原子力と平和
─福島第一原子力発電所事故と原子力の内実─
京都大学原子炉実験所
小出 裕章
キーワード:原子力、核、福島第一原子力発電所事故、平和利用、軍事利用
1.はじめに
日本では、「核の軍事利用」と「原子力の平和利用」は別物だと国家が主張し、マスコミはその宣伝だけを流し続けた。そのため、大多数の国民はそれを信じ てきた。私自身も10代の末に、原爆は悪だが、唯一の被爆国日本として原子力の平和利用を推進することは大和民族の責務だと考えた。広島・長崎原爆被爆者
の人たちも、核廃絶の先頭に立って戦ってきたが、彼らもまた原子力の平和利用は善だと考え続けてきた。化石燃料はいずれ枯渇してしまうが、原子力は無尽蔵 のエネルギー源だ、原子力発電ができるようになれば、電気の値段がつけられないほど安く発電できる、原子力発電所は安全で、大きな事故は決して起きないと
された。しかし、機械に事故はつきもので、絶対に安全な機械などない。そこで、原子力を推進する人たちは、さまざまな法令を作って原子力発電所を都会から 離して過疎地に押し付けた。それにも拘わらず、大事故は起きないのだから住民の避難訓練は不要とされた。その後、1979年の米国スリーマイル島原子力発
電所事故、1986年の旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故が事実として起きた。巨大事故は起きないと言えなくなった原子力推進派は、原子力発電所から 半径8km以内に限って、ほぼ無意味とはいえ、おざなりな避難訓練を実施するようになった。そして、福島第一原子力発電所事故は起きた。
2.福島第一原子力発電所事故
2011年3月11日午後、東北地方太平洋沖地震が起きた。その地震のマグニチュードは9.0、その地震が発生したエネルギーは広島原爆に換算すれば3 万発分に相当する。地震によって多数の家屋が倒壊、道路は寸断され、送電線の鉄塔もあちこちで倒れて、広範囲に停電となった。さらに、巨大な津波が東北地
方太平洋岸を襲い、三陸沿岸を中心に海沿いの多数の町が流されて壊滅した。そして福島第一原子力発電所も地震と津波に襲われた。原子力発電所の原子炉に は、運転が進むにつれて厖大な核分裂生成物が蓄積してくる。核分裂生成物は放射性物質であり、発熱している。その発熱を崩壊熱と呼ぶ。今日、標準的になっ
た100万kWの原子力発電所の場合、原子炉の運転を止める、つまりウランの核分裂連鎖反応を止めてもなお、21万kWの崩壊熱が残る。その発熱は350 リッター、つまり家庭の風呂桶2杯近い水を1秒ごとに蒸発させる。崩壊熱は1日たつと約10分の1に、1月たつとさらに10分の1程度に減っていくが、事
故直後の崩壊熱は炉心を容易に熔解させる。そのため、原子炉は冷却できなければ熔けてしまう機械である。冷却するためには水を送らねばならない。水を送る ためにはポンプが動かなければならない。ポンプを動かすためには電気が必要である。地震に襲われた福島第一原子力発電所は直ちに原子炉の運転を止めた、つ
まり自分で発電することができなくなった。その場合には外部の送電線から電気の供給を受けるつもりだったが、送電線の鉄塔が倒壊し、外部からの電気を得ら れなくなった。その場合には、発電所敷地内に設置した非常用発電機が起動して必要な電気を供給するはずだった。しかし、非常用発電機は津波に襲われて動か
なくなってしまった。こうして福島第一原子力発電所は全所停電(ブラックアウト)となり、当日運転中だった1号機、2号機、3号機の原子炉が熔け落ち、大 量の放射性物質が環境に放出された。
核分裂生成物とは、約200種類の放射性物質の集合体で、寿命の長い放射性物質もあれば、短いそれもある。また、完全にガス状の放射性物質もあれば、揮 発度の高い放射性物質、低い放射性物質もある。さらに水に溶けやすいもの、溶けにくいものなどさまざまである。重要な核分裂生成物としてはゼノン
133(半減期5日)、よう素131(半減期8日)、セシウム137(半減期30年)、ストロンチウム90(半減期28年)などがあるが、大気中に放出さ れた放射性物質で長期にわたって人間に影響を及ぼすのはセシウム137である。福島第一原子力発電所の熔け落ちた1号機から3号機が大気中に放出したセシ
ウム137の量は、日本政府がIAEA(国際原子力機構)に提出した報告書によれば、15ペタベクレルで、広島原爆が放出したセシウム137の168発分 に相当する。
汚染物質が大気中に放出されれば、あとは風に乗って流れる。日本は北半球温帯に属し、大気上層では偏西風が吹いている。福島第一原子力発電所は太平洋岸 に立地し、東半分は太平洋である。そのため、福島第一原子力発電所から放出された放射性物質の大部分は偏西風に乗って太平洋方面に流れた。しかし、地表面
