司会:郭洋春(立教大学)
報告:稲垣聖子(立教大21世紀社会デザイン研究科)「公害反対運動における支援者たちの活動-水俣の事例」
討論:栗田英幸(愛媛大)
討論:鶴田雅秀(丸木美術館)
分科会を始めるにあたって、当分科会の運営母体となっている環境・平和研究会の紹介と代表の交代の報告・挨拶を受けた。
続いて稲垣報告であるが、本報告の目的は、水俣病の被害者が支援者と共同で始めた産直活動が中止に至った経緯について、その原因を分析し、当事者と支援者の役割について検証することであり、その活動が水俣運動の中で果たした役割について考察を試みることである。
まず、被害者支援事業として甘夏が選ばれた理由・背景について報告がなされた。支援者の組織として財団法人水俣病センター相思社(以下、相思社)が、1974年に設立されたが、財政を寄付によって賄おうとしたが、目標金額には届かず、その結果建設資金に回され運営資金がないところから組織が運営されることとなった。一方、相思社の設立の目的の一つである被害者との協働として甘夏栽培を始めることになった。
他方、被害者の組織としては水俣病患者家庭果樹同志会が結成された。この組織の理念は、被害者が加害者にならないというものであり、さらには甘夏の生産を通して、生産者と消費者との対等な立場を築くことであった。
この生産活動は、開始当初は生産世帯数が19世帯から1989年には60世帯へ。生産量は1978年の約107トンから1989年には約800トンへと増大した。一方で、購入者が増えると、安定した出荷並びに品質を重視せざるをえなくなり、その結果、農薬を使用してしまうなど、市場の論理に巻き込まれるようになり、それが消費者の信頼を失うこととなった。こうした水俣病被害者支援、自律を目指した協働作業は、1989年に幕を下ろすこととなった。
稲垣報告を受けて、栗田・鶴田両会員から以下のコメントが出された。第一に、生産者と消費者との対等な関係を築くということであるが、「対等」とは何か。何に対して対等なのか、ということ。第二に、対等性を作り出す条件は何か。失敗の原因としての市場をどう評価するのか。言い換えれば、市場のマイナーチェンジか、フルモデルチェンジか。第四に、当事者と被害者の位置づけ。特に、支援グループは当事者なのか。第五に、1989年に失敗支援事業のその後の20年、すなわちこんにちはどうなっているのか。第六に、協働=共に生きる、という思想は現在ではどのように生かされているのか。第七に、甘夏事業に参加できなかった(しなかった)他の被害者はどうなっているのか。最後に、販売と生産との論理は矛盾しているのか。言い換えるならば、失敗しない方法もあったのではないか。
これらのコメントに対して稲垣会員の方から、一つ一つ丁寧なリプライがあった。その後、当該事業の理念と失敗からどのような教訓を学ぶべきかについて、議論を交わした。特に、消費社会、市場原理に対するアンチテーゼという意味合いがあった水俣被害者支援事業が、事業の拡大とともに市場に巻き込まれ、理念が矮小化していった状況をどう考えるかについて、活発な議論が成された。(郭洋春)