戦争と水インフラ破壊
-朝鮮戦争とベトナム戦争におけるアメリカの軍事行動からの考察-
War and Destruction of Water Infrastructures
-Considerations from Military campaign of U.S. in the Korean War and the Vietnam War-


立命館大学大学院
政策科学研究科博士後期課程
玉井 良尚

キーワード:アメリカ、戦争、水インフラ、ダム、堤防、国際人道法

1.    はじめに
 本報告では、戦争において行われてきた水インフラの破壊をアメリカの軍事戦略の観点から考察することを目的とする。この考察を行うために、第一に、朝鮮 戦争での北朝鮮の水豊ダムへの爆撃を、第二に、ベトナム戦争における北ベトナムの堤防への攻撃などの事例を取り上げる。

2.    朝鮮戦争におけるアメリカ軍のダム爆撃
 1950年6月に勃発した朝鮮戦争では、停戦交渉が模索されているさなかの1952年6月23日にアメリカ空軍とアメリカ海軍航空隊の合同作戦として、 北朝鮮最大の発電用ダムである水豊ダムへの爆撃に踏み切った。この作戦は北朝鮮側から電力供給能力を奪うことを目的に発せられた。この爆撃の結果、ダムに おける発電施設の破壊には成功したものの、ダム自体の破壊まではその堅牢さによってできなかった(Futrell, 1983.)。結果的に、ダム破壊による人工洪水は発生せず下流域に住む民間人の犠牲者は出なかったものの、これはアメリカ史上初の大規模な水インフラへ の攻撃である。

3.    ベトナム戦争における水インフラへの攻撃
 ベトナム戦争では、北ベトナムは自国内の堤防に地対空ミサイルなどの防空兵器を設置し、アメリカ側はそれを無力化するために空からの攻撃を加えた。堤防 上にある防空兵器をナパーム弾、クラスター爆弾で攻撃し破壊したが、結果として、堤防も攻撃していることとなり、完全な決壊はなくとも堤防の構造に負荷を かけ脆弱にしたと、アメリカは国際的に批判されることとなった。ただ、アメリカ側も堤防破壊によって人工的な洪水を引き起こし、農地に被害を与えて、北ベ トナムの食糧供給にダメージを与えようと計画していたとの指摘がある(Lacoste, 1973)。
 さらに、1972年12月の「ラインバッカーⅡ作戦」では、アメリカは北ベトナムの首都ハノイとハイフォン港に対して徹底した戦略絨毯爆撃を行い、それによって浄水施設など水インフラも多く破壊した(Pribbenow, 2002)。

4.    水インフラ攻撃を抑止するものはなかったのか?
 アメリカは、上記の2つの戦争において明確に水インフラを攻撃している。では、そのような攻撃を行うことに対して抑止するものはなかったのであろうか。
 朝鮮戦争においてアメリカ軍が攻撃した水豊ダムは、ダムで発電した電力が北朝鮮だけでなく中国北東部にも送電され利用されていた。さらに水豊ダムが中朝 国境である鴨緑江に位置している。ゆえに、ダムの破壊によって停電や人工洪水の被害が中国側にも及ぶのではないかとの声もあったが、その中国も北朝鮮側に 立って参戦していたことから重大な抑止理由とならなかった。また、ダム破壊による被害が中朝の広範囲に及ぶことによって、休戦交渉が滞るのではないかとの 不安からダム攻撃作戦に際しての批判の声がイギリス議会の労働党から湧き上がったが、作戦当時は保守党のチャーチルが政権に就いていたために作戦は抵抗な く進められることになり、中止へと至ることはなかった(Hermes, 1966)。
ベトナム戦争においては、北爆開始後の1965年ごろからアメリカ軍による堤防攻撃に対しての批判が国営マスメディアを使って共産主義諸国を中心になされ 始めた。当初、これは東西冷戦下での批判合戦の一部であったといえ、アメリカ側も堤防への攻撃は故意ではないこと、これは北ベトナム側のプロパガンダ戦の 一種であるとの反論を行っていた。
 しかし、1967年ごろからアメリカ軍が空爆に際して攻撃対象の制約を解除していくと、北ベトナム側が堤防上に対空兵器を設置していたこともあって、ア メリカ軍の堤防の対空兵器に向けた攻撃は増加した。アメリカ軍は対空兵器を攻撃しているつもりでも、事実上同時に堤防もまた攻撃しているのと同じであるた め、アメリカの反論は客観的に見れば根拠を失うものとなっていった。これに比例するかのように、西側反戦運動家の間でもアメリカ軍による攻撃は堤防を破壊 するものとする批判が大きくなった(Parks, 1983.)。このようにアメリカに対する国際的批判が高まった。しかしこの状況にもかかわらず、北ベトナム側を和平交渉のテーブルに着かせるべく、ハノ イへの水インフラも含めた戦略絨毯爆撃がなされた。ベトナム戦争末期のアメリカの外交戦略上の理由により国際世論の批判も水インフラ攻撃を抑止できなかっ たが、外交戦略上の理由による「切り札」としての攻撃であることは注目すべきである。

