司会:蓮井誠一郎(茨城大学)
報告:戸崎純(東京都立短期大学)「サブシステンス志向の可能性」
討論:栗田英幸(愛媛大学)
環境・平和分科会では、戸崎純会員により「サブシステンス志向の可能性」と題された報告がなされた。戸崎会員は、同報告においてふたつの目的を示した。ひとつは、分科会における研究のステップ・アップを目指して「サブシステンス志向」の含意を明確にすること。そしていまひとつは、サブシステンス志向の「二つの可能性」、すなわちサブシステンス概念はどこまで使えるのか、またこの切り口での研究会と分科会の運営についての可能性を議論することであった。
サブシステンスに関する研究は、第三世界の状況を打開するための開発や経済発展がかえって人びとの暮らしと環境を圧迫してきたという観点から、より根源的な視点としての、衣食住=サブシステンス、というところにたどり着くことからスタートした。研究はイヴァン・イリイチとマリア・ミースのサブシステンス概念を参照点としながら進められた。その成果のひとつ、サブシステンスをキーワードにして著された『環境を平和学する!』のサブシステンス概念に、あるズレが存在することが戸崎会員により指摘された。
それはサブシステンスを「世界システムの蓄積基盤としての非資本主義的領域での生命維持経済」とみる理解と「自然生態系のなかで人間社会を維持し、再生産していく仕組み」とみる理解との間のズレである。前者から派生するのは、サブシステンスの再構築が、世界システムを持続させる可能性である。だが後者から見えてくるのは、世界システムに分断されて押しつぶされながら、それらのパラダイムを転換していく方向を指し示す対抗概念としてのサブシステンス視座である。
このズレを検討する中で本報告では、サブシステンスと深い関係にある市場経済が検討されたが、サブシステンス志向は環境問題を重視する一方で、市場を排除するものではないとされた。また、自己調節的市場とセーフティネットのグローバリゼーションによる破壊が指摘された。
次に戸崎会員は、現代資本主義と矛盾の転嫁について、それは自由貿易と開発主義という政策が可能にしたと指摘した。それは、これらの政策が、大量生産・大量消費というスタイルの両端にある資源枯渇・捨て場の枯渇を他地域、他社会に転嫁するものであるという主張であった。
一方でこれまでの研究に欠けていた観点も提起された。それは金融資本の肥大化やミースらの主張する近代化・工業化によって進行する生産的および消費的「主婦化」の問題であった。
これらをふまえて、サブシステンス志向の具体化として、国家と市場経済のふたつのシステムに対抗する自発的で自立的なアソシエーションのネットワーク、そして市場経済の組み替え、方向転換としての循環型社会、生命系に基づいた経済過程を制度化する社会システムを目指していかねばならないとして、同報告は結論づけられた。
また、研究会の今後として、新たな出版計画について、その構成の一案が示された。
戸崎会員のこのような報告を受けて、討論者の栗田会員からは、ふたつの論点が出された。ひとつは、あえて平和学的視点としてのサブシステンス定義を用いる理由についてであった。今ひとつは、サブシステンスの定義でも用いられた「本来性」の中身が主体性との関連で曖昧であるというものであった。
これに対して、戸崎会員からは、サブシステンスは衣食住から始まり物質と生命の循環と環境問題、パラダイム転換をも包摂する視点であり、単なる自給自足として捉えるべきではないという反論がなされた。また、本来性については、主体性という視点が重要で、それを発見し、その特殊性を民衆の共通認識に組み替えていくことが学会や分科会に求められているものではないかという議論が提示された。
会場からは、サブシステンスには、民主主義の根本である自分を主張できるという側面があり、一方で現在の問題は自己主張ができないことではないかという問題提起がなされた。また、サブシステンスと内発的発展の違いは何かという疑問点、サブシステンスとは「我慢できる最低限の暮らし」ではないかと言う意見、サブシステンス志向がもっと具体的に戦争をストップするようなものでなければという意見などが出された。
本分科会では平和学的視点としてのサブシステンスの重要性が確認され、参加者に共有された。また可能性と同時に、いくつかの課題と今後の道筋が明示されることとなった。(蓮井誠一郎)