では、西風の日もあれば、北風、南風、東風の日もある。そのため、広島原爆に換算して約27発分のセシウム137が東北地方、関東地方を中心にして日本の 国土に降り注いだ。およそ1000平方キロメートルの範囲は1平方メートル当たり60万ベクレルを超えるセシウム(Cs-134とCs-137の合計)で
汚染され、今現在も帰還困難区域として大地が失われ、人々は根こそぎ生活を破壊され、故郷を追われて流浪化した。第2次世界戦争で日本は負けた。しかし、 「国破れて、山河あり」で、大地はあった。だから人々は生きられた。しかし、今は大地自体が失われてしまった。現在の帰還困難区域には、そこを故郷として 生きてきた人々は戻ることができない。こんな悲劇は戦争が起きても起きない。
その周辺にも、約1万4000平方キロメートルに当たる大地が、日本の法令に従えば、放射線管理区域に指定しなければならない汚染を受けた。放射線管理区 域とは私のような放射線業務従事者だけが立ち入ることを許される汚染現場で、一般の人たちはごく特殊な場合を除いて入ることすら許されない。放射線業務従
事者にしても、その場に入ったら、水を飲むことも食べ物を食べることも、排泄することすら許されない場である。つまり、普通の人はもちろん、被曝を覚悟す る人間でも普通の生活が許されない場である。日本は「法治国家」といわれてきた。国民が法令を破れば国家が処罰するのだという。それならば、自分が決めた
法令を守るのは国家の最低限の義務だと私は思う。しかし、日本政府は、あまりに広大な地域が汚染されたため、今は緊急事態だとして、放射線管理区域にしな ければならない場に数百万人の人々を棄てた。放射線業務従事者でさえ水を飲むこともできない場に赤ん坊を含めごく普通の人々が、日常の生活を送るしかない 状態にされてしまった。
3.日本の原子力開発の内実
技術にはもちろん「色」がある。科学はもともと未知のものを知りたいという人間として抑えることができない欲求から生まれた。しかし、その科学的な欲求 すら、それぞれの時代、場所に基づいた歴史によって規定された。そして、新たに知ることができた知識はそれぞれの歴史に基づいて、特定の目的のために利用
された。ウランの核分裂連鎖反応は1938年暮にドイツの化学者オットー・ハーンとリ-ゼ・マイトナーによって発見された。ウランの核分裂連鎖反応は一度 開始すると自律的、加速度的に反応が進行するという爆弾にうってつけの性質を持っており、その発見がちょうど第2次世界戦争の前夜だったため、ドイツ、日
本を含め世界中が原爆製造の研究を始めた。結局、原爆を完成させることができたのは、主戦場にならず、そして圧倒的な資源を持っていた米国だけであった。 核分裂の連鎖反応の発見が、原爆として開花したことは科学・技術的な必然でもあったが、その発見が第2次世界戦争の前夜でなければ、別の発展の仕方をした であろう。
戦後、米国は核兵器の独占を謀ったが、早くも1949年には旧ソ連が原爆実験を成功させ、世界は核軍拡競争の時代に入る。過剰な原爆を保有し、ウラン濃 縮工場などが重荷になった米国は、1953年に当時のアイゼンハワー大統領が国連で「Atoms for Peace」演説を行い、核兵器製造技術を商業目的で使用することで、国家の負担を軽減し、そして金を儲けることを目論んだ。そのため、核兵器製造という
高度な軍事技術は、今度は「原子力の平和利用」として金儲けの手段とされた。戦争で負けた日本は、一切の核=原子力研究を禁じられていたし、学術会議を中 心として多くの学者は、「原子力の平和利用」は核研究に結び付くとして研究そのものに反対した。しかし、当時改進党の若手代議士だった中曽根康弘氏が「学
者がぼやぼやしているから札束で頬をひっぱたく」として、1954年3月にいきなり原子炉建造予算を国会に提出し、ろくな議論もないまま成立してしまっ た。その予算額は2億3500万円、核分裂性ウラン(U-235)の質量数をもじったものだった。そうなると学者も雪崩をうって「原子力の平和利用」研究
にのめりこんだ。以後、日本は原子力の平和利用は善だとして、政、官、産、学、司法、マスコミすべてを巻き込んで、原子力開発に突き進んだ。
しかし、もともと技術に「平和」「軍事」の区別はない。区別が存在するとすれば「平時利用」と「戦時利用」でしかない。「平和」を標榜して開発された技 術も、必要となればいつでも「軍事」に使える。1969年に外務省の外交政策企画委員会が作成した「わが国の外交政策大綱」には「核兵器については、
NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策はとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、これに対す る掣肘を受けないよう配慮する。又、核兵器の一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓発することと
し、将来万一の場合における戦術核持込みに際し無用の国内的混乱を避けるように配慮する」と書かれている(外務省、1969)。米軍が沖縄に核兵器を持ち 込んでいたことはすでに明らかとなったが、もともと日本は核兵器製造の技術的能力を保持するためにこそ「原子力平和利用」を進めたのであった。
4.差別と平和
原子力にかけた夢はことごとく破れた。原子力の資源であるウランの地殻中の埋蔵量はそれが発生できるエネルギー量に換算して石油の数分の1、石炭の数十 分の1しかない。化石燃料が枯渇したら未来は原子力という夢は成り立たず、原子力の燃料であるウランは化石燃料が枯渇するはるか前に枯渇してしまう。原子
力発電が安価という夢も、事実として崩れた。有価証券報告書を使って計算すれば、原子力は火力よりも水力よりも高い(大島堅一、2011)。さらに、福島 第一原子力発電所事故被害者の苦難を一体どのように金銭に換算すればいいのか、私には分からない。いずれにせよ福島第一原子力発電所事故の被害は厖大であ
り、その被害をきちんと賠償しようとすれば、東京電力など何度倒産しても足りない。国は国費を投入して東京電力の倒産を防いでいるが、その費用を電気料金 に上乗せすれば、原子力発電の電気代が他のどの発電方法に比べても高くなるのは当然である。その上、今後永遠ともいえる長さに亘って必要となる核のゴミの
管理を考えれば、原子力発電の電気代が本当はいくらになるのか、想像もできない。私たちは全く愚かな夢に酔ってきたが、その夢が破れた今なお日本の国家は 原子力を諦めない。なぜなら、自民党の石破茂氏が「原子力発電というのがそもそも、原子力潜水艦から始まったものですのでね。日本以外のすべての国は、原
子力政策というのは核政策とセットなわけですね。ですけども、日本は核を持つべきだと私は思っておりません。しかし同時に、日本は(核を)作ろうと思えば いつでも作れる。1年以内に作れると。それはひとつの抑止力ではあるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、それこそもっと突き詰めた
議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない。なぜならば、日本の周りはロシアであり、中国であり、北朝鮮であり、そしてアメリカ合衆国であり、 同盟国であるか否かを捨象して言えば、核保有国が日本の周りを取り囲んでおり、そして弾道ミサイルの技術をすべての国が持っていることは決して忘れるべき
ではありません」(TV朝日、2013)と述べたように、原子力は核武装と密接に関連しているからである。
原子力の場にいる人間として、原子力は危険で破滅的だと私は思う。しかし、私が原子力に反対するのは単に危険だからではない。原子力は徹頭徹尾、無責任 で、他者に犠牲をしわ寄せする。平常運転時の被曝労働は、9割をはるかに超えて下請け・孫請け労働者に負わされている。原子力発電所や核燃料サイクル施設
は、決して都会には作ることができず、過疎地にしわ寄せした。そして、事故が起きてしまえば、過疎地の人たちが苦難のどん底に落とされる。仮に事故が起き なくても、ウランを核分裂させてしまえば、核分裂生成物と呼ばれる放射性物質が大量に生み出され、人類はいまだにその無毒化の手段を持っていない。それは
生命環境から隔離するしかないが、隔離しておかなければならない期間の長さは100万年である。人類の生存自体が分からない長さに亘って、今はこの世にお らず、選択権もない未来の人々や生命に、毒物を押し付けることになる。「未来犯罪」と呼ぶべきだろう。そのうえ、日本で「原子力」と呼ばれているものはも
ともと「核」と同じものであり、原子力を選択してしまう限り、核兵器と縁が切れなくなる。日本という国は、意図的に「原子力の平和利用」を標榜しながら 「核兵器」を保有する能力を持ちたいと思ってきた。しかし、力の論理では世界の平和は築けない。原子力の問題は深く平和の問題と通底しており、本学会の皆 さんにも十分に関心を持ってほしい。
参考文献
外務省(1969)「わが国の外交政策大綱」.
大島堅一(2011)「原発のコスト――エネルギー転換への視点」岩波新書.
TV朝日番組「報道ステーション」2013年8月16日放映