5.    水への攻撃禁止を規定する国際人道法の成立でアメリカの軍事戦略は変化したのか?
(1)    ジュネーヴ諸条約第1追加議定書
 ベトナム戦争後の1977年にジュネーヴ諸条約第1追加議定書(以下、第1追加議定書)が採択された。この第1追加議定書の54条、56条の条文規定の 中で、戦時における「水」への攻撃が禁止されることになった。54条では、飲料水の施設および供給設備、かんがい設備等の攻撃、破壊を禁止して、文民たる 住民に対して水を十分でない状態に置いてはならないとしている。56条では、ダムおよび堤防が軍事目標である場合であったとしても、文民たる住民の間に重 大な損失をもたらすときには、攻撃の対象としてはならないとされる。このように、国際人道法では、ダムや河川、浄水施設など水に関連する施設・水源への攻 撃は原則禁止されるに至った。しかし、アメリカはこの第1追加議定書には参加していない。
(2)    湾岸戦争以降
 第1追加議定書が成立してから、アメリカにとって初めての大規模戦争であった湾岸戦争に関しては、アメリカ側が水インフラを明確に狙った公式の作戦はな い。しかし、アラブ系メディアによると、アメリカ軍がイラク国内における浄水施設を攻撃したとの報道があったが、アメリカ側はそれをイラク軍の攻撃による ものか、または誤爆によるものと発表している(Rogers, 1996)。それ以後のアメリカが参加した戦争において、公式に水インフラを狙った軍事作戦は発表されていなかったが、2014年8月のイラク国内におい てダムを占拠した非国家武装勢力に対して、ダム奪還のために正式な作戦として空爆を行い発表された。

6.    おわりに
 上記を整理すると、1)アメリカは朝鮮戦争とベトナム戦争では明確に水インフラへの攻撃を行っており、しかも、ベトナム戦争末期には国際的世論の厳しい 監視の目があったにもかかわらず、北ベトナムの首都ハノイに対して水インフラも含めた戦略爆撃も行っている。2)朝鮮戦争の水豊ダム攻撃においても 1972年のハノイにおける戦略爆撃においても、水インフラ攻撃は和平交渉が模索されている中でも行われている。両戦争とも開始時には、水インフラ攻撃は あまりなされず、戦局の膠着状態が続いたころから水インフラへの攻撃が始まっている。3)水インフラへの原則的な攻撃禁止を規定した第1追加議定書が成立 して以降、アメリカの公式発表では意図的な水インフラ攻撃はなされていない。
考察の結果として、水インフラ攻撃をアメリカ軍が何度も行ってきたことが確認される。しかし、水インフラ攻撃は、「切り札」のような最後の選択肢とみるこ とができ、または第1追加議定書採択後にアメリカが同条約に未署名であるにもかかわらず同様の意図的な攻撃がなされなかったことから、水インフラ攻撃の非 人道性を主張する国際世論の存在がアメリカ軍の軍事作戦に影響を及ぼした可能性がある。

参考文献
・Futrell, Robert F. (1983). The United States Air Force in Korea, 1950-1953, Office of Air Force History.
・Hermes, Wulter G. (1966). Truce tent and fighting front (United States Army in the Korean War, Volume 2.), Office of the Chief of Military History.
・Lacoste, Yves. (1973). An Illustration of Geographical Warfare: Bombing the Dikes on the Red River, North Vietnam, Antipode 5, 1-13.
・Parks, W Hays. (1983). Linebacker and the Law of War,  Air University Review, January-February 1983.
・Pribbenow, Merle L. (trans) (2002). Victory in Vietnam : the official history of the people's army of Vietnam, 1954-1975 : the Military History Institute of Vietnam, University Press of Kansas.
・Rogers, A.P.V. (1996). Law on the battlefield, Manchester University Press.