日本平和学会2010年度秋季研究集会
平和と芸術分科会 (責任者 奥本京子)
ニュースレター報告
2010年秋季研究集会では当分科会の開催が叶わなかったので報告を掲載することはできないが、以下に分科会の今後の展望のための問題提起をしておきたい。
芸術家・研究者の中には、平和創造のために活躍する人々がいる。しかし、平和学の立場から、これらの活動・研究を捉えることは未だ十分ではない。では、平和と芸術の結合を阻む要素は何であろうか。<芸術家>の世界と、<平和家(平和ワーカー)>の世界の乖離について、演劇というジャンルを通して、ガルトゥングは次のように述べている。「良い劇作家は、これ[共有されている信念の原理を明らかにすること]を演劇のテーマとして誰よりも上手に活用し、両者[敵対する紛争当事者]に分からせることができるであろう。しかし、そうしたことに精通する者は、大抵、劇作などしないし、政治に関連する演劇を書く者は、政治、とくに世界政治について無知である。劇作家は登場人物である人間に関心を持ちすぎる、つまりミクロ・レベルに執着しすぎるのであろう。」(Johan Galtung, Transcend and Transform. Paradigm Publishers, 2004.)これは、平和ワークにおける芸術アプローチが希少であることの一つの理由を指している。劇作家の多くが、ミクロ・レベルにしか関心を持たないという分析も、あながち的外れではないであろう。国際政治や国家間・地域間の問題に関心をもつ劇作家・芸術家が少ないとすれば、それは社会にとって大問題である。芸術家は、人間的な側面を扱うと同時に、社会的なテーマを扱う責任があろう。また反対に、社会的なテーマを扱う作品ほど、その人間的な背景を尊重する必要があろう(平田オリザ,『演技と演出』講談社, 2004)。
当分科会では、その両者(社会性と人間性)が相まって作用し、自由で民主的な社会を構築するために、われわれ市民の保持する芸術家的機能について検討したい。紛争を平和的転換するための芸術の姿の模索が不十分で、われわれが芸術を通して平和ワークを推進する主体となるには長い道のりが必要である。しかし、思考停止せずに創造的な対話の姿勢を保持することは平和学に不可欠であり、それは芸術によっても培われるであろう。芸術的要素を持った平和ワーカーのあり方を模索するためにも、当分科会が果たす役割は小さくない。平和研究・平和教育・平和活動等をつなぎ、市民が連帯していくために、芸術を考察・実践するこの場を活用して頂きたく、多様な内容・形式の報告を歓迎する。希望者は、電子メールにて、okumoto(a)wilmina.ac.jpまでご連絡下さい。(責任者:奥本京子)