝えようとしてきた「生き残り」にとって、両者の「対話」の途絶は自らの存在への疑いとなった。彼が「隣人」と呼べるのは、もはや死者の側にしか残されていなかった。

 隣人よ、隣人よ、黒く膨れ上がり、赤くひき裂かれた隣人たちよ、そのわななきよ。死悶えて行った無数の隣人たちよ。おんみたちの無数の知られざる死は、おんみたちの無限の嘆きは、天に届いていったのだろうか。わからない、わからない、僕にはそれがまだはっきりとわからないのだ。

 一つの嘆きよ、僕をつらぬけ。無数の嘆きよ、僕をつらぬけ。僕はここにいる。僕はこちら側にいる。僕はここにはいない。僕は向側にいる。

 僕は突離された人間だ。還るところを失った人間だ。突離された人間に救いはない。還るところを失った人間に救いはない。――『鎮魂歌』

 

経済企画庁が発表する経済白書の結びに「もはや戦後ではない」と記されたのは、原民喜の死から5年後の1956年のことである。第二次大戦で灰燼に帰した日本は、朝鮮戦争の特需に沸き、高度経済成長に邁進する方向に舵を切る。原民喜を葬り去ったのは、「戦後」の生者の側がいわば積極的に築こうとした死者との高く厚い分離壁であり、その黙認ではなかっただろうか。

彼が「隣人」に対して抱えた「生き残り」の罪障感と通底する意識は、プリーモ・レーヴィの自殺前年の作品にもまた読み取れる。

 

 私は他人の代わりに生きているのかもしれない。他人を犠牲にして。私は他人の地位を奪ったのかもしれない、つまり実際には殺したのかもしれない。ラーゲルの「救われたものたち」は、最良のものでも、善に運命づけられたものでも、メッセージの運搬人でもない。私が見て体験したことが、その正反対のことを示していた。(中略)

 最悪のものたちが、つまり最も適合したものが生き残った。最良のものたちはみな死んでしまった。(中略)

 独自の信仰を持った友人は、私が証言を持ち帰るために生き残ったと言った。私は自分に可能な限り証言をしたし、そうせざるを得なかっただろう。そして今でも機会が訪れる限りは、そうし続ける。しかしこの私の証言がそれだけで生き残る特権を私にもたらし、多くの年月を大きな問題もなしに生きられるようにさせたというなら、その考えは私を不安にさせる。なぜならその特権と結果の釣り合いが取れていないと思うからだ。

  ここで繰り返すが、真の証人とは私たち生き残りではない。――『溺れるものと救われるもの』

 

  死者こそが「真の証人」であり、自分たちは「最悪」で「最も適合したもの」だと書くプリーモ・レーヴィは、この「遺書」ともいうべき最後の作品において、自分の証言者としての資格にさえ疑問を投げかけている。彼の記憶の中に存在する「真の証人」である死者たちは、プリーモ・レーヴィを、「最も適合したもの」が「生き残る特権」の中で戦後もさらに生き続けることを許さないところまで追い込んでいた。戦後に加速する新たなタイプの社会の「適合」が、「証言を持ち帰るために生き残った」はずの「生き残り」に絶望をもたらし、自らの存在を「真の証人」ではないと切り捨てさせるに至ったのである。

 

7.三度目の殺人者にならないために

 2015年の「現在」、それは、原民喜の自殺から64年、プリーモ・レーヴィがこの世を去ってから28年という歳月を重ねた世界である。ふたりが最終的に「適合」できなかった生者の社会は、彼らの死後も拡大しつつある。

今年4月から5月にかけて開かれた「核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議」においては、オーストリアが核兵器の非人道性を告発し禁止を求めて提唱した「人道の誓約文書」に対し、日本は他の核保有国とともに賛同しなかった。また、再検討会議の最終文書の作成過程で日本が求めていた広島・長崎への各国首脳の訪問を促すという記述の挿入は、中国の「日本は第二次大戦の加害者ではなく、被害者であるかのように描こうとしており、同意できない」という反対を受けて外された。「世界遺産」の広島原爆ドーム登録から20年になろうとする現在、いまだに過去の「世界遺産」登録審議時に提出された問題が、日中間で繰り返されている。

