テーマ:「日本被団協創設50年によせて」
司会:高橋博子(広島市立大)
報告:舟橋喜惠(広島大・名誉教授)「日本被団協初代理事長・藤居平一について」
報告:渡辺力人(原爆訴訟を支援する広島県民会議)「原爆症認定集団訴訟が問うもの:広島地裁勝訴判決を受けて」
討論:森田裕美(中国新聞)、竹峰誠一郎(早稲田大・院生)
広島・長崎の原爆被爆者の全国組織である日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は、1956年8月10日、第2回原水爆禁止世界大会が開催された長崎で創設された。創設から半世紀の節目を迎えるにあたり、分科会グローバルヒバクシャが企画し、部会「日本被団協創設50年によせて」が開催された。
先ず日本被団協の初代事務局長を務めた藤居平一(1915~96)の足跡をたどる報告が、晩年にインタビューをした舟橋喜恵広島大学名誉教授からなされた。藤居は、いわゆる平和運動家ではなく材木商を営み、地域では民生委員を務めていた。また今日の法律上の被爆者でもなかった。ただ「自分の親父は原爆で殺された」という意識は強くもっていた。
藤居は『原爆に生きて』(原爆被害者の手記編集員会、1953)に感化され、「原爆被害者の救済こそが民生委員の仕事だ」、「被爆者がお互いに手をつないで、運動を展開していく必要がある」と、民生委員として被爆者運動や原水爆禁止運動に入っていった。運動に献身した藤居さんの考え方を一言でいえば「まどうてくれ」(広島弁で「つぐなってくれ」)の精神だった。
藤居は55年広島で開催された、初めての原水爆禁止世界大会に準備段階からかかわり、55年9月の日本原水協成立後も救援委員として活動する。救援運動の目的は「原水爆禁止と被爆者の自立更生」と位置づけ、広島県被害者大会や国会請願の中心を担った。「原水爆禁止と被爆者救援は車の両輪」とうたわれてはいたが、両者は緊張関係にあり、被爆者救援は陰に隠れる傾向があった。「救援派」と藤居は呼ばれた。
持ち出しは多く、例えば国会請願の旅費を拠出していた。商売はまかせっきりで、娘さんから「『お父さん、月謝が出せないよ』といわれたことで、運動から身を引いた」と言う。原水禁運動の分裂の前に一線を引き、商売のほうに戻ったが、その後も影で活動家の生活を支援したりしていた。
以上の舟橋報告は、日本被団協の原点の一端を見つめ直す発表であった。続いて、日本被団協が現在組織を上げてとりくんでいる、原爆症認定集団訴訟について、渡辺力人被爆者相談所所長から報告がなされた。
現在(2006年11月)326人以上、広島では72名が原爆症の認定を求めて申請を行い、却下された人のうちの201名が原告となって2つの高裁と16の地裁で訴訟を起こしている。2006年8月4日、広島地裁では原告41名すべてが全面勝訴となった。
それはまず第1に、「DS86等に基づく推定線量としきい値とを機械的に適用することによって放射線起因性の有無を判断することは相当ではない」からであり、第2に「ひばく状況、被爆後の行動やその後の生活状況、具体的な症状や発症に至る経緯、健康診断の結果を全体的・総合的に考慮したうえで」、原爆放射線被爆と病気との関係を検討しなければならないからであり、第3に、他の原因が関係している場合でも、被爆による影響が否定できない場合は、その起因性を認めるべきだという判断がくだされたからであった。
つまり、核兵器開発を進めるような機関が生み出した基準を機械的に適用するのではなく、被爆の実態に則した判断がなされ、証明できなければ被爆事実がないとして申請を却下してきた厚労省の判断を覆したのである。また基準の中で無視されてきた黒い雨、残留放射線、食料や水を摂取することによって放射性物質が体の内部に入ってくることによって生じる内部被曝の問題、などが本裁判を通して重要な問題として浮上したことが報告された。
続いて在外被爆者、マーシャル諸島のヒバクシャ、そして原爆症認定集団訴訟を最前線で取材してきた中国新聞の森田裕美氏が同訴訟の意義について討論を行った。
さらに早稲田大学大学院の竹峰誠一郎氏が討論者として、舟橋氏に対しては「まどうてくれ」の意味を深めることが重要ではないのかと、その意味について、藤居氏は、自らの被害を訴えるだけでなく他者への眼差しをもっていたのではないかと、第2回原爆禁止世界大会を長崎で開催しようとしたり、世界のヒバクシャとの連帯も訴えていたことについて質問を行った。渡辺氏に対しては「原爆症認定集団訴訟は、被爆援護の充実という側面もあるが、それだけではなく低線量の内部被曝の問題を顕在化させた普遍的な意味がある。ヒロシマ・ナガサキ原爆の実相をみるときに、一瞬のピカ・ドンだけではなく、その後の見えない被爆問題にしっかりと目を向ける必要がある」とコメントした。
被爆者運動はその始りから現在に至るまで、一貫して「まどうてくれ」と償いを求め、使用することが許されない兵器として核兵器の恐ろしさを訴え続けてきたことが、本部会で浮き彫りになった。(竹峰誠一郎・高橋博子)