原発と就職列車
―原発が過疎地につくられる構造―
元鹿児島大学法文学部(マスコミ論)
杉原 洋
キーワード:集団就職、1956年経済白書、1964年原炉立地審査指針、1962年全国総合開発計画
1..はじめに
本報告では、日本の原発はなぜ過疎地といわれる地域に立地しているのか、なぜそういう地域にしか立地しないのか―その構造を作り出した国家政策的背景を探る。
戦後日本社会がひたすら追い続けた高度経済成長は、一方に人口、産業、富の集中する「過密地」を作り出し、それとメダルの裏表の関係として、他方に人口 流出、産業立地なし、3割自治と揶揄された「過疎地」をつくり出してきた。この政策的につくり出された「過疎地」を狙うようにして、原発が忍び寄ってき
た。そのことを示すのが1964年の原子力委員会決定「原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめやすについて」だ。この決定が示すのは、「放射能 被ばくをもたらすような過酷事故が起きたときには、集団としての大きな人口が危険にさらされることを避ける」ということであり、逆に言えば、多少の人口は
犠牲になってもいいということだ。原発の存在は、このような「過密/過疎」の構造が前提となっており、かつ「過疎地切り捨て」とでも言うべき差別的判断に 支えられている。
2.集団就職列車が走った
1956年3月30日朝、鹿児島駅からSLに引かれた6両編成の臨時列車が出発した。行く先は大阪。鹿児島県からの集団就職専用列車の第1号で、中学を 卒業したばかりの15歳の少年少女たちが乗っていた。鹿児島県からの激しい若年労働力の流出が始まった(鹿児島から集団就職列車が運んだ中学卒業生は、専 用列車運行の前の52年から運行廃止の74年までに、14万4220人に上っている)。
56年7月の「経済白書(昭和31年 年次経済報告)」は、「もはや戦後ではない」と記述した。それほど努力しなくても量的景気が実現した戦後復興期は 終わって、これからの日本経済の成長・発展には「技術の進歩」が不可欠であり、「進歩とは原子力の平和利用とオートメイションによって代表される技術革新 (イノベーション)である」と踏み込んだ。
戦後日本の「核」開発は、54年に日本初の原子力関連予算が成立したことから動き出したが、集団就職列車が走り始めた時期は、日本資本主義が「原子力利 用」に踏み出した時期とぴったり重なる。55年12月、原子力3法公布▽56年1月、原子力委員会設置▽56年5月、科学技術庁設置▽57年6月、放射線
医学総合研究所設置▽57年8月、日本原子力研究所のJRR-1号機が日本初の臨界▽57年11月、日本原子力発電(株)設立―という具合だ。
3.原発は都会には造らない
1964年5月に原子力委員会が決定した「原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめやすについて」は、「原発は都会には造らない」ということを示している。
審査の指針の3条件として、①原子炉からある距離の範囲内は非居住区域、②非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯、③原子炉敷地は、人口密集地帯からある 距離だけ離れていること――とした。「ある距離だけ離れていること」を判断する目安として、「外国の例(例えば2万人Sv)を参考とすること」と書いてい る。
「人Sv」は集団線量という考え方で、2万人が1Svずつ浴びるときの総線量が2万人Svだ。この線量を前提にすると、100万人都市なら1人当たり 0.02Sv=20㍉Sv=2万μSvまで浴びることを覚悟することになる。だからそんな都市の近くに原発を造るのは不可というわけだ。
なお原子力規制委員会の発足に伴い、2013年に新規制基準が施行されて、この「立地審査指針」はいわば失効した。福島事故を踏まえるなら、「原発周辺は 非居住区域・低人口地帯・密集地を避ける」という基準に基づき、非居住区域・低人口地帯を非常に広大に設定しなければならないが、それは非現実的というこ とだろう。
4.過疎地はなぜ生まれたか
集団就職列車が走り始めた56年と「立地審査指針」が作られた64年の、ちょうど中間60年に姿を現すのが「所得倍増計画」だ。太平洋ベルト地帯に石油 コンビナート、造船、製鉄、火力発電などの工業施設を集中し、道路・鉄道、港湾・空港などのインフラ整備で連携・連動する産業構造をつくりあげ、10年間
で所得を倍にするプランだ。太平洋ベルト地帯では猛烈な求人熱が起こり、地方の中卒に目が付けられ、集団就職列車の運行は国策となった。
若年労働力が流出すると地方が衰退することは明らかなので、「所得倍増計画」は、①「後進性の強い地域(南九州など)の開発促進ならびに所得格差是正の ため、速やかに国土総合開発計画を策定」する、②農業規模拡大・機械化などによって「農業近代化」を進める(農業基本法の制定)――とも明記した。
全総計画と農基法農政を合わせてとらえると、「工業を中心とする地帯」「中枢管理、文化、教育、サービス機能を担う大都市圏」「それらを支える食糧供給 基地、観光基地としての農林漁業地帯」という国土分業論によって高度経済成長期がデザインされたということだ。しかしそれは全くうまくいかず、東京は肥大
化し地方は過疎の荒波が押し寄せ続けている(国土計画はその後、新全総、3全総、4全総、5全総とつくられ、いずれも過密/過疎構造の打開をうたってはい るが、うまくいっていない)。
「進歩と成長」という戦後的パラダイムに基づく国土計画・農業政策とその失敗が、過密/過疎構造を固定化し、それこそが、戦後日本が原発大国となる前提条件だった。
私たちの暮らしの〝豊かさ〟が、この〝貧しい構造〟によってなり立っていることを直視し続けることが求められている。
付言しておきたいのは、74年に制定された電源3法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別措置法、発電用施設周辺地域整備法)だ。平たく言えば、過 疎地にしか原発が立地できないことへの慰謝料・迷惑料制度だ。60年代後半から軌道に乗るかに見えた原発推進は、米ミネソタ州での「原子力停止法」制定の
運動(小差で否決)や71年の関電美浜1号機の放射能漏れ事故、73年8月の四電伊方原発の設置取り消し・工事差し止め訴訟―など原発反対運動の高まりに 直面した。これをなだめるために導入されたのが電源交付金制度と言っていい。
財政構造の根本的脆弱性を抱えた過疎自治体は、いったん交付金を手にすると、それにすがる構造を抱え込んで原発依存体質が固定化される。「立地審査指 針」が示すように、原発立地地は発展して人口密集地になってはいけない場所だ。過疎地であり続けることを求められている場所でもある。このことを考え続け たい。
参考文献
経済企画庁(1956)「昭和31年 年次経済報告」(インターネット検索)
閣議決定(1960)「国民所得倍増計画について」(インターネット検索)
閣議決定(1962)「全国総合開発計画」(インターネット検索)
原子力委員会決定(1964)「原子炉立地審査指針及びその適用に関する判断のめやすについて」(インターネット検索)
高木仁三郎(1993)「反原発、出前します」七つ森書館(新装版2011)
南日本新聞連載(1994)「就職列車が走った」(10月24日から10回掲載)