水俣市茂道の集落の成立と水俣病発生初期における地域変容
熊本学園大学大学院社会福祉学研究科
永野 いつ香
キーワード:水俣市、茂道、水俣病被害、漁業被害、地域変容
1.はじめに
本報告では、水俣市茂道の集落の成立と水俣病発生初期における地域変容を解明したい。茂道という地域の変容過程を把握するための大きな転換点は3つ考え られる。第1は江戸時代から明治時代への転換。第2は第2次世界大戦による転換。第3は水俣病事件による転換である。第1、第2の転換は茂道に限らず、日
本という国家全体の転換点ともいえるが、水俣病事件による転換は不知火海一帯の沿岸地域にとって大規模な転換であり、茂道についても例外ではない。ここで は、水俣病事件による転換により生じた変化を2つ取り上げた。1つ目は、茂道住民が受けた水俣病被害について。2つ目は、漁業補償交渉の過程で起こった 「漁協組合員除名処分」と「チッソ就労」、その結果生じた住民間の軋轢について記した。
2.水俣市茂道の集落の成立
水俣市から約6㎞南方、リアス式海岸の湾と陸が近接したところに茂道はある。西方に不知火海、背後には丘陵がせまり田畑を耕せるような平地が少ないた め、人が住むには難しい場所であった。寛永9(1632)年頃から藩境防備(細川藩)を目的とした松の植林と管理に力を入れたことで、茂道を人が通るよう
になり、明治以降には肥薩国境の番所に水俣から派遣された佐藤家や、天草の漁村から来た漁民が住むようになった。大字の袋村で定着しなかった地曳網を茂道 が8張買い受け、独自の網代で片口いわしをとり製造するなど漁村が形成された。昭和初期には4つの網元があり、1つの網元に約20人の網子やだしが集い、
いわし地曳網やボラ漁、一本釣りなどの小規模な漁業を営んだ。第二次世界大戦時には、第21海軍航空廠袋補給工場が建設され、戦後は引揚げ者が航空廠跡地 に移住するなど新たな層が増えた。1901〜1962年までの地形図(国土地理院)を見ると、道の増幅、入江の埋め立、戦時中に建築物が増えた以外の変化
はほとんどない。地理的・物理的条件から、茂道は住民以外が足を踏み入れることの少ない「陸の孤島」のような場所であった。
3.茂道における水俣病事件の概要
1950(昭和25)年、猫が狂い死に、数が減ったため、ねずみが急増して漁具をかじられるようになった。困った漁師が水俣市役所に陳情したが、「陸の孤 島」の茂道で起きていることを知らない衛生課の職員に一蹴された。1952(昭和27)年頃、魚介類や家畜、猫への異変を多くの住民が認識するようにな
り、1954(昭和29)年8月1日、熊本日日新聞に「猫、てんかんで全滅、ねずみの急増に悲鳴」と報じられた。1958(昭和33)年、航空廠跡地に住 む中学生、翌年には網元家族の発病が新聞やラジオで報道された。患者を出した家庭は、差別を恐れ隠れるようにして暮した。その後、1960(昭和35)水
俣病漁業補償交渉の過程で茂道の漁師7名が除名、チッソ就労派と漁協組合員との軋轢、1967(昭和42)年以降実施された農業構造改善事業による甘夏植 栽園造成、1969(昭和44)年第一次訴訟提訴、1971(昭和46)年自主交渉闘争など、水俣病事件をめぐり地域を変容させる出来事が次々と起こっ た。
4.顕在化した茂道住民への水俣病被害
1956(昭和31)年、茂道には119世帯577名が居住していた。公式確認前から流産・死産や原因不明で亡くなる人が増え、潜在患者は存在するのだ が正確な数字はわからない。熊本大学医学部水俣病研究班『水俣病』(1966)に掲載された水俣病発生初期の茂道の患者をみると、4名は網元や網子家族、
1名は商店を営む者、3名は航空廠跡地の住人である。9人中4人は胎児性水俣病患者であることから生理的弱者から順に被害を受けたことがわかる。ここで は、茂道で最初に新聞やラジオで報道された2名について取り上げる。1人目は、航空廠跡地に住む中学生。生活保護受給世帯で、袋湾の魚介類を多食してい
た。茂道で最初に発病を報道されており、1958(昭和33)年8月17日の熊本日日新聞に、「水俣病が新発生 カニ食べた少年 魔の禁漁区は獲り放題」との見出しで掲載され、水俣市民に衝撃を与えた。しかし茂道住民にとって航空廠跡地に住む住人は、「茂道外の人」であり記憶のある
住人は少なかった。2人目は網元家族で、漁業を生業としていた世帯である。茂道では2番目に発病を報道された人なのだが「茂道ではあの人が1番目になっ た」と、衝撃的な出来事として茂道住民の記憶に残っている。両者とも「奇病」患者として周囲から忌避された。この当時、食品衛生法を適用して熊本県独自に