元広島市長の平岡敬は、広島の訴えが世界に開かれてゆかない現状を、彼の市長在任中に起きた「世界遺産」への登録をめぐる中国の反対の例を引きながら、次のように語っている。

 日本には戦争を反省していない人たちがいて、その人たちは広島の被害を隠れ蓑にして、再び戦前のようなことをするかもわからない。そういう言い方をして反対したわけです。確かに歴史観というものについて、私たちが鈍感であったのは事実です。これが広島の訴えを弱め、アジアの人たちの心も打たなかったと思ってるんです。これは、日本が戦後処理をきちっとやっていないところに原因があると思いますね。強制連行の問題、「従軍慰安婦」の問題、化学兵器の処理。中国の東北部にまだ70万発ぐらい残っていてこの被害が毎年出ているんですね。そういうことに対して、日本、あるいは日本国民はまったく自覚がない。だから戦争は終わっていないんです。終わっていないのに、自分たちは終わったと思っている。そういうことに私たちは気づいていない。――NHKスペシャル番組『ZONE 核と人間』取材時のインタビュー記録

 

 






「平和利用」と称された核による汚染地域も増えた。福島原発事故の翌2012年に政権を奪回した自民党政府は積極的に、ベトナム、トルコ、インド、ヨルダン、サウジアラビアなどに対して原発輸出外交を展開し、核による汚染の潜在的な可能性を持つ場所がアジアを中心に広がりをみせている。

 また、中東ではプリーモ・レーヴィが懸念した事態が加速度的に進行しつつある。昨2014年7月から8月にかけて、イスラエル軍はパレスチナ・ガザ地区を統治するハマスをテロリスト集団とみなし、その武力攻撃に対抗するとして、停戦までの51日間、ガザに大規模な空爆と地上戦を展開した。ガザの死者は2200人を超え、その7割以上が543人の子供を含む民間人だった。

偏狭な国家や民族の論理に唯々諾々と「適合」することを拒み、その境界によって分断された言葉と「記憶」を開くこと。それこそが、一度目の死から生還した原民喜、プリーモ・レーヴィという二人の証言者を、次には「轢死」させ「墜落死」させて殺してきたことを三たび繰り返さぬこと、つまり「現在」を生きる私たちが、三度目の殺人者にならないために求められていることではないだろうか。

ファシズムはまだ死に絶えていない。

ある国ではより強化され、また別の国では虎視たんたんと復讐を狙っている。

ファシズムはいまだ「新秩序」を約束するのを止めていない。

 





プリーモ・レーヴィが遺したこの警告は、彼がこの世を去った1980年代ではなく、まさに「現在」に向けて発せられている。

 

主な参考文献/番組

NHK「探検ロマン世界遺産」スペシャル『記憶の遺産――アウシュヴィッツ・ヒロシマからのメッセージ』 (放送:2008年3月12日/NHK総合)

戦後60年企画 NHKスペシャル『ZONE 核と人間』 (放送:2005年8月7日/NHK総合)

ETV2003 『アウシュヴィッツ証言者はなぜ自殺したか 作家・プリーモ・レーヴィへの旅』 (放送:2003年3月5日6日/NHK教育)

プリーモ・レーヴィ 『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』(竹山博英訳/朝日新聞社/1980年)

プリーモ・レーヴィ 『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳/朝日新聞社/2000年)

原民喜 「原爆被災時のノート」(『定本原民喜全集Ⅲ』青土社/1978年)

原民喜 「夏の花」(『原民喜戦後全小説(上)』講談社/1995年)

原民喜 「火の踵」(『近代文学』/1948年)