漁獲禁止をすることは可能だったが、水俣湾内の漁獲自粛を求める行政指導にとどまった。自主的な禁漁を求めるもので強制力や補償はないことから、航空廠跡 地に住む貧しい家庭だけでなく網元の家庭ですら生活苦は深刻で、魚介類を食べざるを得ない状況にあり地域ぐるみで被害を受けた。
5.漁業被害による生業の変化
水俣の漁業被害は長い歴史を持つ。1906(明治39)年1月12日、野口遵は「日本カーバイド商会」を設立。1908(明治41)年、社名を「日本窒 素肥料株式会社」と改め、1914(大正3)年に開始した「硫安」の製造過程で出る残渣が海を汚染したため、水俣漁業組合は「漁場の被害補償」を工事に要
求。1926(大正15)年、「此ノ問題ニ対シテ永久ニ苦情ヲ申出サル事トシテ多年ノ物議ヲ解決シタリ」とし、会社は1,500円を支払うことで漁民が苦 情を言えない構図を作った。1949(昭和24)年、水俣市漁業協同組合が発足した。区域は、茂道、湯堂、月ノ浦、梅戸、丸島、八幡、湯の児地区で、昭和
30年代前半の組合員数は約300名であった。1956(昭和31)年、第一種に指定された茂道漁港には70隻の船があり組合員は約80名いた。4件の網 元を中心に、豊潤な海で巾着網、地曳網、流し網、打瀬網、磯刺網、いか籠、ぼら飼付、たこ壺、吾智網、一本釣などをして生計を立てた。しかし、茂道湾や袋
湾、沖合の恋路島に船を出しても魚がとれない状態が続いた。港勢調査によると、茂道地区の漁獲高は、1950(昭和25)年度4,900貫、1953(昭 和28)年度3万4,000貫、1956(昭和31)年度1万貫と、一旦上昇した漁獲高が減少している。
1959(昭和34)年8月6日、水俣市漁協と鮮魚小売商組合は、新日本窒素肥料株式会社(チッソ)に対して漁業補償を求めたデモを決行した。チッソから 出された3,500万円の補償金は、約300世帯の被害状況や生活状態を配慮して分配されたが、茂道の組合員は「漁業交渉は水俣市漁協が交渉金を手に入れ
たが、16万円とわずかな金額であった」と配分された金額の少なさを語っている。1960(昭和35)年、水俣市漁協は、新たに水俣病関係補償交渉申入れ 書をチッソに提出し、2億8,315万1,000円を要求した。こうした漁協の方針に対して茂道の組合員3名は「補償金ではなく生活補償」を求め、「若い
人は、チッソに働いて生活の安定を図ったがいいんじゃないか」と、めぼしい人の家庭に行って説得を始めた。1960(昭和35)年8月16日、雇用補償を 希望する者は、組合の団結を乱したとして「昭和35年度第2回臨時総会」において7名の組合員が除名処分を受けた。この除名処分を知ったチッソ幹部は、除
名された漁民たちに組合の非難やビラの新聞折り込みをして組合の切り崩しを行うよう要求した。チッソで働きたいという漁民の気持ちを利用したのである。入 社試験を受けチッソに35名、扇興運輸に5〜6名が入社したが、入社前の条件は守られず、入社後の生活は苦しかった。チッソ就労派と漁協組合員との関係性
は崩れ、地域生活にまで影響が及んだ。チッソ就労は「裏切り行為」であり、茂道住民が「親せきや肉親のつながりも多いのである。だがそれ故ににくしみ合も 続いたのであろう」と記したように、漁という共同作業を行う中で形成されてきた深い集団意識や濃いつながりがあったがゆえに、日々の暮らしの中に生じた軋 轢は根深かったのである。
6.おわりに
水俣病事件で被害者は、病気という身体的な苦しみだけを被ったのではない。茂道の地域変容をみてわかるように、第1に生活の場が破壊された。海とともに生 きていた人々にとっては人間の尊厳を奪われたに等しい出来事である。第2に、生業を奪われた。第3に、漁協組合員同士の関係に軋轢が生じ、地域内の人間関
係が分断された。これらのことを鑑みると、被害者は身体的苦痛に加え、差別などの精神的苦痛、また就労先の変更とそれにともなう苦難を余儀なくされた事実 が厳然とあることがわかる。
参考文献
永野いつ香(2009)「水俣市茂道における地域変容と住民の生活史」『水俣学研究 創刊号』、熊本学園大学水俣学研究センター.
水俣病研究会(1996)『水俣病事件資料集(上・下巻)』葦書房有限会社.
水俣市史編さん委員会(1991)『新水俣市史 上・下巻』水俣市.
創立記念誌編集委員会(1973)『創立記念誌-袋小学校100周年・袋中学校25周年-』創立記念事業実行委員会.
佐藤武春(1972)、第一次訴訟証言.